第4章 進化する教育プログラム開発
1996年 「Hondaライディングシミュレーター」発表
効果的な安全運転教育ソフトを追求
マイカーが当たり前になった1990年代。安全運転の普及の実践は主にHondaの二輪、四輪の販売組織と交通教育センターが担うようになりました。安運本部では、活動の企画立案、各種安全指導者の育成、教育機器・教材などの研究開発が進み、効果的な教育ソフトや教材、教育機器がさらなる進化を果たしました。
四輪販売会社における安全運転普及活動の強化
安全運転普及本部(以下、安運本部)における安全運転教育は、設立以来その主眼を二輪ライダーに置いてきた。四輪ドライバーに対する安運活動は、『セーフティドライブ セーフティポインツ』の同梱・活用と、交通教育センターでのドライビングスクール活動が主であったが、1991年から大きく変化していく。四輪車を取り巻く交通環境も大きく変化していたからだ。
1987年を境に、交通事故による死者数は四輪乗車中の増加が目につくようになり、それまで問題にされることの多かった二輪事故はむしろ減少傾向に転じていた。四輪車の事故増加や、安全デバイス装着車の普及で、安全についての社会的な関心が高まったことが背景にあるが、四輪販売会社スタッフの交通事故や構内事故増が直接のモチベーションになった。
業務活動での事故は、大きな人身事故は少ない。物損事故がほとんどだが、保険加入金額の増加(割引率の低下)や、いったん人身事故が起きると影響が大きく、販売会社の安全への関心はかつてないほど高まってきた。安運本部が取り上げた四輪分野での柱は次の2つだった。
- ● 顧客との接点である販売店に、お客様に安全に関する情報をしっかり伝えうる安全情報の発信基地としての体制づくり。
- ● 二輪でHMS(Hondaモーターサイクリストスクール)を交通教育センターで行ったように、四輪版スクールを交通教育センターで展開。
1991年の春、安運本部は四輪営業部などと連名で、販売会社に安全・環境推進委員会をつくるよう呼びかけた。販売会社社長の理解と賛同を得て、安運本部は1991年から1994年までに、約3,000人の幹部社員を対象に安全・環境推進担当者を養成した。
1991年5月、四輪ドライバーの運転技術向上の機会を設けるべく創設されたのが、鈴鹿、埼玉、福岡の3つの交通教育センターでスタートしたHDS(Hondaドライビングスクール)だ。スクールにはクルマの限界性能に挑戦する「ベスト」、「ヤング」、安全運転のスキルアップを中心とした「ファミリー」、「レディス」の4コースを用意し、参加者の志向、関心に応じてコースが選べるよう配慮されていた。
販売スタッフの正しい知識とスキルを養う
「安全活動・新展開マニュアル」の存在
安運本部では、四輪の安運活動において、お客様と多様な接点を持つ四輪販売会社のスタッフが、クルマのハード面のみならず安全や環境といったソフト面でも正しい知識とスキルを身につけ、お客様との日常の対応に活かすことを何よりも重視していた。そこで、各販売会社の社長を安全・環境推進本部長、部長を安全運転推進責任者、各拠点長を安全運転推進担当者として、体制づくりが始まった。
1991年5月9日、交通教育センターレインボー埼玉を皮切りに全国各地で四輪販売会社の拠点長(店長)を対象とした「安全運転推進担当者会議」が開催された。各販売拠点が核となってシートベルトの100%着用推進、店頭での安全アドバイス、環境問題への取り組みを積極的に進めるものだ。
翌1992年には、5月〜6月にかけて8回にわたって四輪販売会社の部長級を対象に「安全運転推進責任者」研修会が、鈴鹿サーキット交通教育センターで行われた。この研修会は2日間にわたりHDSを体験し、濡れた路面でのABS(アンチロック・ブレーキ・システム)体験や、救急法の講習を組み込んだものだった。
こうした研修会を通じて、販売一筋でやってきた人たちに対して、四輪販売に従事する者の社会的責任を自覚し、地域社会に対して安全情報の発信基地としての新しい活動への取り組みを求めていった。
1992年5月、安運本部では「安全運転推進責任者」研修会用に『安全活動・新展開マニュアル』を作成している。このマニュアルの中で、販売会社に求められる3大テーマを次のようにあげていた。
- ● 従業員の皆様の交通事故防止活動
- ● お客様の満足度を高める店頭安全活動
