第1章 発足前史
1966年 鈴鹿サーキット安全運転講習所(現、鈴鹿サーキット交通教育センター)での白バイ隊訓練の様子
時代に先駆け、社会に伝えた安全の心
「交通機関を扱っている企業としてどうあるべきか」「バイクを、クルマをつくり、売るだけでよいのか」、安全運転という言葉が、まだ世の中に知られるずっと以前の今からおよそ50年前のこと。創業者・本田宗一郎をはじめ社内ではバイクやクルマというパーソナルモビリティを世の中に提供するメーカーの果たすべき役割を真剣に考えていました。
安全で安心して走れる場所を若者に提供したい
「俺はレースをやるところが欲しいんだ。クルマはレースをやらなくては良くならない」
1959年末、鈴鹿製作所の厚生施設を建設する提案会議の場で社長の本田宗一郎から発せられた言葉が、日本初の本格的なロードサーキット誕生の源となった。
当時は浅間高原で、浅間火山レースが開催されていた。このコースは、テストコースを持っていなかった二輪車メーカーが、“ユーザーに対して責任ある製品を販売する”という主旨のもとで建設された。しかし、コース建設当時の予想を上回る高速・高性能車が開発されるようになり、ライダーと観客の安全を確保するために、1959年には打ち切りとなった。
宗一郎は、「オートバイづくりというものは、呉服や家具とは違って、人命という取り換えのきかないものを預かっている」という基本思想のもと、来たるべき高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場をつくるのがメーカーの義務だと考えを固めていた。また、1959年にマン島TTレースへの参戦も果たし、レース用マシンの開発、量産車の高速走行テストの場も求めていた。
一方、二輪車の高性能化に伴い、それを試したいユーザーが一般公道を暴走するなど、いわゆるカミナリ族が社会問題化。二輪車のイメージダウンが懸念された。若者がようやくの思いでバイクを手に入れたとしても、公道でスピードを出しては事故につながってしまう。走る場所をつくらずに取締りだけを厳しくする、これではユーザーに申し訳ないとも、宗一郎は感じていた。
「バイクに乗っている若者に、安全で安心して走れる場所を提供したい」
同時に宗一郎が考えていたのは、激しく変化している交通環境に日本人の運転技術が追いついていなかった点だ。当時の日本には運転技術を身につける環境も、機会も、まだ存在していなかった。
サーキット建設地選定のため、鈴鹿市を訪れた本田宗一郎(写真左)
大切な米をつくる田んぼをつぶしてはいけない
宗一郎の言葉を受け、直ちに藤澤武夫(当時専務)はプロジェクトを結成した。日本初の本格的なヨーロッパ型完全舗装のレーシングコース建設に向け、Hondaは単独事業に着手したのである。建設にあたり、藤澤には構想があった。未来のユーザーである10代を対象としたモータリゼーション普及の場、モーターサイエンスの研究・教育活動の場としてのレジャーランド施設も併設することとなった。
まずは欧州のレース場の資料を集めることから始まった。欧州のいくつかのコースを参考に、1周はおよそ6km、土地面積は20万から30万坪が必要との結論に達し、建設地の選定に入った。候補地は全国で数ヵ所があがり、現地に出向いての検討が行われた。なかでも鈴鹿市は、立地条件の良さに加え、鈴鹿製作所の建設予定地視察当時と同メンバーでの対応、航空測量写真の提出など、積極的な受入れ体制を用意してくれた。
鈴鹿サーキットのコースレイアウトはオランダ人の
J・フーゲンホルツ教授のアドバイスを受けながら進められた
1960年春、建設地は鈴鹿市に決定された。
関係官庁への許可申請や土地の買収にあたっては、予想外の困難が待ち受けていた。観客席をつくってレースを見せることに対し、「なぜHondaがギャンブルレース場をつくるのか」と誤解を招いてしまったのだ。毎晩、地元の公民館で開かれる地主への説明会では、Hondaの担当者と市の助役が説得にあたる日々が続いた。
建設地域としては当初、水田地帯が予定されていた。しかし、宗一郎の、「大切な米をつくる田んぼをつぶしてはいけない」との指示で、山林原野を切り開いてコースが引かれることになった。
1963年、第1回日本グランプリ自動車レース大会(写真提供:塩崎定夫氏)
