四輪事業撤退の危機
鈴鹿製作所の生産ラインを、1300がポツン、ポツンと流れている。高性能を誇り、発表時には世界から称賛を集めた自信作の窮状に、訪れた本田技術研究所(以下、研究所当時)の所員たちは言葉を失った。1970年のことだ。
そのころの日本は高度成長期の真っただ中にあり、10%を超える経済成長率や交通網の整備を背景に、自動車中心の社会へと急速に移行していた。自動車の保有台数も、生産台数も、増加を続け、日本の自動車産業は生産高世界2位に成長していた。ところがホンダは、生産ラインをもてあますほどの販売不振に苦しんでいた。
1300の現実を目の当たりにしたのは、こうした窮状の中で立ち上げられた、新たな四輪車開発プロジェクトの先行開発メンバーたちだった。
「こんな状態なのかと、がく然としました」(当時、エクステリアデザイン担当 岩倉信弥)
「このプロジェクトが失敗したら、ホンダが本格的に四輪事業に進出するのは無理かもしれない、とみんなが思っていた」(当時、開発責任者〈以下、LPL〉木澤博司)
当時のホンダは、四輪事業8年目、生産台数40万台足らずのメーカーである。撤退の道を選んだとしても不思議ではない。社内に危機感が漂う中、やがてシビックと名付けられるクルマの先行開発はスタートした。
併行異質自由競争主義
事業存続をかけたプロジェクトである。先行開発のメンバーにのしかかる重圧は相当なものだ。しかも、その重圧に輪を掛けるようなテーマが、研究所所長(当時)の鈴木正巳から与えられた。「日本はもとより、世界市場を志向した自動車の開発に向け、それはどのようなものか答申せよ」
平易に言えば、「世界市場でも通用するクルマを開発しろ」ということだ。しかし、それを目指した1300は、専門家を色めき立たせることはできたけれど、お客様には通じなかったではないか。
そんな時にもたらされたのが、当時、ホンダの専務であり、まもなく研究所の社長を務めることとなる河島喜好が唱えていた、併行異質自由競争主義による開発手法だ。1つのテーマに対し複数のチームが自由に企画を立案し、より優れた商品を生み出していこうという取り組み、今でいう社内コンペである。
開発記号が「634」と決まったこのプロジェクトでは、木澤を中心にした30代後半のベテラン組と30歳前後の若手組、それぞれ約10人の2チームに分かれ企画を競った。日夜、自由な議論を行い、国内外のクルマを乗り比べては、また意見を交わした。いつしか、同じ想いが全員の胸に宿る。「本当に自分たちの乗りたいクルマをつくりたい」
木澤は言う。「このプロジェクト以前は、お父さん(本田宗一郎)が創りたいクルマを創っていた」
それまでのホンダ車は、一人の天才である本田宗一郎の考えをベースに開発されていた。若手組はもちろん、木澤たちにとっても、ゼロから自由に企画を立案する機会が訪れた。
バランスの良いクルマ
2つのチームが持ち寄った回答は、コスト重視型の800ccエンジン・コンパクトセダンと、性能・車格重視型の1200ccエンジン・2ボックス車であった。方向性が異なるように思えるが、そのコンセプトはほとんど同じといえる。「世界のベーシックカーとして、軽量・コンパクトでキビキビ走れるもの」である。
そこから導かれた最高速度などの性能目標も非常に近いものだった。なぜなら、発想の根底に鈴鹿製作所で目の当たりにした、1300の現実があったからだ。
1300は、優れた空冷1300cc直列4気筒エンジンを搭載していたが、バランスの良いクルマとは言いがたかった。突出した1つの技術的要素が、居住性・振動性能・防音性能・前後重量配分、さらには価格に影響を及ぼし、お客様から敬遠されていた。
「バランスが悪いものをつくるということに、みんな嫌気が差していたんですよ。バランスの良い、普通のクルマをつくりたかったのです」。木澤の述懐にチームの想いが垣間見える。立案してきた先行開発のメンバーたちには、「本当に自分たちの乗りたいクルマ」の明確なイメージがある。バランスの良いクルマであり、それこそが、自分たちのみならずお客様の望むクルマだと確信していた。
純粋に今、必要なクルマとは何か
