第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第4節 欧州・アフリカ・中東 第1項 欧州

第4節 欧州・アフリカ・中東
第1項 欧州

モビリティーの本場・欧州を目指したホンダは
最初から険しく困難な道のりを進むことになった。
欧州は複雑な歴史を持つ民族国家の集合体であり
モビリティーの歴史は長く、人々の価値観や生活水準もまた多様である。
規制や現地の壁に直面しつつも、ホンダは何度も挑み続けた。
現地の人々とともに働き、地元企業と信頼関係を築き
各国の文化を理解し、貢献することで社会に根を下ろしていった。
新しい時代を迎えた欧州で唯一無二のホンダブランドを確立していく。

二輪車の本場・最大市場の欧州へ挑む

 アメリカで世界企業としてオートバイの販売を軌道に乗せ始めたホンダは、間髪入れず欧州に乗り込んだ。1961年6月、旧西ドイツ・ハンブルクにおけるヨーロッパ・ホンダ・モーター(以下、EH)*1の設立である。当時、欧州は二輪車の本場といわれ、二輪車市場は、供給国であるイギリス・ドイツ・フランス・イタリアと、完成車輸入および輸入して自国で組み立てる消費国のオランダ・デンマーク・スウェーデン・スイスと、大きく二つに分かれていた。いずれにおいても、大衆の交通の手段として二輪車は重要な役割を果たしており、当時日本を除く世界の保有台数の85%を占め、年間需要は200万台超となっていた。 
 EH設立の2年ほど前、オランダ・アムステルダムで開催されたモーターサイクルショーに出品されたドリーム号は、あるイギリス人記者に、「欧州の一流メーカーと堂々と肩を並べられる」と高く評価された。そして、1961年6月のマン島TTレースで悲願の初優勝を果たすと、ホンダのオートバイがモーターファンの耳目を集め、ロンドンにあった代理店にホンダ車を扱いたいというサブディーラー希望者が殺到する騒ぎが起こった。この時点でホンダはすでに二輪車の生産量と輸出台数では世界一となっていた。
 欧州を新たに開拓すれば、名実ともに世界一の二輪車メーカーになれる。そのチャンスは今、手を伸ばせば届くところにあるようにも感じられた。しかし当時、日本のメーカーで欧州に挑んだ企業はない。EHの設立は、BMWやNSU(後の自動車メーカー)という伝統あるメーカーを誇る旧西ドイツをあえて拠点に選び、自前の二輪車で真っ向から臨もうという、世界に向けたホンダの大胆な戦略だった。

  • :後のホンダ・ドイッチェランド
欧州進出最初の拠点となったEH

欧州進出最初の拠点となったEH

立ちはだかるEECの壁にホンダが下した欧州生産の決断

 欧州を代表する商業都市ハンブルクにホンダが進出するというニュースが報じられると、真っ先に現地の日本大使館が歓迎の意向を伝えてきた。ホンダ車は旧西ドイツ国内で非常に人気があり、技術力は一目置かれているということだった。すでに欧州にはホンダ車が輸出されており、アフターサービスの充実と自前の販売網構築に取り組まねばならなかった。折しも1958年1月、EEC(欧州経済共同体、後の欧州連合〈EU〉)が発足。加盟6カ国(ベルギー・フランス・旧西ドイツ・イタリア・ルクセンブルク・オランダ)内で関税を撤廃して共同市場を成立させる一方で、域外からの輸入に高い関税障壁や規制を課していく方針が打ち出されていた。EEC経済ブロック圏が固まってしまえば、域内への輸入には高い関税が課されることが懸念される。EECへの対応は今後のホンダの海外戦略において重要なカギを握っていた。専務(当時)の藤澤武夫は、総務部次長(当時)の岩村英雄に、EEC域内で二輪車生産・販売を行う現地法人の設立を前提に、市場調査を行うよう命じた。岩村は突然の命令に驚きと戸惑いを感じつつ、こう進言した。
 「これは、ホンダの将来にとっても大変重要な問題です。きちんとした体制をつくって対応させてください」
 藤澤は、「すべておまえに任せるから、好きなように考えてみろ」と答えた。
 1962年1月、岩村と資材部埼玉直材課長(当時)の岡安健二郎、人事部研修課長(当時)の岩瀬哲也3名でのEECへの企業進出プロジェクト特別計画室が組織される。
 3人は、欧州の二輪車事情の現地調査をスタートさせた。当時の欧州の二輪車市場は年間200万台超と推定され、そのうちの約8割をモペッド*2が占めていた。モペッドは16歳以上ならば免許が不要でさまざまな優遇措置も受けられるため、欧州では広く普及していた。当時の日本の二輪車市場の年間150万台と比べても、欧州市場は成長の可能性が十分にある。3カ月ほどの欧州視察を経て、賃金ベースの高い旧西ドイツ・フランスは生産拠点の候補から除外され、ベルギーに絞られた。ベルギーはドイツ車に部品を供給するメーカーが多いが、労働者の賃金水準は比較的低い。調査団の訪問を機に、ブリュッセルにほど近いベルギーのアールスト市が、熱心にホンダに誘致を働き掛けてきたのが決定的な要因となって、アールスト市に正式決定した。こうしてホンダの欧州における現地生産は船出した。

