第Ⅲ章
独創の技術・製品

第2節 四輪車 第5項 HONDA EV Plus

第2節 四輪車 
第5項 HONDA EV Plus

ホンダ電動化
技術の礎

2021年、ホンダは、環境負荷ゼロに向けた取り組みの1つとして
電気自動車と燃料電池自動車の販売比率を
2040年にグローバルで100%にするという目標を表明した。
カーボンニュートラルに向けた難題ではあるが
電動化への備えは、表明の30年以上も前にスタートしていた。
未来を見据え、わずかでも可能性があるならば、学び・考え・試し、つくる。
ホンダに流れるチャレンジ精神の一端を
ホンダ初となるバッテリー式電気自動車の開発からひもとく。

始まりは代替燃料車の研究

 「太陽光で走る電気自動車か。このような代替燃料車が走り回る時代も、遠くないかもしれない」
 1987年11月に開催されたソーラーカーレース、ワールドソーラーチャレンジ(以下、WSC)*1の紹介記事を見て、荒木純一(当時、第一世代EV基礎的研究プロジェクト開発責任者)は思った。研究所の会議室。出席した基礎的研究(以下、R研究)テーマのマネージャーたちも皆、そう感じていた。クリーンエネルギーや、やがて訪れると予想される石油資源枯渇の時代へ向け、何を学ぶべきかを探る会議のさなかだった。
 内燃機関が与える地球環境への影響はすでに世界中で問題とされていたが、IPCC*2の設立やZEV(Zero Emission Vehicle)規制法*3の公布はもう少し先のことだ。まして、1987年のホンダは、第2期F1TM世界選手権の5年目をコンストラクターズタイトル連覇で締めくくり、内燃機関であるエンジンサプライヤーとしての評価を高めていた。30数年後、ホンダが電動化100%を目標にすることなど知るよしもない。電気自動車(以下、EV)の研究は、未来へのチャレンジとして「何を学ぶべきか」を見つけるところからスタートした。
 「代替燃料の中で本命視されていたのは電気でしたが、ホンダは電気パワープラントをつくった経験がなかった。さらに言えば、当時は代替燃料車の研究自体も十分になされていない状況であった。そのため、ゼロからEVづくりに挑戦することになった。同時にWSCへの参戦も、レースという過酷な環境下でのチャレンジで、その技術を早く手の内に、との観点から検討されたのです」(荒木)
 EVは内燃機関のクルマと比べて部品点数が少ないことから、当時、「製造しやすく普及させやすい」と考えられたことも、EVに挑戦する動機となった。
 そして翌1988年4月、EVのR研究のプロジェクトがスタートし、荒木は開発責任者(以下、LPL)に就任する。わずか4人のチームであった。

  • :World Solar Challenge。現在のBridgestone World Solar Challenge(2023年6月末時点)。太陽光を動力源として、約5日間をかけてオーストラリア北部のダーウィンから南部のアデレードまでの約3,000kmを走破する世界最高峰のソーラーカーレース。ホンダは、1990年の第2回大会に初参戦し2位を獲得。1993年の第3回大会、1996年の第4回大会で2連覇を達成した
  • :1988年、国連環境計画(UNEP)と世界気象機関(WMO)によって、地球温暖化に関する科学的側面をテーマとした政府間の検討の場として「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change〈IPCC〉)」が設立された
  • :1990年に米国カリフォルニア州が策定した低公害車導入プログラムに定められた規制。同州内で一定台数以上自動車を販売するメーカーは、その販売台数の一定比率をZEV(Zero Emission Vehicle)にしなければならないとされた。直後に改正された連邦大気浄化法は、他州がカリフォルニア州の基準を採用することを認めている。2022年3月時点で同州のZEV基準を採用している州は、ニューヨークなど13州とワシントンD.C.である