チームの回答を受けてすぐ、2つの案を収れんする方向でプロジェクトが再編成され、商品化を目指した開発が推進されることとなった。コンセプトは、「キビキビ走る運転して楽しいクルマ、軽量・コンパクトであるがプライドの持てるクルマ、世界に通用する4人乗りセダン」に決まり、初代LPLには久米是志が就任した。設計が始まった段階で木澤にバトンタッチすることとなる。
この時、メンバーは1つの考え方を共有していた。「今、ホンダがどういうクルマを創らなければいけないか」、そして、「純粋に今、必要なクルマとは何か」を徹底的に追求することである。他車の室内寸法に負けないように3mm広くしよう、などと比較で考えるのではなく、お客様が本当に望む寸法や性能を導くことだ。
「クルマの『絶対値』としてそれを見つけ出したかった」(木澤)
この考え方を基に、N360でも採用された「ユーティリティー・ミニマム(最も効率の良いサイズ、性能、経済性)」という思想が加えられ、同時に、効率を追求しながらも人の乗る空間は削らない「マン・マキシマム(居住空間の十分な確保)」も織り込まれた。これらは後に、「人のためのスペースは最大に、メカニズムは最小に(マン・マキシマム/メカ・ミニマム)」に基づく「M・M思想」として確立し、ホンダのクルマづくりの考え方として受け継がれていく。
既成概念を覆した3ドアハッチバックの台形スタイル。お客様が本当に望む寸法や性能を「絶対値」として追求し
「軽量・コンパクトであるがプライドの持てるクルマ」を目指した
常識を打ち破るFF*12ボックス*2車の誕生
木澤の言う絶対値を求めて導かれたのが、FF横置きエンジン*3の2ボックス車、という仕様だった。
折しも開発スタート以前からあった国民車構想が具体化し、その占有面積が5m2以内で規制されるという情報が流れた。「ユーティリティー・ミニマム」の思想と合致するうえ、ホンダにとって販売上も好都合の規制である。そのころのホンダの販売店は、二輪車を扱う小規模な店がほとんどで、そうした店でも扱える四輪車として、5m2はどうしてもクリアしなければならない数字だった。
開発は、当初から5m2を目標に、全長は3,300mmから3,400mm、全幅は1,450mmで進められていたが、1200ccのエンジンを横置きで搭載した結果、全幅が1,505mmまで
拡大された。5m2に収めるためには、全長を100mm以上も削る必要がある。それでいて十分な居住性を確保しなければならない。ジレンマだった。
当時の日本では、クルマといえば3ボックスセダンが当然で、シビックも当初はスタイリッシュなセダンを目指していた。しかし、毎日のように全幅が広がり全長は短くなる。目指していたスタイリッシュさからは遠ざかり、ずんぐりとした台形へと近づいていく。
「シビックのデザインの原点はライフでしたが、最初、リアの形はもう少しなだらかでトランクもあった。でも、日に日に全長が短くなるのを見て、中途半端になるくらいならと、ある日、たまらずドン、と思い切って、そのスペースを削ったんです」(岩倉)
絶対値を追求するうえで、「クルマは3ボックス」という既成概念は必要なかった。岩倉の思い切りが、「3ドアハッチバックの台形スタイル」という独特のクルマを生み出した。
一方、メンバーはみな、スタイリッシュなセダンのデザインができ上がってくるものと期待していた。そんなメンバーを前に岩倉は、台形スタイルを「個性」だと説明し、コンセプトにうたう「軽量・コンパクトであるがプライドの持てるクルマ」の具現化だと強調した。
「バイクでも、ナナハンとモンキーが並んでいたら、モンキーに乗っている人は、その存在感で気後れすることなく威張っていられます。そんな『誇れるクルマ』とは何か、という部分で悩みましたね。例えば『シンプル・バット・チャーミング』。『チャーミング』以外にも、この『バット』の後をどういうふうにクルマで表現できるかということが私のこだわりでした」(岩倉)
心配なのは、このスタイリングが販売に結び付くかどうか、それ以前に商品化できるかどうかだ。