  • :モペッドは、ヨーロッパのペダル付き二輪車のこと。搭載エンジンは排気量50cc以下で最高時速は40kmを超えないなどの条件が法律で定められている一方で、16歳以上は無免許で乗れ、税制•保険•交通法規のほか、多くの面で優遇を受けた(各国間で若干異なる。数値は当時)。モーターサイクルに属するスーパーカブやスクーターとはまったく別カテゴリーである

小さく始めて大きく育てる

工場建設は氷点下30度の大寒波に見舞われ4カ月もの中断を余儀なくされた 工場建設は氷点下30度の大寒波に見舞われ
4カ月もの中断を余儀なくされた
工場の建設風景 工場の建設風景

 1962年5月、新会社ホンダ・モーター(1971年よりベルギー・ホンダ・モーター〈以下、BH〉)の立ち上げに携わる総勢12名の現地駐在が決まる。EEC調査団を率いた岩村がBHの支配人として、現地での生産・販売活動を統括。岡安は工場長として、工場建設と生産活動の総指揮にあたり、岩瀬は工場の総務担当マネジャーとして生産活動を支えることになった。
 だが工場建設は、氷点下30度の大寒波で4カ月もの中断に見舞われた。労働法制が厳しい欧州で無理な突貫工事は要求できない。将来の経営幹部として現地雇用した事務方のスタッフは、日本人スタッフの情熱が伝わるにつれ工事遂行に向けて精力的に動いてくれた。
 「工場の稼働目標を決めた後に、達成するための手段を選んでいく私たちの進め方は、現地の人たちにはなかなか理解してもらえませんでした。しかし、実際に達成できて『なるほど、そういうやり方もあるんだ』と理解し、信頼されるようにもなりました」(岡安)

日本人スタッフの情熱と現地スタッフの理解により、工事中断期間を含めて8カ月で完成したBH

日本人スタッフの情熱と現地スタッフの理解により、工事中断期間を含めて8カ月で完成したBH

1963年5月第1号車がラインオフ日本企業として欧州初の生産だった 1963年5月第1号車がラインオフ
日本企業として欧州初の生産だった

 猛スピードで工事が進められ、極寒による工事中断期間を含めて8カ月で完成し、1963年5月、新設のホンダ・ベルギー工場からスーパーカブC100がラインオフされた。ホンダにとっても、日本企業としても、EEC域内初の生産だった。しかし、BHは工場稼働に喜ぶ間もなく、数々の苦難に直面することになる。
 工場の生産能力は月産1万台。年間200万台超の欧州市場の規模からすれば小さな一歩だった。岡安は「小さく始めて大きく育てよう、という考えでした。とにかく一生懸命売って、実績を挙げてから工場を拡大し、生産能力を上げていこう」と考えていた。
 ベルギー工場では、モペッド用エンジンを日本から持ち込み、他のすべての車体部品は無税でEEC共同市場で調達できるようになる、というのが当初の目論見だったが、想定外の出費に悩まされ続けた。欧州では、早くも消費者保護、製品の信頼性に関するメーカー責任が法律で義務化されており、部品は10年間供給を続ける規定があった。つまり、部品1個につき10年分の在庫を抱えねばならず、コストを圧迫した。しかも、部品メーカーの提示価格は日本の3倍から6倍にハネ上がった。
 極め付きは、工業規格が国ごとに異なり、ベルギー国内ですら統一された規格が存在していないことだった。メーカーによって部品サイズが異なると、その都度図面を変更しなくてはならない。予期せぬ問題が次々と降りかかってきたが、時間はかかっても、新しい調達地図を描くつもりで、自分たちの手で部品メーカーを育てていかねばならないというのが、スタッフ共通の見解だった。
 さらに日本人駐在員が現地の従業員と仕事を進める上で、言語、慣習の違いは悩みの種となった。契約社会と階級制度が根付いたベルギーの人の合理的な考え方も、しばしば駐在員を戸惑わせた。仕事を進める上で、彼らとの考え方や意見の食い違いが生じることも多かったが、時間をかけて話し合うことで一つひとつ解消していった。
 「言葉や考え方の違いはあっても、意志の疎通なくしては素晴らしい製品はできるはずがない。どんなに時間がかかっても、自分たちのやりたいと思うことについて現地の人たちと話し合いなさい。そう言いましたね」(岩村)
 しかし、BHの参入に難色を示す人たちもいた。EEC域内では多くのモペッドメーカーがしのぎを削っており、ホンダの参入は脅威だったのである。そこでホンダは「『私たちはベルギーの二輪車業界発展のために活動を始めます。製品は、ベルギー国内のみならず、各地への輸出も考えています』といった内容を前面に出すようにした」(岩村)ことで、現地の理解を少しずつ獲得していった。

