Cub Stories

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Special生産累計1億台達成記念
特別寄稿

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Vol.3海外展開編

スーパーカブの大成功に奢ることなく

1958年の発売開始以来、国内で好調な成長を続けたスーパーカブ。当初スーパーカブ自体の海外への大々的な展開は考えられていなかった。しかし「潜在的大市場・アメリカ」への展開で厳しい壁に突き当たったとき、ホンダの絶望的な危機を救ったのがスーパーカブだった。

スーパーカブが日本で新発売されたのは1958年(昭和33年)である。
ホンダ創業者のひとりで経営と営業の最高責任者であった藤澤武夫(1910 - 1988)がプロデュースし、開発プロジェクトのゼネラル・リーダーは創業社長で叩き上げの技術者である本田宗一郎(1906 - 1991)その人だった。
〈誰でも気軽に乗れるスマートな二輪で、乗って走れば快適で、しかも廉価〉という、よく練られた商品企画を、あますところなく商品化したスーパーカブは、たちまち大ヒット商品になる。新発売年は5か月で2万4千台が売れ、発売2年目は年間約16万7千台で、その年に日本で販売された二輪車総台数の約60%がスーパーカブだった。発売3年目の生産台数は約56万台に跳ね上がり、凄まじい人気車種になった。
当然のことながらスーパーカブはホンダに巨大な利益をもたらした。そのとき藤澤武夫が構想した経営施策は、実にホンダらしいダイナミックな世界戦略であった。

常に先を読んだ商品開発を行った本田宗一郎。藤澤武夫もまた、先を読んだ海外展開を決定する。開発も販売も常に先を見て、あえて困難に立ち向かう。写真は1973年撮影。

常に先を読んだ商品開発を行った本田宗一郎。藤澤武夫もまた、先を読んだ海外展開を決定する。開発も販売も常に先を見て、あえて困難に立ち向かう。写真は1973年撮影。

まず最初に資本金を2倍に増資して、最新設備を入れた鈴鹿製作所の建設を決定し、万全の生産体制と盤石な品質管理体制を整えると、ただちに海外展開に着手したのである。
「浮き沈みが激しい日本経済だけに依拠していたのではホンダの経営が安定しない。ホンダの夢は、世界中の人びとの生活を楽しくする乗り物を生み出して、世界一にチャレンジすることだ。だからこそ海外へと展開しなければならない」
藤澤武夫はこう考えて、すでにスーパーカブ発売2年前の1956年から海外市場の調査を進めていた。

その調査結果は〈ヨーロッパは二輪の年間販売200万台の大市場で、東南アジアは現状わずかだが将来きわめて有望な市場。アメリカは二輪の人気がなく年間6万台しか売れていない。〉であった。当時のアメリカ社会では、バイクライダーはアウトローであり、〈ブラックジャケット〉と呼ばれていた。ようするに二輪は評判のいいモビリティーではなかった。ところが、この報告を分析した藤澤武夫は「最初はアメリカだ」と判断した。

あえて選んだのは、困難が予想されるアメリカ

なぜアメリカへ最初に進出するのか。なぜ年間200万台市場のヨーロッパではなく、成長市場の東南アジアでもないのか。実際「アメリカが、いちばん難しい市場かもしれない」と藤澤武夫は認めていた。だが、チャレンジするならば、いちばん難しいことから始めるのが当時のホンダ・スピリットであった。日本国内のレースを制覇していないのに世界グランプリ・マン島TTレースへ挑戦したように、傍目からは無謀と見える困難きわまりないテーマにチャレンジするのが若いホンダの流儀だった。しかも、その無謀と見えるチャレンジにはつねにまっとうな理由があった。

当時のアメリカの人口は日本の約2倍で、およそ1億8千万人である。そのアメリカは第2次世界大戦後、世界の覇権を握り、1950年代から60年代にかけて史上最高の豊かな国になった。食料もエネルギーも豊富で、全土にフリーウェイが敷かれクルマは大型化し、生活必需品は次々と電気製品となり、人びとは豊かな生活を満喫する消費者だった。しかし、二輪が生活にもたらす本当の楽しさをまだ知らない国であると、藤澤たちは考えたのだ。

そのような世界一の消費力をほこるアメリカで二輪が売れ始めたら、巨大な二輪市場になることは目に見えていた。だからこそ最初にアメリカ進出にチャレンジすべきと藤澤武夫は考えた。アメリカで成功するには並大抵ではない苦労があるだろうが、成功すればリターンは、あまりにも大きい。
藤澤武夫はもっと先の未来をも見通していた。二輪の販売でホンダのブランドがアメリカに浸透したら、汎用製品も売れるであろうし、やがてホンダが生産を開始する予定の四輪の巨大市場となるだろう。アメリカへ進出すれば、世界最大の消費市場の人びとの好みを肌で知ることができるから、二輪に限らずアメリカ向けのモビリティー商品を開発することが可能になる。