- ● 地域社会に貢献する交通安全活動
スタッフ自身の安全意識の向上があって初めてお客様の安全を守る活動や、安全を通じた地域への貢献が可能となる。すなわち、販売会社で働くスタッフの交通事故をなくす運動は極めて重要な位置づけにあった。『安全活動・新展開マニュアル』では、スタッフの交通事故防止活動について、事故原因把握、対策、教育、啓発活動、安全意識アップ動機づけ、改善提案に至るまで、各段階のアクションプランの参考事例を示した。
1992年5月に展開された『安全活動・新展開マニュアル』
売る人が安全を手渡しする
セーフティコーディネーター
1994年7月8日、四輪販売会社に「セーフティコーディネーター」制度の導入が発表され、1997年6月の時点でセーフティコーディネーターの資格を持つスタッフは、Honda四輪販売会社のほとんどの営業拠点(支店)に1名以上が配置されていた。第一線の営業スタッフやサービススタッフが交通教育センターでの専門研修後に認定されるもので、お客様に安全運転についての説明や情報提供を行うことによって、お客様と一体となった安全啓発活動を推進するものだ。セーフティコーディネーターに求められているのは次の取り組みだ。
- ● お客様の運転に関する不安や困りごとの相談
- ● 全Honda車に備えている『セーフティドライブ セーフティポインツ』に基づく安全運転アドバイス
- ● HDSの紹介
- ● 地域の安全活動への積極参加また、安全・環境推進委員会活動のなかで、四輪販売会社の店頭アドバイス(手渡しの安全活動)のモデル方式も確立された。
セーフティコーディネーターの養成研修は、交通教育センターでの1日コース「くるま・人・限界コース」として行われた。研修は実体験を通して、Honda車の特徴や限界、クルマを運転する人間の限界を体感し、お客様へのアドバイスに役立てることを目的に行われた。1994年末までに150人の研修を修了した。
当時、Honda本社のCS推進室はHonda四輪車をお買い上げいただいたすべてのお客様に25項目にわたるアンケートを送付し、お客様満足度の調査を行っていた。設問の中に納車時の店頭対応の項目を用意し、セーフティコーディネーターによる安全情報の発信状況をチェックして、その推進を図っていた。
セーフティコーディネーターによる店頭アドバイス
四輪販売会社に配布された
『お客様への日常の安全普及活動』『セーフティコーディネーター活動好事例集』
企業の安全運転教育ノウハウを共有する場
ドライビングセーフティマネジメント・フォーラム
企業の安全運転教育の情報共有の場として立ち上げた「ドライビングセーフティマネジメント・フォーラム(現、トラフィックセーフティフォーラム)」は、Hondaの90年代後半に向けての安運活動を方向づける活動の一つだった。最初の開催は1992年11月、Hondaの交通教育センターを利用する24社が集まった。
全国の交通教育センターを利用する企業は経営理念のなかに安全運転を重要な要素として位置づけており、「社員を事故から守り、いきいき働ける職場をつくる」「企業を交通事故がもたらす人的、経済的損失から守る」「安全運転によって地域社会からの信用を高める」といったように、安全運転の言葉に積極的な意味を見出し、組織をあげて取り組んでいる。業種は多岐にわたり、他社の取り組みにも積極的な関心を寄せていた。
そこでHondaでは交通教育センターを利用する企業向けの情報誌「ドライビングマネージメント」を発行し、各企業の教育へのポリシー、組織、教育体系、カリキュラムなど、企業の安全運転教育の全体像の紹介を行ってきた。
フォーラムの開催は、情報提供を一歩先に進めるもので、安全運転教育の先進企業による横のつながりの深化、経験交流と安全運転教育ノウハウの蓄積・レベルアップを目的に企画された。また、フォーラムで話し合われた内容を広く企業や団体、社会にPRし、さらに企業に役立つ具体的なノウハウを提供することをめざした。
第1回ドライビングセーフティマネジメント・フォーラムの様子
安運活動とレクリエーションの両立
アクティブセーフティトレーニングパークもてぎ
Hondaはバイク・クルマの楽しさを広めることと安全運転の普及を、モータリゼーションの健全な発展のための欠かせない両輪と、一貫して考えてきた。楽しさを象徴するのはモータースポーツの振興、安全の象徴は安全運転の普及である。