宗一郎の哲学に沿ってつくられたサーキット
1960年春、Hondaは三重県鈴鹿市に国際規格のサーキット建設を決断。当時の会社規模から考えれば破格の事業規模であったが、宗一郎にはイメージがあった。
「サーキットをつくるなら、ただ走れるだけではダメだ。より安全性が高く、走ることによって知らず知らずのうちに運転技術を磨けるような、世界に通用するものにしろ」
コースレイアウトの原案は1960年8月に完成した。ヘアピンカーブ2ヵ所、立体交差が3ヵ所と変化に富んだ内容であったが、工費などの面で見直しが必要となった。同年12月にプロジェクトメンバーがヨーロッパに飛び、設備、競技規則、運営方法を視察・調査し、レイアウトなどが最終決定された。
工事にあたっては、図面も十分なものではなく、現地で仕様が決められ、後から図面をつくることが繰り返された。立体交差の工事は、特にコースの平坦度が要求される所でもあり、新工法を駆使して技術的難関を突破した。当時は、名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態であり、その工事関係者が鈴鹿に見学に来るほど注目を浴びた。最終レイアウトは世界的に類のないものとなり、カーブの数は18個、平らな場所がほとんどないアップダウンの多いコースとなった。スピードだけでなく、走る者にテクニックを要求するサーキットは「スズカテクニカルコース(現、鈴鹿サーキット)」と名づけられ、1962年9月に完成した。
1960年代、交通事故死者数は年間1万人を超え「交通戦争」の言葉が生まれた
安全運転教育のルーツ、安全運転講習所
安全性に注目が集まった時代に、Hondaは自動車というハードウエアの部分だけでなく、安全運転教育というソフトウエアを通じて、交通事故死者の増加に歯止めをかける必要性を感じていた。ただし、Hondaの中で安全運転の普及が必要という考えが生まれた理由は、自動車の安全性が取りざたされたからだけではない。
白バイ隊員に対して運転教育を行う、いわゆる白バイ訓練が始められており、すでに安全運転教育の土台はできていたのである。同訓練は、中部管区の白バイ隊長から鈴鹿サーキット安全運転講習所(現、鈴鹿サーキット交通教育センター)に寄せられた。どうしたら白バイ隊の殉職事故を防げるのか、という相談が発端だった。
この出来事をきっかけとして、1964年10月から鈴鹿サーキット安全運転講習所において交通警察官の訓練がスタート。名神高速道路開通に伴う白バイ・パトカーの運転技術指導が始まった。ハイウェイ時代にふさわしい、クルマの性能向上に合わせたドライバーの運転技術向上の場も必要となってきたのである。事故の大半は未熟な運転技術が原因であったことから、実際の交通環境を想定した基礎トレーニングを実践。その結果、白バイ隊の殉職者ゼロを達成した。
翌1965年からは、受講対象は郵政省、国際電電、電電公社、電力会社などの官公庁に広がっていった。運転免許証保有者を対象にした運転トレーニング施設は、日本初のものである。教育プログラムは、白バイ隊員のための訓練内容を骨子にしていた。その特色は、体験型トレーニングと、集団規律を厳しく守る訓練にある。
安全運転普及本部(以下、安運本部)が設立される1970年以降、普及活動の軸になるインストラクターの養成トレーニング・プログラムは、理念については安運本部が、実技については鈴鹿サーキット安全運転講習所が作成した。
1964年に開所した鈴鹿サーキット安全運転講習所での運転者向け講習の様子
1964年から始まった交通警察官訓練の様子
急増した日本の交通事故死者数
ユーザーユニオン問題とN360
今日では常識だが、交通事故は、「人」と「車」と「環境」の3要素の関係で発生する。この3要素の関係は、クルマの安全性能が向上し、道路などの環境面が整い、運転する人の運転スキルや安全意識が高まれば、事故は減り、逆の場合は増加することを示している。
3要素の一つ、「環境」を代表する道路を見てみると、日本の舗装率は1970年で18.2%と、国際的に低い水準にあった。
道路舗装率(1970年)
舗装率(%) | 自動車保有台数(万台) | |
---|---|---|
日本 | 18.2 | 1,817 |