3ドアハッチバックのクルマはまだ珍しい。市場はおろか社内の理解を得られるかさえ分からない。開発過程では、営業や生産を含めたさまざまな評価が行われ、デザインなどの仕様に変更が加えられることが通常だ。デザインが差し戻される懸念も、もちろんあった。
その懸念を払拭したのが、所長の鈴木である。「とにかく君たちが良いと思うんだったら、周囲の声をシャットアウトして実車になるまでやってみろ」と、メンバーに号令をかけたのだ。そしてシビックは実車になる段階まで、絶対値を求める開発者の純粋な想いによって熟成されていった。
- :エンジンを前部へ配置して、前輪を駆動させるクルマ
- :一般的なセダンを3ボックスというのに対して、ハッチバックのようなリアデッキのないボディースタイルのこと
- :自動車の前後中心線に対して、直角方向にクランク中心線をもつようにエンジンを搭載する方式。または、車両中心線に対して 横方向に搭載するように設計されたエンジン
絶対値
開発が進むにつれ多岐にわたる目標が設定され、メンバーは試行錯誤の日々が続いた。
まず徹底されたのが軽量化である。1200ccのエンジンを搭載し車重を600kg以下に収めるという数値目標が設定された。軽自動車のライフが360ccのエンジンで540kg、1300が1300ccのエンジンで875kgであったことを考えると、その数値は無理難題とも思える目標だった。
コストは重量に比例するという考え方がベースにある。燃費向上の面からも、軽量化に力を注ぐのは道理だった。戦時中、ゼロ戦の重量を極限まで下げた手法に学び、鉄板を0.1mm単位で薄くしたり、構造を変えてみたりと、あらゆることにトライした。
初代LPLの久米は、自ら倉庫に座り込んで図面と計量器を脇に置き、
「これはあと何グラム下げる。こっちはOK」
と、部品1つ1つを評価するといった具合で、グラム単位で軽量化を徹底していった。その結果、680kgまで軽量化することに成功する。
サスペンションもまた、シビックの絶対値を実現するために、軽量・高剛性・低コストを目指した。
当時のFF車のリアサスペンションは、左右の車輪を1本の車軸で連結したリジッド式がほとんどだったが、設計を担当する坂田守は、左右が独立したストラット式の四輪独立懸架サスペンションを提案した。
「車軸がない分、居住空間をより広げられることや操縦安定性・前後のバランス配分、そして軽量化の面でも、シビックには、この方式がベストマッチだと考えました」(坂田)
しかし本田の反対は容易に予想できた。本田は、坂田の推すストラット式ではなく、構造がシンプルで生産性が高いリジッド式を最も推奨していたからだ。そのためチームは、本田に何の相談もせずストラット式独立懸架のサスペンション開発を進めていた。
ところがある日、ストラット式の開発が本田の目に触れ、日を改めて是非が問われることになってしまった。
ストラット式がベストマッチだという考えを曲げるつもりはない。LPLを木澤に譲りスーパーバイザーとして支援する久米からも、「ストラットを守り切れ」と鼓舞されている。自信とプレッシャーと不安が一緒になった気持ちのままで、坂田は、本田と河島の待つ役員室の扉を開けた。そして恐る恐る、しかし無我夢中で、ストラット式独立懸架の良さと、世界に通用するクルマにとっての必要性を説いた。
ところが、説明を聞いても、本田は相変わらず渋い顔をしている。
「おれには独立懸架の良さはわからねえなあ」と言い、「どうだ?」と隣の河島に意見を求めた。
すると、河島の口からうれしい言葉が発せられた。
「この男が、これだけ言うんですから、どうでしょう、やらせてみては」
これには本田も、「そうか、ならやれよ」と、ひと言を残すだけだった。
坂田の信念が河島の気持ちを動かし、念願であったストラット式独立懸架サスペンションの開発を実現させたのである。
開発完了後、欧州を走り、米国を走り、現地の人にも乗ってもらい、狙い通り世界に通用するクルマに仕上がったことを実感することとなる。そして、このストラット式独立懸架サスペンションは、その後の日本の小型・中型車に多く採用される技術となっていった。