後発の強み

 EVの歴史は古く、ガソリンエンジン車の誕生とされる1886年より早い1881年には、充電によって繰り返し使用できる二次電池を搭載したEVの実用化に成功したとされる。しかしモーターやバッテリーの革新的な技術進化がなく、一充電航続距離の短さや充電時間の長さがネックとなって、内燃機関がクルマの原動機の中心となっていった。
 ホンダが研究チームを立ち上げた1988年当時、世の中で目にするEVは、ゴルフカートか遊園地の乗りものなどに限られたが、実は1970年代、米国のマスキー法(1970年改正の米国大気浄化法)や2度にわたる石油危機(オイルショック)をきっかけにEVへの期待が高まり、国内外の数社によってすでに商品化されていた。
 研究チームを立ち上げたばかりのホンダには、もちろん知見などない。研究所にバッテリーやモーターなどEV関連の技術を持った従業員は皆無だ。しかし4人は、それを逆手にとった。
 「『EVに長く取り組んできた先行メーカーは、それまでやってきたことの延長線上で開発を進めるだろう。ならば、われわれは現在の最高で最先端の技術を利用し、開発をスタートさせよう』と結論付けたのです」(荒木)
 早速モーターメーカーに相談を持ちかけると、多くの会社が協力を申し出てくれた。モーターはガソリンエンジン車にも多く使われているが、原動機用のモーターはまったく別物である。出力30kW以上を発生する小型・高出力・高効率なモーターは当時の世の中に存在せず、それを30台以上月産してほしいという相談は、モーターメーカーにとっても魅力的だった。
 一方、バッテリーの調達は容易ではなかった。当時、クルマの動力源として使用できるバッテリーは鉛タイプのみであったが、チームの望みは日本の最先端技術の結集にある。既存の鉛バッテリーを超える性能が欲しかった。ところが、次世代型の新たなバッテリーを開発する場合、4年は必要なことが分かった。時間を要することは予想していたが、さすがに4年も待つことはできない。課題を残しながらも、「とにかく、クルマをつくってみよう」と走り始めた。
 そうしてつくりあげたEVは、CR-X*4をベースにエンジンをモーターに替え、市販のバッテリーを搭載し、ボディーをアルミニウム材に、ガラスをアクリル材に変更して軽量化を図ったクルマだった。出力20kWほどの改造車だが、ホンダのEVとして記念すべき第1号車である。

  • :1983年に発売されたバラードスポーツCR-X(小型乗用車)の2代目。1987年から1992年まで販売

本格的プロジェクトへ

 1990年10月、二輪車・四輪車・汎用の研究所トップによる協議が行われ、21世紀に向かう最後の10年間、研究所全体をどういう方向に導くべきか検討がなされた。さまざまなテーマについて議論が交わされたが、2年前からプロジェクトを進めてきたEVも当然ながら議題に上がった。EVの量産に向けた開発(以下、D開発)で、当時、開発総責任者(RAD)を務めた平松竹史は言う。
 「EVの開発を本格的に進めるべきと再確認したのは、まさに、この場でした」(平松)
 なぜなら、さまざまな外部要因がEVの重要性を示唆していたからだ。米国では、1970年12月に発効したマスキー法による大気浄化の効果を懸念する声が、1980年代後半に入って高まり、排出ガス規制強化の動きが活発化していた。協議直前の9月には、米国カリフォルニア州がZEV規制を含む低公害車導入プログラムを承認し、連邦政府は大気浄化法改正の準備を進めていた。
 「こうした動きは予兆で、世界への波及が考えられた。人、そして社会の価値観の大きな変化に合わせ、従来、ホンダの核としてきた技術の改良に加え、それに代わる技術の開発にも取り組もうと考えたのです」(平松)
 事実、協議直後の11月にはカリフォルニア州の低公害車導入プログラムを包括する形で大気浄化法が改正され、1992年には、大気質改善のための、欧州連合(EU)規模での最初の基準となる「Euro 1」が導入されることとなる。
 世界の動向とEVの重要性を再確認したホンダは、1991年初めにEVを重要な戦略機種と位置付け、本格的な開発へ向けた体制づくりを行った。和光研究所(HGW)・栃木研究所(HGT)・基礎技術研究センター(HGF)・朝霞研究所(HGA)・朝霞東研究所(HGH)・朝霞北研究所(HGB)、それぞれの研究所に加え、ホンダエンジニアリング(株)(当時)*5や製作所からも人材を集結させ、わずか4人のチームは総勢百数十人の一大プロジェクトへと変貌を遂げたのである。

