Me and Honda, Career Hondaの人=原動力を伝える Me and Honda, Career Hondaの人=原動力を伝える

Me and Honda, Career Hondaの人=原動力を伝える

ロードレーサーの開発がしたい──夢を力に走り続け、Hondaでかなえた夢の頂点

幼いころから夢を追い続け、現在はテクニカルマネージャーとして二輪レースの最高峰カテゴリー「MotoGP」に参戦している川瀬 幹彦。「Hondaらしい人生を歩んできた」と語る川瀬のThe Power of Dreamsなキャリアに迫ります。

川瀬 幹彦Mikihiko Kawase

株式会社ホンダ・レーシング 二輪レース部 開発室 第1開発ブロック

10歳でオートバイに魅了され、18歳からレースに参加。部品メーカーに就職後も27歳までレーサーとしての活動を継続。その後、完成車メーカーを経てHondaへキャリア入社。2012年にホンダ・レーシングへ異動し、念願だったMoto3の車両開発に携わる。2019年にはLPLとしてMoto3世界チャンピオンに輝く。現在はMotoGPのテクニカルマネージャーを務める。

世界最高峰のロードレースに参加。テクニカルマネージャーとして年間22戦を戦う

▲ライダーともコミュニケーションをとりながらマシンを最適な状態に仕上げていく

ホンダ・レーシングの第一開発室に所属する川瀬。テクニカルマネージャーとして、世界最高峰のロードレース「MotoGP」に参加しています。

川瀬「レースで戦うために、マシンをどのような仕様、セッティングで走らせ、どんな戦術をとるべきか。細かい作業まで含めて指揮をとるのがテクニカルマネージャーの役割です。まずはレースに勝つことが最優先。その先に、培った技術が量産車の開発へとつながっていきます」

MotoGPは年間22戦。日本グランプリを除き、その舞台は海外。勝つためには、開発を行う日本のメンバーとの連携が不可欠です。

川瀬「日本にいる開発メンバーは、レースの現場で何が起きているのかを自分の目で見ることができません。そのため、マシンが今抱えている課題を抽出して、解決のための方向を示していく必要があります。

年々マシンが複雑化していることもあり、ロードレースではハードをいかに使いこなすかが課題になっています。そこで、私のような開発メンバーが帯同し、チームと一緒にレースを戦うことがトレンドになっているのです」

こんな世界があるのか──乗る、見る、触る、すべてに魅了されてロードレースの世界へ

▲レーサー時代の川瀬。膝を擦ってコーナーを曲がる様子は、まさに憧れていたレーサーの姿

宮崎県にあるのどかな町で育った川瀬がバイクと出会ったのは10歳の時。兄が同級生に借りてきたロードレースのビデオでした。

川瀬「『こんな世界があるのか!』と衝撃を受けました。膝を擦ってコーナーを曲がっていく姿が、とにかく格好良かったんです。そのレースで活躍していたのが、ホンダ・レーシングのライダーたち。だから、私にとってロードレースといえばHonda。バイクに出会って以来の憧れです。

中学生になってからは新聞配達でお金を貯めてスクーターを購入。父や親戚、近所の人たちのトラックに積んで、県内に1カ所だけあったレース場に連れて行ってもらい、スクーターレースの練習を始めました」

高校生になると原付免許を取得し、新聞配達でレース費用を稼ぎながら月に1回練習に通う日々を送ります。走ることはもちろん、機械的なおもしろさにも魅了されたと話します。

川瀬「農機具が身近にあったので、自分で買った工具セットで修理したりすることも。動くための基本構造はバイクも農機具も同じですから、バイクも自分でメンテナンスしていました。乗ること、見ること、触ることのすべてが楽しかったんですよね」

大学に入ると、小排気量125ccのカテゴリーで本格的にレース活動を開始します。

川瀬「当時は、どうやってレースで成功するかという目標しか見ていませんでした。九州選手権で年間3位になることができ、このまま続けていけば全日本選手権も見えてくるという手応えもありました。