BH設立1周年記念式典でスピーチをする本田宗一郎

BH設立1周年記念式典でスピーチをする本田宗一郎

異国で直面した困難の数々がホンダを育てた

BHで立ち上げられた新機種C310の試乗テスト風景現地ニーズの反映が十分ではなく、思うように受け入れられなかった BHで立ち上げられた新機種C310の試乗テスト風景
現地ニーズの反映が十分ではなく、思うように受け入れられなかった
C310 C310

 欧州の市民の足として愛用されてきたモペッドだが、もう少し技術的にしっかりした、モーターサイクル寄りの新しい乗り物をつくれば必ずファンを獲得できるはずだ。BHでは自分たちの技術に自信を抱いていた。だが、苦労して立ち上げた新機種C310は思うように売れない。さらに現地の販売網に製品を投入した直後からトラブルが続出し、返品は日に日に増えていった。
 実は、C310は現地のニーズを十分に反映して開発された製品ではなかった。BHの設立が決まり、工場を立ち上げるまでの短期間で欧州諸国の規制に合うよう、既存の商品に改良を加えただけの商品だった。
 ベースは日米で大ヒットしたスーパーカブで、最大時速40km(当時)を超えないように4ストロークエンジンをパワーダウンさせ、現地のモペッドと同じようにペダルを付けた。しかも、4ストロークエンジンを搭載するホンダ製モペッドは、2ストロークエンジンの欧州製モペッドより車体が大型で重い。その外観はモーターサイクルのカテゴリーに近い乗り物と現地の人たちの目に映った。
 また、ユーザーが、2ストロークエンジン用の潤滑用オイルとガソリンを混合させた燃料を使用して、エンジン不動のトラブルを招く事例も多発した。4ストロークエンジンの優秀性をアピールし、取り扱いの説明を徹底させるなど、浸透には多大な労力と時間を費やしたが、期待通りの売り上げに結び付けることはできなかった。
 さらにBHを悩ませたのは資金繰りである。日本政府による外貨持ち出し規制のため最低限の資金で設立されたBHは、常に資金不足に悩まされていた。そこに、品質要件を満たす部品が搬入できない、思うように製品が売れないなど、経営を圧迫する要素が積み重なっていく。最後には資金切れによって、工場閉鎖の危機にまで追い込まれてしまったのである。
 「やっぱり、工場というのは、売れる分だけつくるというのが原則なんだよな」
 窮状を心配し、現地を訪れた藤澤はそう日本人駐在員に言葉をかけた。ここで世界一の二輪車メーカーになる夢をついえさせてはいけない。現地日本人はもちろん、日本からも多くの社員や研究員がBHの生産活動を支え、製品の改良に携わった。現地採用の従業員もほとんどが退職せず苦労をともにして経営再建に取り組んだ。そして10年後、欧州向きのデザインをまとい、大衆価格を実現したアミーゴを発売したのである。このモペッドはユーザーの好みにマッチし、欧州市場で広く受け入れられた。

大衆価格を実現したアミーゴ

大衆価格を実現したアミーゴ

BHの生産ライン(1987年)

BHの生産ライン(1987年)

 「ノウハウというのは、書かれた書類があるわけじゃない。電話で聞けば教えてくれる相手がいるわけでもない。ノウハウとは人間の中に仕込まれていくものなんだ。人間に仕込まれたノウハウがあるかないか。企業が国際化できるかどうかは、結局そこで決まる」。BHで働いたメンバーの言葉である。ベルギーでの試練は、日本流の考え方や方法論が通用しない現地の壁であり、異なる国の人々のニーズをつかむ難しさだった。生産・営業・開発・管理などホンダのあらゆる部門の人たちがベルギーで苦労を経験し、試行錯誤を重ねた。その経験が、海外で企業活動を行う際の教訓やノウハウをホンダの従業員に根付かせた。これが後にホンダが世界で企業活動を展開する上で貴重な財産となった。

