Cub Stories

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Special生産累計1億台達成記念
特別寄稿

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スーパーカブの信頼性が神話を生んだベトナム

ただし、唯一まったく思いがけない展開をみせた国があった。ベトナムである。
「スーパーカブのパラダイス」と呼ばれて久しいベトナムに、大量のスーパーカブが初めて登場したのは1960年代半ばと伝わる。当時、南ベトナム政府に加担してベトナム戦争に介入していたアメリカ軍が、南ベトナム政府への経済援助のひとつとして2万台のスーパーカブを購入したのである。

戦時下の南ベトナムに向け多数のスーパーカブが海を渡った。高い耐久性、信頼性がスーパーカブ天国を築く基礎となった(写真はホンダ社内報ポールポジションより)。

戦時下の南ベトナムに向け多数のスーパーカブが海を渡った。高い耐久性、信頼性がスーパーカブ天国を築く基礎となった(写真はホンダ社内報ポールポジションより)。

なぜ、スーパーカブであったのかを想像するのはやさしい。アメリカにおけるスーパーカブ大ブームを知る世代が当時のアメリカ軍の兵士だったからだろう。南ベトナムの首都であった熱帯都市サイゴン(現ホーチミンシティー)でシティーコミューターとして便利なのはスーパーカブだという選択はむべなるかなというものだ

しかし、長くフランスの植民地であったベトナムでは、ヨーロッパ製2ストロークエンジンのモペッドやスクーターが多く走っていたので、4ストロークエンジンのスーパーカブにオイルを混合したガソリンを給油するというトラブルが多発した。

そこでホンダは、1967年にホンダ・サイゴン駐在員事務所を開設して、このトラブルに対処したのである。スーパーカブのお客様がいるところならば戦火のサイゴンであっても駐在員を送り込み、スーパーカブの品質を守ろうというのは、「お客様第一主義」を貫く当時のホンダらしい判断であった。
しかも、人員5名程度のホンダ・サイゴン駐在員事務所は、懸命のサービス活動を展開するだけではなく、販売網を広げ宣伝広告活動を盛んにおこなった。ベトナム版「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」までやった。

こうして1967年から69年までの3年間で、約75万台のホンダ二輪が南ベトナムに輸出された。そのほとんどがスーパーカブであった。「1日で1万台以上のオーダーをした日もあり、日本の本社からは〈桁が違う。本当か?〉と、いつも確認された」と当時のホンダ駐在員は語り残している。

経済封鎖時代、さらに証明された耐久性

スーパーカブは生活に密着しており、新旧モデルが入り乱れ今日も元気に走り回る。

スーパーカブは生活に密着しており、新旧モデルが入り乱れ今日も元気に走り回る。

南ベトナムに3年間で75万台を消費する経済力があったのかという疑問が浮かんでくるが、この当時の南ベトナムには最大で約55万人のアメリカ軍兵士がいた。65年からの10年間で南ベトナムに投入された アメリカ軍兵士は延べ260万人である。
南ベトナムにアメリカドルで給与をもらうアメリカ人は軍と民間あわせると、いったい何十万人いたのか。300ドル程度のスーパーカブは彼らにとって廉価で手軽なモビリティーであったのだ。75万台のスーパーカブが売れた経済的な理由は実はここにある。

この75万台のスーパーカブにまつわる物語は、もうひとつ歴史的な転回をする。
1975年にサイゴンが陥落し南ベトナム政府が崩壊すると、戦争に負けたアメリカ軍はすべてベトナムから撤退してしまう。
膨大な数のスーパーカブが統一されたベトナムに乗り捨てられ、ベトナム の人びとの手に渡っていく。ベトナムの「スーパーカブのパラダイス」は、ここから始まるのであった。

アメリカ政府は1979年に〈ベトナム経済封鎖〉をおこない、同盟国にも同調を求める。この経済封鎖はエンバーゴと呼ばれ、およそ16年間続くことになる。当然、ベトナムはスーパーカブも部品も輸入できなくなった。
しかし、この長い16年間は、ベトナムの人びとがスーパーカブの絶対的な信頼性と耐久性を体験する時間になった。つまりスーパーカブが本当に燃費がよく壊れにくいことが証明された16年間であった。この時期、ベトナムにはスーパーカブの部品を製造する小さなメーカーがあったという。また何らかの方法で年間2万台程度のスーパーカブがベトナムに流入していたという説もある。

そしてベトナムの人びとはスーパーカブを、自分たちのモビリティーであると日々の生活の中で確信するにいたる。こうしてベトナムの人びとにとってスーパーカブは、かけがえのない信用できるモビリティーになった。
「スーパーカブのパラダイス」は、こうして生まれた。