  • :ホンダの生産競争力を確保するための生産技術の研究・開発の役割を担うために、1974年本田技研工業生産技術部とホンダ工機を統合し設立。2020年、生産技術の研究開発の一部機能を本田技術研究所へ移管。四輪車生産技術開発・設備製造機能を本田技研工業四輪事業本部に統合し、本田技研工業と合併

妥協はしない

 集結したプロジェクトメンバーの専門はさまざまで、エンジン開発、二輪車のフレーム開発、芝刈機の開発など多岐にわたったが、EV経験者は初期の研究から携わる4名しかおらず、ほとんどのメンバーはEVなどまったく知らない。
 「メンバーについては、それぞれの専門性を持った、個性豊かなメンバーが集まって、まとまりにくかったのです。そんな中、当時のEVには技術的な限界があって、どんなクルマにまとめ上げるかで悩みました」と、パワープラントのテスト担当プロジェクトリーダー(当時 以下、PL)を務めた鈴木健三が振り返る通り、当初は議論ばかりで結論にたどり着けず、つくりたいEVのイメージさえ共有できなかった。
「とにかく実践だ、クルマをつくろう」ということになり、百数十人のプロジェクトになって初めての試作車製作にとりかかった。
 シビック3ドアをベースに製作を進めたが、モーターやバッテリーを開発している時間はなく、いずれも市販品を使用した。ガソリンエンジン車と比べて部品点数が少ないとはいっても、ほとんどのメンバーにとってEV製作は初めての試みである。悩みながら、モーターをフロントへ、バッテリーを後席へ、電装部品をトランクへ設置し、どうにか試作車を完成させた。そして1991年7月、苦労を凝縮した試作車は、メンバーが見守る中で問題なく走ってみせたのである。
 開発メンバーは安堵した。「なんだ、結構走るじゃないか」とも思った。ところが、LPLの荒木から怒号が飛ぶ。
 「『これがクルマか。一体、何をつくっているんだ。穴掘って埋めちまえ』って、思わず怒鳴っていましたよ」(荒木)
 「経験がないことに妥協したクルマ」であると、一見して分かったからだった。
 「さまざまな試みをプロジェクトでは繰り返す以上、1台1台が次のステップへの、いい意味での経験とならなくては。経験につながらないクルマなら、つくらない方がいい。なぜ、もっと思い入れを持って取り組まなかったのかが残念だったのです」(荒木)
 その思いを、荒木は2時間にわたってメンバーに説いた。
 全員が悔しい思いの中にあったが、荒木が指摘する通りだった。EVとして走ってはいるものの、お客様に使っていただける「クルマ」にはなっていなかったのだ。
 「妥協のない、いいEVをつくろう」
 これが、新たな合い言葉となった。
 パワープラント設計担当PL(当時)の鈴木茂は言う。
 「指摘を受けた、『バッテリーをなぜ、よりEVに適した仕様にしないのか』という課題について何度も検討を重ねた結果、EV用としての自由度がさらに高いバッテリー形状・サイズをメーカーさんに提案でき、メーカーさん同士の連合会で承認され、最終的には世界的な標準となりました」(鈴木茂)

EV試作車のレイアウトイメージ図(シビック3ドアベース)

EV試作車のレイアウトイメージ図(シビック3ドアベース)