欧州各国の二輪車文化にホンダブランドを根付かせていく

 欧州という市場は、ひとくくりに定義することはできない。構成する国も文化圏も多く、ユーザーニーズも多様である。それを的確にとらえ、市場別に戦略を立てて需要を掘り起こしていく必要がある。
 1976年、ベルギーに続いて、イタリアでCB125Sの現地生産を決定する。当時、イタリアでは大型車を超える勢いで小型二輪車市場が成長していた。大型二輪車はホンダが圧倒的なシェアを誇っていたが、小排気量バイクの輸入は事実上禁止されていたため、参入できないのが当時の状況だった。そこでホンダは、技術援助と50%の資本参加を含む地元資本との合弁契約書に調印し、イアップ・インダストリアーレを設立するが、輸入部品の差し押さえ、現地の開発基金の給付停止に見舞われるなど苦難の門出だった。数少ない輸入許可部品をかき集めてようやくCB125Sを組み立てるが、売れない・儲からない・お金が回らないという負のスパイラルに陥り、工場稼働は日産10台、年産2,500台にまで落ち込んだ。事業再建策が模索されるが、パートナーとの合意に達することができず、やむなく提携解消。イアップの株式を100%買い取り、1981年、ホンダ・イタリア・インダストリアーレ(以下、HII)が誕生する。今度はイアップでの経験を糧に、綿密な市場調査に基づいて本田技術研究所で新モデルの開発を推し進め、現地の部品メーカーと協力して高現調率で生産を実現した。2年後の1983年には日産120台、年産2万7,000台を記録し、持ち直すことができた。

CB125S

CB125S

HII・アテッサ工場のNSR125生産ライン(1988年) 日本へも輸出された

HII・アテッサ工場のNSR125生産ライン(1988年) 日本へも輸出された

MHSAの生産ライン(1987年) MHSAの生産ライン(1987年)

 スペインにおいても当初から道のりは険しかった。日本製の完成二輪車の輸入は禁止されていたため、ホンダでは1960年代後半から地元メーカーのセルベッタと10年間の技術提携契約を結び、BH製モペッドの組立・販売を委ねて、スペイン市場への本格的な進出のチャンスを探っていた。契約が終了した1980年、地元企業であるセ・デ・サラマンカとトロンクとでホンダ・エスパーニャを設立。BH製モペッドに加え、イタリアで製造した125cc、ブラジルで製造した450ccのオートバイを部品状態で輸入し、販路を拡大しようとした。
 しかし、これが現地メーカーの反発を招く。ホンダが持ち込む部品は本当にEC製なのかと不当な嫌疑をかけられ、当局に提訴された。この背景には、かつてオフロード車を中心に国際的な地位を誇っていた自国の二輪車産業を保護したい業界やスペイン当局の思惑があった。この経験からホンダは「スペインでのビジネスには地元企業への協力が欠かせない」という貴重な教訓を得る。伝統ある地元メーカーであるモンテッサと提携を結び、1982年に資本比率50対50でモンテッサ・ホンダ・エス・エー(以下、MHSA)が誕生する。経営が悪化していたモンテッサを支援しながら、二輪車合弁生産事業の許可を得て、1986年、ついにヒット作となるスクーターSH75を生み出す。ここに至るまでの苦難は並大抵ではなかった。文化や慣習からくる行き違いは枚挙にいとまがない。物を落として壊すと、「物が落ちて壊れた」と主張する。「どれくらい?」と聞くと、「だいたい」と返ってくる。帽子を被らせるとハゲるハゲないで組合問題にまで発展したことさえあった。だが、ものづくりに携わる者同士、どこかで必ず通じ合うところが見つかるものだ。誠意を尽くして事に向かい、隠しごとはせず、ストレートに、根気強く繰り返す大切さが浸透していった。こうして誕生したSH75はバルセロナでじわじわと人気が出て、次第にスペイン全土に広がっていく。イタリアでも好評を博し、MHSAは一挙に活気づいた。世界グランプリ人気と相まってスペインの二輪車市場は活況を取り戻し、MHSAはスペイン最大の二輪車メーカーへと成長していった。
 ホンダは各国事情やマーケットに合わせて現地法人の体質を強化し、地域産業や人に寄り添っていくことで欧州における需要を丁寧に掘り起こしていった。こうしてBHに加え、HII、MHSAの3拠点は、欧州域内の二輪車供給基地となったのである。

スペインのみならず、イタリアでも好評を博したMHSAのヒット作SH75

スペインのみならず、イタリアでも好評を博したMHSAのヒット作SH75