エンジンは、レーシングスピリットを秘めながらも、1300搭載のDDAC(Duo Dyna Air Cooling〈一体構造二重壁空冷方式〉)とは打って変わった、実用的な水冷エンジンを目標に開発がスタートした。
課題は、限られたサイズの中で十分な居住空間をかせぎ出せるエンジンとすることにあった。そのためにはエンジンを横置きにし、トランスミッションを直結させるしかない。それでも当初は、エンジン長をぎりぎりまで詰めない限りハンドルも切れない計算だった。
そのため、ウォーターポンプをエンジンブロック内に押しこめたり、オイルポンプの駆動をカムシャフト中央部としオイルパン内でオイルポンプを駆動させ、ヘッドヘの給油はこのシャフトの中を通して行うなど、ありとあらゆる工夫を凝らした。
こうした試みによりエンジン長を25mm短縮し、シビックのコンパクトなエンジンルームに収めたのである。
目標性能を、最高出力60PS/5,500rpm・最大トルク9.5kgf・m/3,300rpmに設定し、1100ccと1200ccのいずれにも対応し得るよう、並行して部品図を準備したが、上市時点では1200cc(1,169cm3)1本に絞ることになった。
1972年7月に行われたシビックラインオフ式典。以降、若い世代を中心に新たな市場を生み出していった
新たな市場を切り拓くということ
予想はしていたが、シビックのスタイリングに対する社内の反応は冷ややかなものだった。
研究所内の評判は、「こんな格好のクルマが売れるのか」という懐疑的なもの。営業部門の内見会では、「(3ドアの)3枚目のドアはどちら側にあるのですか?」と真顔で尋ねられた。それほどまでに3ドアハッチバックというスタイリングの認知度は低かったのだ。
しかし、コンセプトに忠実になればなるほど、「3ドアハッチバックの台形スタイル」が望ましい。岩倉は「台形で安定感のあるクルマ」、「白魚のような手でなくゲンコツ」など、さまざまな表現を駆使し、スタイリングが持つ意味を説いて回った。
そうした努力が実を結び、それまで台形スタイルを目にしたことがなかった所員にも徐々に理解され、やがて、海外の自動車事情を熟知している専門家やジャーナリストたちから圧倒的な支持を得ることになるのだった。
「オーバーに言えば、『シビックが分からない人は、クルマのことなんか分からない』といった風潮にまでなっていましたね」(木澤)
当初は売れることを祈るしかなかった開発メンバーたちも、発売されるころには全員が「売れなきゃおかしい」という確固とした自信を持つまでになっていた。
鈴鹿製作所の閑散とした生産ラインに打ちのめされてから、わずか2年。当時の常識を超える短時間で開発されたシビックは、1972年7月に2ドアが、9月に3ドアGLが発売された。
「ある日、久米さんに、発表のお祝いに宴会に連れていっていただきました。そこのお店の従業員と話していて、『シビックはこいつがデザインしたんだぞ』と紹介してもらったら、シビックは知っていたんだけど、『ああ、あれは安いクルマでしょ。だって高いクルマには“しっぽ(トランク)”があるもの。クラウンが一番で、次にコロナ。パブリカは少しだけあって、シビックにはないものね』と言われたんですよ。これは正直なところショックでした」(岩倉)
発売当初のお客様の反応は、かつての社内と同様だった。見たことのない台形スタイルに戸惑っているように思えた。戸惑いを表すかのように発売直後の販売台数は伸び悩んだが、3ドアGLが発売されるやいなや、若い世代を中心に爆発的な人気を博し、月に12,000台以上を生産するほどの大ヒットを記録した。発売した1972年は残りが5カ月だったため21,000台にとどまったが、翌1973年には8万台、1974年と1975年は2年続けて6万台を超える販売台数を記録した。
そして、1972年から1974年まで、史上初となる3年連続のカー・オブ・ザ・イヤー(三栄書房『モーターファン』誌主催)受賞を成し遂げたのである。
『モーターファン』誌主催カー・オブ・ザ・イヤー第1位および大衆車部門賞を史上初3年連続受賞(1972年から1974年)
世界のベーシックカーへ