目標は世界一のEV

ホンダが自ら開発したDCブラシレスモーター ホンダが自ら開発したDCブラシレスモーター

 R研究ではEVに必要な要素技術 【補記1】を1つずつ習得してきた。米国のZEV規制法が施行される1998年までは、まだ時間がある。そしてホンダが目指すのは、先行メーカーとは異なる独創のEVだ。そこで、モーターと制御装置を内製化することとし、当時、大型モーターとしては一般的でなかったDC(直流)ブラシレスモーターを採用した。
 「シミュレーションから、最も効率的だったのがこれ。ホンダはこれに集中し、徹底的に効率を高めていったのです」(鈴木)
 メーカーの多くは、インダクションモーターと呼ばれる一般的なモーターを採用していたが、より高性能なEVを実現するためには最高効率のモーターが必須であった。また、モーターと制御装置はガソリン車のエンジンに相当し、将来はホンダの基幹技術になる可能性がある。ぜひともその技術を手中に収めたかった。
 初めてつくったDCブラシレスモーターは予想を上回る性能を発揮した。その後、試行錯誤を数年間繰り返し、EV用の高性能モーターとして仕上げていくことになるが、モーター技術を手に入れたことで要素技術のほとんどを習得、1992年6月、量産へ向けたD開発がスタートする。
 経営トップからは、EVはまったく新しい乗りものであり、「クリーン・静か・滑らかな異次元の走り感の表現」、「先進的であること」の2つをテーマに、「世界一のEVにすること」との命題が与えられた。

13万kmに及ぶ実走行テスト

 プロジェクトチームはD開発のスタート時点で要素技術のほとんどを習得できていたが、テスト車はシビックシャトルの改造車だけで、航続距離は40kmから50km程度、バッテリー搭載による重量増に対応する衝突安全技術もめどが立っていなかった。実用化には、さらに入念な調査と研究が必要だった。
 そこでまず、1993年の東京モーターショーへ出展するEV-Xを製作し、その中でコンセプトを練り上げることとした。
 一方、市場データを得るために、米国カリフォルニア州の電力会社と契約し、1994年から2年間の実走行テストを共同で行うこととした。
 D開発のLPL(当時)を務めた松本謙次は振り返る。
 「ホンダの米国でのビジネスは非常に大きい。中でも州単位のシェアは、カリフォルニア州ではホンダが一番。そこに住む方々が法規制で困っているようなら、ホンダとして貢献すべきだと考えたのです」
 だからこそ、メイン市場をカリフォルニア州に定め、実走行テストをそこで行うこととしたのだ。
 テスト車両としてシビックを改造したCUV-4を製作したが、長期にわたる実走行である。電気安全に万全を期する必要があった。
 衝突時の漏電や洪水にはどのように対応すればよいか。充電側のトラブルで水素が異常発生し引火爆発した時はどのように安全性を確保するかなど、多くの課題が浮かび上がる。これらの課題は、バッテリーボックスを塩水に入れたり、強制的に引火爆発を起こしたり、実際に事象を発生させて安全対策の効果を確認することでクリアしていった。そうしてようやく、EVとしての基本形が整ったのである。
 「ハード面での設定を一部変更し、日・米の法規はすべてクリアする要件も設定して、実走行テストに臨みました【補記2】」(松本)
 それでもなお、実走行テストで1つの課題が浮き彫りになる。使用した鉛酸バッテリーがシミュレーションとは異なり、夏場に1・2週間放置すると急激に劣化してしまうのだ。気温や使用環境に左右されにくい、ニッケル水素バッテリーへ転換する必要があった。
 しかし、あわてることはなかった。ホンダはすでに、バッテリーメーカーとの共創で新型ニッケル水素バッテリーの開発を進めていたのだ。
 実走行テストには、ホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(HRA)(後のホンダ・R&D・ノース・アメリカ〈HNA〉)、アメリカン・ホンダ・モーター(AH)のモニター車を含めて10台が投入され、延べ走行距離は8万マイル(13万km)に及んだ。CUV-4はガソリン車に比べても遜色のない動力性能を発揮し、高速道路を含む公道を走ることができた。衝突安全性能も確保し、電動パワーステアリング(EPS)やオートエアコンといった快適装備も備えた。お客様のニーズに十分応えられる「妥協のないEV」が完成した。

実走行テスト車両CUV-4。延べ走行距離は8万マイル(13万km)に及んだ

実走行テスト車両CUV-4。延べ走行距離は8万マイル(13万km)に及んだ

電動化技術の礎

HONDA EV Plus充電口 HONDA EV Plus充電口

 試作初号車は1995年12月に完成した。
 「EVらしいボディーデザインにするために悩みました。だからといって、EVを改造車ではなく、専用ボディーで世に出すことしか考えなかった。思い入れが強かったことと、『改造車で』なんて言ったら、『おまえは本気か』と経営トップに蹴飛ばされると思っていましたから」(松本)
 専用ボディーはコスト高になりがちだ。しかもEVは少量生産が前提である。量産開発(D開発)部門と生産技術(E)部門が一体となり、品質の早期見極めと熟成を図ったうえで、試作車の初ロットから大物部品に恒久金型*6を導入し、モーターはホンダエンジニアリングで、車体は実際に量産を担当する高根沢工場(当時)で製作した。ホンダの総合力を生かした初号車であった。