鈴鹿サーキットと鈴鹿サーキット安全運転講習所(現、鈴鹿サーキット交通教育センター)、安運活動とモーターレクリエーションの推進活動が示すように、2つの活動は並行して展開されてきた。1997年8月のツインリンクもてぎの誕生と、同所内にアクティブセーフティトレーニングパークもてぎを併設したのも、その姿勢の具現化だった。1964年にオープンした鈴鹿サーキット安全運転講習所から数えて、7番目の安全運転教育施設になる。
しかし、これまでの経験を活かして組織されたプロジェクトチームでは、企画の壁にぶつかっていた。鈴鹿を超えるまったく新しい安全運転普及を行う施設の全体像が描けていなかったのだ。
Hondaの中には、今の日本における安全運転教育の基本をつくってきたという自負があった。Hondaが21世紀に残す安全教育の在り方として、新たなチャレンジがなくては、もてぎに存在する意味はない。
1996年6月、プロジェクトチームは視察のために名だたる自動車メーカーがひしめくドイツを訪れた。そして、ザクセンリンクやニュルブルクリンクのトレーニングセンターで、まさに目から鱗が落ちる経験をすることになった。日本では安全運転教室が、往々にして違反者に対する懲罰的な意味合いで行われているのに対し、ドイツでは、優良ドライバーに対する褒賞的な意味合いで実施されていたのだ。
レコードのターンテーブルのようなものの上を走り、スリップを体験するなど、スクールの内容はダイナミックで、「やってみたい」と思わせるものが多かった。関係者にヒアリングを重ねると、それらのカリキュラムは、冬が長く、アップダウンの多いドイツの土地柄に合わせた“実際的な危険を安全に体験する”ものであることがわかった。
帰国したプロジェクトチームが書き上げたリポートをもとに、ツインリンクもてぎの安全運転教育は、危険を安全に体験し、楽しみながら科学的に学べる、説得型ではなく納得型のスクール内容をめざして、企画の検討が進められていった。その結果、路面の一部が瞬時に横方向にずれ、強制的にスキッド状態をつくり出す装置を持った低μ路コースなど、最新の建設技術を活かした各種の施設が導入されることになったのである。
設備は、最新鋭で、実際の危険に近い体験ができるスキッド発生装置やスリパリーコースなどを備えている。これらの専用施設とサーキットコースを使い、高速時代に対応するブレーキングや旋回、ハイドロプレーニング体験、事故直前の横滑り対応などのトレーニングができる。
ドライビングアナライザーも取り入れられ、個人の運転特性の客観的評価も可能になった。自分のレベルが数値化されるため、納得性も上がり、トレーニング効果の追跡もできる。これらの最新鋭の教育機器と設備を使ったアクティブセーフティトレーニングパークもてぎの成果は、鈴鹿や埼玉など他の交通教育センターにフィードバックされ、相互に交流しながら、わが国の二輪、四輪教育のレベルアップと新手法開発に貢献していくことになる。
ツインリンクもてぎに併設されたアクティブセーフティトレーニングパークもてぎ
インストラクターの指導力・運転技術の
向上を図る競技大会を開催
1997年からスタートしたセーフティジャパンインストラクター競技大会は、安全運転普及の各分野で活躍するHondaの安全運転インストラクターの指導力ならびに運転技術の向上と均質化を図る機会の提供を通して、世界トップクラスのインストラクターづくりをすることが目的だ。参加者は初開催時こそ国内の交通教育センターやHonda事業所に限られたが、1998年の第2回以降は海外事業所で活動しているインストラクターの参加も始まり、国際色豊かな大会となった。
現在の競技種目は、インストラクターの技量を総合的に審査できる内容を検討し、二輪にはブレーキング、コーススラローム、低速バランスの3種目。四輪にはフィギュア、低μ路走行、コーススラロームの3種目を設定している。
大会会場は鈴鹿サーキット交通教育センターとし、競技に使用する車両は全参加者が同一。完全なイコールコンディションのなか厳密な審査が行われ、現在もインストラクターの技術力向上に寄与している。
第1回セーフティジャパンインストラクター競技大会の様子
1
1990 東西ドイツ統一
1991 湾岸戦争勃発
1995 阪神・淡路大震災
1997 香港返還
1998 長野五輪開催