Cub Stories

前代未聞、女性誌にスーパーカブの広告が載った

こうして週刊誌を舞台にしたスーパーカブの連続広告が好評を呼ぶと、いよいよ女性誌への広告展開が始まった。尾形氏はそのときの「世間にあたえた衝撃」を、こう言っていた。
「女性誌にオートバイの広告が掲載されるのは、当時では前代未聞のことでした。出版社の人たちも驚いた。それらの広告がよほど珍しかったのか、いまでは印刷博物館の所蔵品になっているぐらいです」

女性誌で展開されたスーパーカブ広告の特徴は、写真が断然美しいことだ。週刊誌の展開のときは1ページ広告でスナップ風の写真が多かったが、女性誌では斬新なカラー写真の2ページ見開き広告ばかりである。そこに登場してくる女性はアクティブライフを楽しむ新時代の女性像として描かれている。それはフェミニズムの先駆と言っていいほどの猛烈な先進性があった。
波のたつ広い砂浜をスーパーカブに乗った女性が疾走する空撮写真の『ダイナミックな青春の空間』篇、林のなかでハンモックに寝て読書する『ちょっと高原へ』篇、海岸で砂浴を楽しむ女性の『太陽がいっぱい』篇、女性スキーヤーがスーパーカブに引っ張られて遊ぶ『カブで直行!』篇、スーパーカブに乗る女性と連れ添って立っている男性が水面に映る『散歩のおしゃれ』篇、春の土手をスーパーカブで走る女性の『ツイさそわれて』篇、夏のプールで遊ぶ『涼しさにのる』篇など話題作が次々と制作された。

きわめつけの一篇は、パステルカラーのピンク色の空を背景にウエディングドレス姿の女性がスーパーカブのタンデムシートで運転する男性に寄りかかる『六月の花嫁』篇だ。「幸わせなカップルを乗せて! エンジンの音も軽やかに‥」と書いて、当時の流行語であるジューンブライドそのものだった。

製品の本質を宣伝する広告活動もスーパーカブ躍進の力のひとつ

女性誌への広告展開でわき起こった興味深い裏話を、尾形氏は語り残している。
「スーパーカブが欲しいと思った女性がホンダ販売店に行くわけです。ところが、そこは油臭いお店で、無愛想なオヤジさんがいる。このオヤジさんは男のオートバイ乗りの指導教官にして頼もしいボスなのですが、女性のお客様がご来店したとなると、どうしていいかわからない。女性のお客様もびっくりするやら、おっかなくなるわけで、話も早々に逃げ帰る。こういうことが勃発して困っていると藤澤さんが言うので、私たちは考えた。それでハートマークや花や鳥をプリントした可愛らしいエプロンをこしらえて全国の販売店に配ったのです。このエプロンを販売店の奥さんにつけてもらって女性のお客様の接客をすればいいという作戦でした」

こうしてスーパーカブ発売3年目のクリエイティブな宣伝広告活動をみてくると、そこには時代的先見性があることがわかる。週刊誌で展開した広告には、スーパーカブが1台あれば、仕事と日常生活のどちらでも時間の効率的活用ができ、行動範囲を大きく広げて生活が楽しくなることがアピールされている。これは今日の言葉で言えばワーク・ライフ・バランスである。また、女性誌での広告展開の軸になっていた女性のアクティブライフを応援する姿勢は、今日の言葉にあえてすればジェンダーレスであり、ひいてはスーパーカブがダイバーシティーの実現に寄与するモビリティであることを主張するものであった。
つまりそれはスーパーカブが、いまから半世紀以上も昔に、現代社会にも通用するモビリティであることを証明していたということである。
そのことが藤澤武夫と尾形次雄氏がやってみせたスーパーカブの宣伝広告活動ではっきりとわかる。そのモビリティ商品が市井の人びとに歓迎されたことでホンダは成長してきたが、商品の本質をよりよく宣伝広告する力があったことは忘れがちである。

大々的な宣伝広告活動が功を奏してスーパーカブは全国津々浦々で売れに売れた。一家に1台のモビリティとして日常生活と仕事に大活躍する。発売3年目の1960年(昭和35年)には鈴鹿製作所が操業を開始、生産台数も56万4千台と飛躍的な伸びを見せ、藤澤が言った「月に3万台」を軽く超えた。翌年ホンダは単独企業で二輪車の生産台数が世界一になるのだが、スーパーカブが大きな割合を占めた。8年目の1966年(昭和41年)には生産累計500万台を突破した。スーパーカブは見事に市井の人びとのモビリティになり、日本の風景の一部にさえなったのだ。

スーパーカブの宣伝広告には、もうひとつ伝説がある。それはスーパーカブをアメリカで販売開始した直後の1963年(昭和38年)に、アメリカで展開された『NICEST PEOPLE(ナイセスト・ピープル)』キャンペーンのことだ。このキャンペーンの成功によってスーパーカブはアメリカにおいてもヒットモビリティ商品となるのだが、そのキャンペーンを構想する資料として、藤澤武夫と尾形次雄氏が制作した日本国内での一連の宣伝広告がすべてアメリカホンダへ送られ基本コンセプトになったことはあまり知られていない。スーパーカブの宣伝広告もまた国境を越えたのである。

スーパーカブ50周年記念車のカタログには記念すべき第1回で使われた「ソバも元気だおっかさん」の蕎麦屋さんが再び登場。

スーパーカブ50周年記念車のカタログには記念すべき第1回で使われた「ソバも元気だおっかさん」の蕎麦屋さんが再び登場。

尾形氏自ら、当時まだ少女だった兵隊家の女将さんに記念品を進呈した。

尾形氏自ら、当時まだ少女だった兵隊家の女将さんに記念品を進呈した。

1971年、鈴鹿製作所の二輪車生産は累計1000万台を突破。本田宗一郎は満面の笑みでスーパーカブに跨がる。

1971年、鈴鹿製作所の二輪車生産は累計1000万台を突破。本田宗一郎は満面の笑みでスーパーカブに跨がる。

アメリカでバイクの価値観を大きく変えた有名な一大キャンペーン『NICEST PEOPLE(ナイセスト・ピープル)』。その原点は藤澤、尾形コンビが日本で作り上げたスーパーカブのイメージ戦略であった。

アメリカでバイクの価値観を大きく変えた有名な一大キャンペーン『NICEST PEOPLE(ナイセスト・ピープル)』。その原点は藤澤、尾形コンビが日本で作り上げたスーパーカブのイメージ戦略であった。