もちろん、それがかなうのはほんのひと握りだということはわかっています。でも、行けるところまで行ってみたいと思ったんです」

Hondaで開発にチャレンジしたい。レーサーを卒業して芽生えた新たな夢

▲レース中の1枚。横でサポートするのは、夢に向かって共に歩み続けてきた妻

レース活動を続けるため、福利厚生が充実していることを理由に地元にあるHondaのグループ会社に就職。ドアロックやカギの開発に携わりながら、週末はレースに参戦する生活が始まります。

川瀬「宮崎の自動車整備工場を母体としたチームに所属し、金曜の夜にサーキットに向かい、土日はレースや練習を行っていました」

次第に各地方で行われるレースにおいては、ランキング上位を狙えるまでになりますが、けがをきっかけに27歳で引退を決意します。

川瀬「時を同じくして関東への転勤が決まり、結婚することになりました。レースはお金もかかりますし、週末は家をあけることが多い。結婚したら引退しようと決めていたんです」

引退後は、趣味でミニバイクのレースなどを楽しんでいた川瀬。客観的にレースを見られるようになったことで、新たな夢が芽生えます。

川瀬「次は自分がバイクを作る側に回りたい。これまでお世話になったレース業界に何か恩返しをしたい。そんな想いが強くなっていきました。

そのころ、2サイクル125ccのカテゴリーが4サイクル250ccに変更されるという動きがあり、Hondaも開発を始めるのではないかという話を耳にしたのです」

それならば、Hondaで開発をしてみたい──バイクの開発は未経験ながら思いきって応募してみたものの、結果は不採用。そこで、夢に向かって前進するために転職という道を選びます。

転職活動では、ある二輪メーカーからレースエンジニアとして内定をもらった川瀬。しかし、妻の言葉をきっかけに辞退し、グローバルに展開する完成車メーカーに入社します。

川瀬「『他社でレースに参加したら、そちらに愛着が湧くのではないか』『Hondaに入るという夢をかなえるなら、Hondaから見た時に魅力的な人材に見えるよう多くを学べる環境に身を置くべきではないか』とアドバイスをもらいました。私の夢を理解し、導いてくれたことに、今でも感謝しています。

入社した完成車メーカーでも人に恵まれ、すぐに大きなプロジェクトに関わらせてもらうなど、良い経験をさせてもらいました」

デビュー戦で思わず涙。ぶれずに夢に向かってきたからつかめたチャンス

その後、機を見てHondaの採用選考に再挑戦。2008年に入社を果たすと、配属先である二輪の研究開発を行う部署で足回り設計を担当する傍ら、社内のレーシングクラブ「ブルーヘルメット M.S.C(ブルヘル)」に所属。監督を務めるなどレースとの関わりを続けます。

ついに夢に手をかけたのは、入社4年目のこと。Hondaが250ccのカテゴリー「Moto3」に参戦することが決まったのです。

川瀬「入社以来ずっと『Moto3の開発がしたい』と言い続けていました。それがホンダ・レーシングの関係者に伝わり、声をかけてもらったんです。

いま思えば、ぶれずにずっと夢に向かって歩いていたので、チャンスが来た時につかめる状態だったのだと思います。そうなれば、あとはつかむだけですよね」

念願だったレース車両の開発に、車体領域のPL(プロジェクトリーダー)として携わることになった川瀬。しかし、これまで関わってきたのは量産車の設計。しかも、足回りだけ。レース車両の開発ノウハウは持ち合わせていない上、レーサーとしてのキャリアが邪魔をしたと振り返ります。

川瀬「レース車両はゼロベースから開発することに加え、明確な基準がなく、すでにあるものをトレースすることができません。ひたすら考えて、調べて、提案してはやり直して……の繰り返しでした。

さらに、レーサーとしての経験があるがゆえ、『あとはライダーが頑張ればいい』と思ってしまうんです。けれど、ハードウェアの開発者はライダーに依存しない完璧なマシンを作らなくてはいけない。その心の壁を取り払う戦いに苦労しました。とにかく大変でしたが、とても楽しかったですね」