HONDA EV Plusの透視図

HONDA EV Plusの透視図

1997年4月に栃木製作所 高根沢工場で行われたHONDA EV Plusラインオフ式典 1997年4月に栃木製作所 高根沢工場で行われた
HONDA EV Plusラインオフ式典

 翌1996年1月、完成したばかりのEVを試乗した社長(当時)の川本信彦は即決した。「ゴーだ。よし、やろう」
 次いで、副社長(当時)の吉野浩行から業務指示が下される。
 「完成したなら、すぐに発表しなさい。それも、日・米同時に」
 試作車ができたばかりである。テストコースでは十分な性能を発揮したものの、量産車が狙い通りに仕上がるかどうか不安が残されていた。
 チームメンバーは直ちに、そして必死に熟成を図った。そして1996年4月、ホンダが持つ乗用車技術と最先端のEV技術を惜しみなく投入した本格実用EVとして、HONDA EV Plusの技術発表が日・米同時に行われたのである。
 1年後の1997年4月、公道テストや社内外でのモニターなどで検証を重ねたHONDA EV Plusは、ラインオフ式典を迎えた。従業員が運転するHONDA EV Plusの上でくす玉が割れると、報道陣のフラッシュが一斉にたかれた。ホンダ電動化技術の礎が築かれた瞬間であった。

 D開発のLPLとして商品化を成し遂げた松本は言う。
 「バッテリーをはじめ、まだまだ課題は残っています。一方で、金額を度外視しても太陽電池を住宅の屋根に設置するなど、少しでも地球環境保全に取り組もうとされている方々は確実に増えてきている。また、学校では環境問題への教育が盛んで、この世代がクルマを買う年齢になる5年から10年後には、クルマに環境や安全といったものが標準装備されていなければならないでしょう。そこには確実に、EV時代到来の予感があるのです」(松本)
 HONDA EV Plusの誕生から2年後の1999年、ホンダは自社初となるハイブリッド車・インサイトを発売し、2002年には、燃料電池自動車FCXを日本の内閣府と米国のロサンゼルス市に納車しリース販売を開始した。
 松本の予感は現実となった。わずか4人のチームが、ホンダ電動化技術の礎を築いた。
 松本には忘れられない出来事がある。米国で、実走行テストと並行して行ったインタビュー調査でのことだ。そこでは、地球環境保全に深い理解を示す多くの米国人に出会えた。
 「EVを通じてホンダの環境への取り組みに共感してくださる皆さんがいることが、どれほどの勇気を与えてくれたことか。今でも私は、『This car is right for me. I'm doing the right thing.(このクルマは私にぴったり。私は正しいことをしている)』という米国人の言葉を忘れません」(松本)

  • :部品の製品不良など改修のため通常量産時に導入される、恒久処置を施した金型

【補記1】EVに必要な要素技術

①原動機交換による新技術・システム
 ・駆動用モーター
 ・バッテリー(2次電池)
 ・モーターコントローラー
 ・エアコンシステム
 ・電動アシストパワーステアリング
 ・12ボルトバッテリー用充電
 ・ブレーキシステム
 ・回生制御システム
 ・トータル制御システム

②法規適合
 ・衝突安全性能(重量増加対応)
 ・デフロスター性能
③追加専用技術
 ・充電システム
 ・電気安全システム
 ・暖房システム
 ・電波(電磁波)障害対応

【補記2】ハード面での設定を一部変更

①総電圧…240ボルトを288ボルトへ
②モーター…40kWを49kWへ
③ミッション…トルコンレス3ATを一速固定比減速へ
④バッテリー…鉛酸バッテリーをニッケル水素バッテリーへ