海外の評価もまた、異例なほど高いものだった。
欧州では1973年、日本車として初めてのカー・オブ・ザ・イヤー入賞(第3位)を果たし、米国では1974年、カー・オブ・ザ・イヤー(『ロードテスト』誌主催)第1位に輝いた。カナダでは1976年から1978年にかけて、連続28カ月間も輸入車台数第1位を記録したほどである。
海外での高評価を決定付けたのは、1970年に可決された米国マスキー法(1970年改正の米国大気浄化法)の排出ガス規制を、CVCCエンジンによって世界のどのメーカーよりも早くクリアしたことだった。また、有鉛ガソリンと無鉛ガソリンの両方に対応したこと、優れた燃費性能を備えていたことが、米国の消費者の利益にかなった。
当時の米国は、環境問題への対応のため、ガソリンが有鉛から無鉛へと変わりつつあった。必然的に自動車メーカーが出す新型車は、無鉛ガソリン専用車となる。無鉛ガソリン専用車に有鉛ガソリンを入れると、鉛が触媒表面に皮膜をつくってしまい走れなくなる。
ところが、第1次石油危機(1973年オイルショック)の影響で無鉛ガソリンが全米に行き渡っていなかったため、無鉛ガソリン専用車に乗る消費者は、無鉛ガソリンを扱うスタンドに列をつくり給油する不便を強いられていた。
シビックCVCCは、副燃焼室付きエンジンによって燃焼そのもので排出ガスのクリーン化を達成している。触媒は付いていなかった。つまり、どちらのガソリンでも走ることができたのである。
当時、アメリカン・ホンダ・モーター(AH)で四輪車の営業を担当していた宗国旨英は言う。
「シビックのキャンペーンでは『ANY KIND OF GAS(どの種類のガソリンでもどうぞ)』がうたい文句でした。このCVCCエンジンのキャンペーンの効果で、お客様に『ホンダは非常に高い技術力を持っている』という、良いイメージを伝えていったのです」
シビックは、お客様をガソリンスタンドの列に並ぶ煩わしさから解放した。燃費については、CVCCエンジンに加え徹底した軽量化が功を奏し、米国環境保護庁(EPA)のテストで、1974年から4年連続して燃費ナンバーワンを記録したのである。
世界に通じるクルマを目指した日本車シビックは、ジャーナリストから高い評価を受け、環境問題や石油危機をも追い風とし、そしてなにより、お客様から多大なる支持を得たことで、文字通り世界のベーシックカーへと大躍進を遂げたのである。
「世界市場でも通用するクルマ」を目指して開発されたシビック。欧州では日本車として初めてカー・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど世界で高い評価を得て、世界のベーシックカーとなった
市民のクルマ
2022年、シビックは誕生50周年を迎えた。
時代とともにシビックの在りようも変遷し、8代目(2005年)以降はボディーサイズが5ナンバー枠を超え、大型化が進んだが、シビックのアイデンティティーは揺らぐことがない。「純粋に今、必要なクルマとは何か」という命題に対する、ホンダの全身全霊を込めた回答である。だからこそ、国を超え、時代をも超えて支持されてきたのだ。
50年ほど前、まだ名前が決まっていない新車「634」の発売を控え、岩倉のもとに、販売促進部長(当時)の奥本清彦から電話がかかってきた。
「今度の新車の名前を考えたんだけど、おまえが一番、クルマのことを分かってるから、これでいいかどうか言ってくれ。名前は『シビック』だ」
その名前を聞いた瞬間、岩倉は感動で身震いした。開発者たちの「想い」のすべてを凝縮した名前が与えられたからだ。
シビックの開発を振り返り、木澤と岩倉は奇しくも同じく、こう語る。
「乗っていただくお客様の笑顔をイメージしながら、こういうものをつくるんだという信念を持っていないといけない。自分の『想い』を伝えていこうとしなければ、お客様に良いものを提供することなんてできない。それが十分にできたのが、このシビックというクルマだったと思います」
2022年に誕生50周年を迎えたシビック。時代とともに変化を遂げながら「純粋に今、必要なクルマとは何か」という命題を追求し続けている