Cub Stories

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Special生産累計1億台達成記念
特別寄稿

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「これなら3万台はいくね!」
スーパーカブが時代を超えて走り始めた

「これなら3万台はいくね!」スーパーカブが時代を超えて走り始めた

いよいよ骨格と外装が形になると、もうひとつ大切なユーザーへのアピールである商品名についても、なにを謳い、訴えかけるのか? 検討を重ねていった。

「造形室にはF型カブのロゴマークの印刷ゲラがいっぱいあって、それが凄くいい。私は工業デザイン的に機械をいじったりするのは得意なのですが、商業デザイン的なものは得意ではないので、このF型カブの名前とロゴマークを使ってみようと思った。当時、スーパーという言葉はとても新鮮な響きがありましたから、スーパーカブだと。そのエンブレムのスケッチを描いて親父さんに見せたら『おっ、いいじゃねえか!』と一発で決まった。それを営業スタッフのみんなも抵抗なく使ってくれたのです」(木村)

カブを超えるスーパーなカブ、時代を飛び越えて新しく創るような勢いあるこのネーミングは、勢いで決めたかのようなエピソードも若いホンダの気風を表しているようで興味深い。

1957年12月の終わり、成形を担当した化成課スタッフたちが心血を注いで構成した最終のモックアップが完成。食堂の机にベニア板を敷いて鎮座ましますモックアップを前に、呼ばれた専務の藤澤は驚嘆の声を挙げる。

「これなら3万台はいくね!」スーパーカブが時代を超えて走り始めた

「これなら3万台はいくね!」

当時、二輪車すべての販売台数は月に4万台ぐらい。聞いた開発スタッフたち、もちろんそこには本田宗一郎もいたわけだが、3万台は年間だと思い、それでも3万台という数字にどよめきは起きた。ところが。

「年間3万じゃない、月間3万台だよ!」

一同が藤澤を凌ぐ驚嘆の声を挙げたことは想像にかたくない。その後藤澤の予想を遥かに超えて世間を驚かすことになる。会社経営の実務を担い、経営基盤を支える新機軸の出現を十分確信したであろう藤澤専務は、ここから得意の販売戦略を練り込んでいく。販売へ向けてディティールを煮詰める本田宗一郎、開発スタッフたちを叱咤激励しながら。

「親父さんは経営者でもあるのですが、そこで凄いのは『お前たちはコストにこだわるな』と言ってくれたことです。あくまでも『コストは生産で取り返すのだから気にするな』と。こうまで言われれば、私たちは大船に乗った気持ちで、徹底的にチャレンジできるわけですよ」(木村)

1958年8月、ホンダ・スーパーカブC100発売開始。葉月の陽の光を浴びて、輝きはじめた。

スーパーカブが発売された1958年のホンダ社報に藤澤専務は誕生秘話を寄稿した。

スーパーカブが発売された1958年のホンダ社報に藤澤専務は誕生秘話を寄稿した。