チャレンジの軌跡
世界企業への成長。
新時代に向けての飛躍
シティのヒットを筆頭に四輪車の主要商品がベストセラー化。
海外においては現地生産体制の拡充が加速する。
二輪車ではファミリーバイク市場の激しいシェア争いが続いた。
またこの時代は、世界企業に向けて飛躍するための仕込みも行われ、
世界各国をネットワークで繋ぐ特質補完体制の構築が進められていく。
1980年代の日本
オイルショックの影響で不況が続く中、日本の輸出産業競争力は格段に向上。自動車においては日本からの輸出超過が日米貿易摩擦として問題化した。1985年のG5におけるプラザ合意以降、円高は急激に加速。日銀の超低金利政策によって資産が株式市場に流れ込み、1989年には日経平均株価が史上最高値に達するなど、いわゆるバブル景気へと発展した。
バブル期の日本で空前のブーム。社会現象を巻き起こす
第2期 F1参戦(1983年)
「レースはホンダの企業文化です。勝ち負けではなく、ホンダ車に乗っていただいているお客さまに、最高の技術をお見せするため、そして楽しんでいただくため、レース活動を再開します」という河島喜好の言葉通り、他の追随を許さぬマクラーレン・ホンダの活躍に日本中が沸いた。1988年の全16戦15勝、1991年の4年連続ダブルタイトル獲得といった金字塔を打ち立てる。
その後のベンチマークとなったザ・スクーター
タクト(1980年)
市場でのシェア競争が激化する中、登場したタクト。折よく女性の社会進出が急進した時代と重なり、ファミリーバイクとして女性を中心に爆発的にヒットした。1986年の原動機付自転車ヘルメットの着用義務化を受け、1987年、「メットイン」スペースをシート下に備えるタクトフルマークを発売。スクーター構造に革命を起こし、他社を含めて必須の構造になっていく。
欧州を始め、日本でも新市場を掘り起こした
ミニティラーこまめ F200(1980年)
農業の先細り感が進む反面、家庭菜園などへのニーズが膨らむといった傾向が見え始めていた世の中で、「アマチュア・ホビーガーデン用の入門機」というコンセプトをもとに開発。大型耕うん機にはないかわいいコンパクトな見た目と、それに似合わぬ高い性能が受け、ピーク時には国内のみで年間5万台が売れるという、ベストセラー商品へと成長した。
個性的なスタイルとTVCMで日本を沸かせる
シティ(1981年)
「シティは、ニュースにあふれてる」というキャッチフレーズで登場。TVCMでは英国バンドのマッドネスが踊る奇妙なムカデダンスが話題を呼び、多くのマスコミに取り上げられた。限られたスペースで広い居住空間を確保するトールボーイ・デザインや、トランクに搭載できるバイク「モトコンポ」の同時発売など、画期的な提案で大ヒットを果たす。
リッター100馬力に挑戦した夢のエンジン
VTEC(1988年)
次世代のエンジン技術は何か。ホンダが自らに課したその命題に答えるべく、さまざまな困難を乗り越え、吸・排気バルブのタイミングとリフトを同時に切り替える画期的な「VTECエンジン」が誕生。1989年、フルモデルチェンジしたインテグラに初めて搭載されたこのエンジンは、市販四輪車用エンジン世界初の「リッター当たり100馬力」を実現したことで世界からの注目を集めた。
- ・ダイエー、小売業で
日本初の売上1兆円 - ・日米五輪委、モスクワ
五輪不参加を決定 - ・自動車部品輸入関税の
原則撤廃
- ・対米乗用車輸出を
年間168万台とする
自主規制開始 - ・自動車生産台数
2年連続世界1位
二輪車生産741万台で
史上最高
- ・東北上越新幹線開業
- ・中央自動車道全線開通
- ・フィリップス、世界初のCD
(ソニーとの共同開発)を
生産開始
- ・東京ディズニーランド®が
開園 - ・任天堂、「ファミリー
コンピューター」を発売 - ・無鉛ハイオク
ガソリン発売
- ・グリコ・森永事件
- ・物品税、自動車税、
軽自動車税引き上げ - ・自動車運転免許保有者が
5,000万人突破
- ・5カ国蔵相中央銀行
総裁会議(G5)
ドル高是正の
市場協調介入で合意
(プラザ合意) - ・日本電信電話会社(NTT)、
日本たばこ産業会社(JT)
発足 - ・軽自動車保有、
1,000万台突破
- ・男女雇用機会均等法施行
- ・原動機付自転車一種、
ヘルメット着用義務化 - ・自動車保有台数
5,000万台突破
- ・国鉄が分割・民営化
- ・NTT、初の携帯電話
サービスを開始 - ・米ニューヨーク
株式市場で大暴落
(ブラックマンデー)
- ・日本初の屋内球場
「東京ドーム」完成 - ・総合デジタル通信網
(ISDN)サービス
を開始 - ・フロン規制法施行
- ※13:シティとモトコンポの発売により、四輪車に二輪車を搭載して行動することで、バイクの機能とクルマの機能が掛け算的に広がり、アウトドアライフの新しい使い勝手を創りだすことを提唱した。これは二輪車、四輪車を持つホンダの強みをフルに発揮した世界で初めての試みであった。
- ※14:リッター当たり105km*の低燃費を実現したスーパーカブは、1982年にはリッター150km*、さらに1983年にはリッター180km*の超低燃費を実現したタイプを発売している。
*:いずれも30km/h定地走行テスト値・50cc車。 - ※15:ホンダは「需要のあるところで生産する」という考えのもと、生産の現地化を進めていたが、世界最大の自動車大国である米国においては、SEDすべての現地化による体制強化が必要と考えた。そこで、1984年に開発部門のホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(1986年にホンダR&Dノースアメリカ:HRA)を設立した。
- ※16:燃料電池・ロボティクス・航空機および航空機エンジンなど、未来を見据えた多様な研究が行われた。これらは、実用化に向けた開発が進められ、一部はすでに製品化されている。航空機の研究開発は、基礎研究所から量産開発組織に移行して続けられ、2015年末にHondaJetとして製品化した。
- ※17:1986年、ホンダはパリ・ダカールラリーにファクトリーレーサーNXR750を投入し、1989年まで4年連続優勝を果たした。アフリカツイン(XRV650)はそのNXR750譲りのテクノロジーを継承したアドベンチャースポーツモデルとして1988年に上市。NXRの装備とイメージを具現化し、エンジンはトランザルプ600Vと同じ水冷52°V型2気筒583cc、SOHC3バルブ2プラグだった。1989年と1990年には、このXRV650に乗って一般公募のライダーがパリ・ダカールラリーに参戦するオブジェ・ダカールをホンダ・フランスが企画。XRV650は市販車無改造クラスで2年連続優勝し、ヨーロッパを中心にその人気を拡大させた。