Cub Stories
本田宗一郎と藤澤武夫が欧州渡航を経て
辿り着いた日本のバイクの姿
モペッドか、スクーターか。次回作へのヒントを得ようと欧州へ渡航した本田宗一郎社長と藤澤武夫専務。
しかし、彼らの目に映ったのは、国情の違い、小型バイクの使われ方の違い。
確信したのはもっと上をいく新機軸の小さな二輪車の必要性だった。
時代のプライオリティを求める旅が始まった。
1956年の暮れから57年の年初、ヨーロッパ視察を通じて社長の本田と専務の藤澤には、おぼろげながら、これから作るバイクへの思想と概念が固まりつつあった。モペッドではない。スクーターでもない。この「でもない」という導きの先にあるのは、いまの日本人が本当に求めているもの。日本ならではの、ホンダならではの、まったく新しい使い勝手とスタイリングではないか。また同時に会社の基盤を支えていくものでなくてはならない。それは、ふたりの幹部の帰りと決断を待っていたスタッフたちの、おおよそ予見するところでもあった。
「この頃、社内でいつも話し合っていましたが、『エンジンの大型化も大事だが、ホンダの原点である大衆的な小型車こそ創るべきではないか』というのが皆の一致した意見でした」(トランスミッション設計担当・秋間 明)
帰国したふたりから絞られた開発の要件として、「手のうちに入るものをつくる」「使い勝手のよいものをつくる」が掲げられた。さらに具体的な案件として、4つの項目に分類することができた。
- ● エンジンは、高出力、静粛性と燃費に優れた4ストローク。
- ● 車体は女性も乗り降りしやすいカタチとサイズ。
- ● ギアの操作でクラッチレバーを必要としないシステムの構築。
- ● 先進性のあるデザインで、かつ親しみやすく、飽きがこない。
1956年11月に入社したばかりの工業デザイナー、木村讓三郎はこれらの指針を聞いた時のことを述懐する。
「親父さん(本田宗一郎)は『日本の道路は悪いから、エンジンは4馬力にしなければならない』と『悪路でも乗りやすい、頑丈なものを作らなければならない』と言った。藤澤さんは『誰でも扱えるようなもので、とくに女の人が乗りたくなるようなバイクだ。エンジンが露出していないもの』とおっしゃった」(木村)
1957年早々に動き出したのはエンジンの開発。50ccのOHV4ストロークエンジンは世界初の試みだった。まだ悪路ばかりの道路事情を頭に入れて、低速でも操作のしやすい安定した粘りのある動力特性を担うことが求められた。
「この4馬力は、とてつもない要件です。それまでの50cc2ストロークエンジンのF型カブは1馬力ですからね。一挙に4倍にしろと言ったわけです。日本の主要道路の舗装率が10%ぐらいの時代です」(木村)
エンジン設計のチームが開発を推進する立場をとり、検討段階で、車体の構造を考慮しながら水平エンジンのアイデアが固まっていった。エンジンを露出させず、跨ぎをよくするには、水平に置く方策がベストと考えられたのだ。フレームも大胆にローサイドを通して、跨ぎやすくした。当時流行っていたスクーターの類型を派生させたかのように、細身=跨ぎやすいという前提で検討が進められた。
エンジン開発スタッフはオーバーヒートを防ぐために、シリンダーヘッドのカバーに放熱のための穴を開けたり、メーカーに頼み込んで規格外のプラグを別注。常識を覆すアイデアを次々に取り入れて、4.5馬力/9500回転という当時としては圧倒的な高回転・高出力を実現した。
そしてエンジン開発とほぼ同時に進められたのが、遠心式自動クラッチに連動するトランスミッションだった。左手グリップからクラッチレバーを取り払い、右手と左足とでギアチェンジ操作できるという画期的なアイデアだ。いわゆる本田宗一郎の発想の言葉としてよく語られる『そば屋さんの出前持ちが片手で運転できる』バイクの実現。
「遠心クラッチ自体は難しくないのですが、変速操作と連動してクラッチをいかに断接させるかが難問でした。さらにキックスターターの回転比の関係で、静止時にはクラッチが切れていながら、スタート時には接続している必要があったのです」(秋間)
この、一見すれば相反するような条件を満たすような構造のために、なかなか良案に行き当たらない。本田宗一郎も気がかりで日々思いめぐらせていたようだ。毎朝のように『どうなった?』と設計室へ入ってきたという。
「ある時、私は『ネジを使えばキックの回転を軸方向に変換できますが、共回りしてうまくいかないでしょう』と言って別れました。そのあと、『クラッチは引きずりがあるから共回りしないかもしれない』と考え直していると、親父さんが走るように戻られて『クラッチは抵抗があるから、うまくいくんじゃないか!?』とおっしゃる。私も考えていたことをお話すると『たまには意見が一致するなあ!!』と大笑いでした。結局その方法で問題は解決して、毎朝の訪問からも解放されました」(秋間)
常套化していた本田宗一郎の入室だったが、そもそもの端緒はいつも担当同士の議論だった。時には部署を超えての意見が交わされていくうちに、気にとめた本田が加わる場合がある。理想の機構を究明するためには、担当、年功を越えて、みな胸襟を開いていた。論議が白熱してくると、ふとした閃きを感じてチョークで描きだした本田の構造の絵図は黒板からはみ出して床面へ達していったという。そうなると、なんだ?なんだ?とすぐ人だかりができてきて、そのうち誰かが口をはさむと、後は部署も担当も関係なく、まわりがてんでに意見を言い始める。そういう中で、徐々にアイデアが形になっていったという。ホンダの社風を現すワイガヤ(ワイワイガヤガヤ会議)の原型といえる自由闊達な議論と雰囲気。時には、ヒートアップしすぎて、個々が激昂。さらに本田の『馬鹿野郎!』もたびたび飛び出したという。
「自動遠心クラッチは新しい便利な機構ですから、一朝一夕でいかず、時間がかかる困難な開発になったのは当然です。担当の秋間さんは絶対に諦めずに粘りに粘って8案までやった。その甲斐があったと思います。あれこそがスーパーカブの大きな特徴で、便利で使い勝手のいい、女性が乗りたくなるものになった」(木村)