アメリカ | 43.6 | 10,896 |
イギリス | 99.7 | 1,325 |
西ドイツ | 76.6 | 1,566 |
出典:警察庁 交通統計
「ドライバー」の安全意識や運転スキルに対する啓発活動も始まったばかりだった。
今では三世代が運転免許を持つ家族も珍しくないが、当時運転する人は「わが家で初めての運転免許」保有者だった。ほとんどのドライバーは少しの運転経験しか持っていない。両親や先輩からのアドバイスは期待できなかった。
1960年代後半、自動車ブームが盛り上がった。なかでも爆発的に売れたのがホンダN360シリーズだった。性能の高さと価格の安さで、発売後2ヵ月の1967年5月、N360は販売台数で首位に躍り上がり、この年に76,190台を販売した。そして、1968年は154,205台、1969年は200,337台と売れ行きが伸びていく。N360シリーズは月販2万台という驚異の数字で日本のマイカー普及に貢献した。
しかし、1970年末を最後に、1ヵ月後の1971年1月には販売台数が激減。その年の春、4年間強で約70万台を生産・販売したN360は生産中止となった。急下降の原因は主として「ユーザーユニオン問題」にあったと考えられている。
当時、アメリカの弁護士ラルフ・ネーダー氏による自動車の安全性をめぐる企業告発により消費者運動が活発化し、「日本自動車ユーザーユニオン」という組織が日本にも生まれた。この消費者運動をマスコミが取り上げたことで、激しい自動車メーカー批判が巻き起こったのが、1970年だった。いくつものメーカーが欠陥車を製造・販売したとして批判の対象にされ、Hondaもこの騒動に巻き込まれた。
N360が発売された1967年頃の交通事故死者数は、年間1万3,000人台だったが、1970年には1万6,000人台と一気に3,000人も増加した。その間、自動車の保有台数は約2倍に膨れ上がっていた。急激なモータリゼーションの発展、そして交通事故死者の急増。欠陥車騒動が異様な広がりを見せた背景である。日本の交通事故死者数が1万人を超したのは1959年。この年から1968年までの10年間、死者1万2,000〜1万3,000人台が続き、メディアは「交通戦争」という言葉をつくり出した。
1960年代後半のマイカーブームを牽引したN360
メーカーの責任として取り組む
安全運転普及本部を20日間で発足
「公開テスト、大変望むところであります」
西田通弘(当時専務)は国会議員たちを前にためらうことなく、こう言った。
1970年9月11日、消費者運動の高まりのなか、西田は、安全性に問題があると指摘されたN360の件で国会に参考人として出席していた。この時、西田に対し、議員の一人がHonda車の安全性を確かめるための公開テストを求めたのである。結局、公開テストの必要はなくなったものの、国会でここまで言った以上、Hondaとして何らかのアクションが必要だった。
全国でHonda車に乗っているお客様、ひいてはすべてのクルマ・バイクに乗る人たちの安全に対し、責任を持って取り組む必要があると考えた西田は、宗一郎と藤澤(当時副社長)に切り出した。
「耐久消費財であるクルマは、ハードウエアとしての安全性を保証するだけでなく、使用者に対しても、正しく楽しい乗り方といったソフトウエアも加えて、初めて商品になる。すなわち、ソフトウエアも商品である」
製品販売と安全運転教育の相互関係を強く主張するとともに、すでに1964年から官公庁や企業を対象に実施していたバイクの安全運転教育を一般ユーザーまで拡大し、さらにクルマにも適用するべきだと訴えたのだ。
提案は即決され、わずか20日後の1970年10月に安運本部は発足した。参考となる組織がどこにもないなかで、驚異的ともいえるスピードで進められたのは、一日でも早く設立することが、一人でも多くの命を救うことにつながるという信念からだった。
「20日間、必死になって考え、10月1日に発足させたんです。実際には、どうやっていくのか、まったくの手探り状態でした」と、西田は後年語っていた。
1963 名神高速道路(栗東-尼崎間)開通
1964 東海道新幹線開業、東京五輪開催
1966 ビートルズ来日
1968 3億円事件
1969 アポロ11号月面有人着陸