およそ1年後の2013年、ついに川瀬の手がけたマシンがサーキットで躍動します。

川瀬「泣きましたね。もちろん、トラブルが起きないかという不安もありましたが、夢をかなえられた瞬間ですから。とても感慨深かったですし、夢を原動力に進んできた『Hondaらしい人生だな』と思いました」

夢の頂点へ──大きな重圧と戦いながら手にした世界チャンピオン

その後、マシン全体の機能をとりまとめるMoto3開発総責任者となった川瀬。大きなプレッシャーを感じる日々を過ごします。

川瀬「レースまでの時間は限られている。しかも明確な基準がないなかで、エンジン、車体、電装のバランスを、全体最適で考える必要があります。250km以上のスピードが出るマシンは、一筋縄ではいきません。5ミリの違いで部品が壊れることもある。そんな繊細な調整の積み重ねです。

自分がしっかりしなければ、ライダーの命が危険にさらされる。メンバーに言い聞かせながら、私自身もその重責と闘っていました。

でも、開発総責任者として作り上げたマシンが最初にレースに出た時、泣きましたね。Hondaに入ってから2回目の涙です」

そして、2019年。夢の頂点へ──

川瀬「Moto3で世界チャンピオンを獲得することができました。うれしかったですね。

しかも、表彰式には役員クラスが参加する慣例なのですが、たまたまの巡り合わせで私が参加することに。普段は仕事をしている姿を見せる機会がない家族が喜んでくれたことも、うれしかったですね」

人生に厚い扉はあっても壁はない。夢を原動力に歩むHondaらしい人生

「The Power of Dreams」を体現した川瀬。その秘訣は、いつでも目の前の出来事にポジティブに向かう姿勢です。

川瀬「幼少期は決して裕福な家庭ではありませんでした。でも、祖父母はどんな時でも明るく前向きでしたし、近所の人たちがいろいろとサポートしてくれました。だから私も前向きな気持ちでいられたのかもしれません。

私の人生のモットーは『反省はするが、後悔はしない』『厚い扉はあっても壁はない』。それはレースも同じ。うまくいかなかったとしても、『でもスタートは良かったよね』『1周目は思い通りにいったよね』と良い面を見るようにしています」

そして、夢をかなえるためには「言葉にすることも大事」だと続けます。

川瀬「夢を言葉にすると力が出ますし、一貫性があると自分自身も自然と努力すると思うんですよね。それが周りの人に見えると、いろいろな人が導いてくれます。すると、夢の実現に近づくし、人に対する感謝も生まれる。だから、昔から目標は日常的に言葉にしていました」

それこそが、「Hondaらしい人生」。壮大な夢を掲げても耳を傾けてくれる、実現を後押ししてくれる環境がHondaの最大の魅力だと語ります。

川瀬「職責、年齢、キャリアに関係なく自由に発言ができる。若手社員の意見にも、否定から入らずに、まずは『なるほどね』と聞いてくれる。そういった環境が自分を成長させ、夢をかなえる力になっているのだと思います」

大好きなHondaに、そして自分を育ててくれたレース業界への恩返しが次なる夢です。

川瀬「ここ数年成績が伸び悩んでいるMotoGPで、強いHondaを取り戻すこと。それが直近の目標です。

将来的には、レースを通じて社会貢献をしていきたいと考えています。人と人とのリアルなつながりが希薄になりつつある時代ですが、モータースポーツは多くの人を熱狂させ、コミュニケーションを生み出す力があります。

また、私自身がサーキットで多くの大人と接するなかで人間的に成長できたように、モータースポーツは人材育成という側面もあります。さまざまなイベントを通じて、その魅力を発展させていきたいですね」

Hondaは家族のようなものだと笑う川瀬。一緒に成長していけること、Hondaの一員であることを誇りに思いながら、まだまだ夢に向かって突き進みます。

※ 記載内容は2024年6月時点のものです

Recruit

採用情報

Hondaは
共に挑戦する仲間を
募集しています