第Ⅲ章
独創の技術・製品

第1節 二輪車 第1項 モーターサイクルの喜びと感動

第1節 二輪車 第2項
モーターサイクルの
喜びと感動

時代と世代、そして国境を超える翼

モーターサイクルの楽しさを深め広げるために、高性能を幅広い人々のものとし
より多くの人々の「喜びと感動」を生み出すことを目指してきたホンダモーターサイクル。
そこにはいつの世も「つくり手」の情熱と、たゆまぬ技術への挑戦があり
身近でありながら革新を、普遍でありながら究極を求めて、さまざまな方向へと進化を遂げてきた。
目指すべき到達点はただ1つ、すべてはお客様の喜びのためである。

CB ビッグバイクの原点かつ理想形

 1969年に発売されたドリーム CB750FOURは、当時 世界の他のメーカーに直列4気筒エンジン搭載の量産モデルが無かった時代、完全量産型で近代的な空冷4ストローク4気筒SOHC 2バルブ 、排気量736ccエンジンを搭載し登場。世界グランプリで培った多気筒技術をイメージさせる4本マフラーの堂々とした車格、フロントには当時量産市販車初の油圧ディスクブレーキを採用したその仕様は、かつてない「ビッグバイク」であり、その独創性はスーパーカブに続く、ホンダによる発明といってもいい。
 最高出力67PS・0-400m12.4秒・最高速度200km/hというパフォーマンスも当時の市販車では世界トップレベルだった。本田宗一郎でさえ当初は「こんなにデカイのに誰が乗るんだ」と驚いたほどであったが、誰もがすぐにその存在に魅せられていき、瞬く間に世界のモーターサイクルの頂点へ駆け上がったのである。

ドリーム CB750FOUR

ドリーム CB750FOUR

ドリーム CB750FOUR 走行動画

 しかし、CBに刺激を受けた各メーカーが数々の競合車を投入する激戦状態となった。1970年代前半に川崎重工業(株)(以下、カワサキ)が900 SUPER 4(Z1)(以下、Z1)、さらに国内向けZ750RS(Z2)を送り込んでくると、ホンダもCBのモデルチェンジなどで対抗する。それはアメリカでは受け入れられたものの、ヨーロッパの人の心はつかみきれず、少しずつホンダの王座は脅かされていった。1977年頃のヨーロッパ市場でのホンダのシェアは危機的状況に陥っていた。そこで、立て直しの一環として、欧州市場に影響力を持っていた耐久レースシリーズに、当時のチャンピオンでもあったZ1を打倒するためのプロトタイプマシン・RCB1000を投入。1976年から1978年までヨーロッパ選手権シリーズ全勝優勝、1979年までに4年連続メーカー&ライダーチャンピオンを獲得。
 1979年、このRCBの技術とイメージを反映した新世代のCBが上市された。CB900F/750Fである。同時にDOHC 6気筒のCBX1000も上市。美しいDOHC4バルブエンジンを、インテグレーデッドストリームラインと呼ばれた流麗なスタイリングの車体に搭載した、新しいスポーツモデルだった。CB900F/750Fは発売直後から日米欧で大人気となり、CBブランドは再び世界のビッグバイクの頂点へ返り咲いた。

CB750F

CB750F

CB750F 走行動画

 高性能ビッグバイクの代名詞となったCBであったが、1980年代に入るとその技術的パフォーマンスの追求は、V4エンジン搭載モデルへとシフトしていく。1982年から1991年にかけての10年間、ホンダの大型スポーツモデルは、V4モデルとスーパースポーツCBRというラインアップとなり、そこにCBを強烈に印象付けるビッグバイクの姿はなかった。
 「当時、社内で後輩たちのバイク談義などを聞いていても他社の逆輸入直4(直列4気筒)モデルのことばかりで、その現実に憤りさえ感じていた。自分の原体験にはCB750 FOURやCBX1000、そしてCB1100Rなど、ホンダと日本を誇らしく感じる直列エンジンのモデルがあったからだ。『プロジェクトBIG-1』はそんなモヤモヤした気持ちが基点となって始まった」と言うのは、当時、BIG-1ことCB1000 SUPER FOUR(以下、SF)のデザイナーであった岸敏秋だ。
 プロジェクトBIG-1は、岸が描いたCB-1(400cc)の車体に大きなCB1100Rの燃料タンクを載せた落書きのような偶発的なスケッチが発端だった。当時のデザイン現場の責任者だった中野耕二がそれを見て「こんな感じの直4大型バイクができたら」と話が膨んでいった。中野もある時に「ビッグバイクといえばカワサキのイメージ。ホンダは選択肢が多いが、250や400の会社に思える」と一般ユーザーから聞かされ、ショックを受けていた。
 「BIG-1は非公式のプロジェクトだったにもかかわらず、社内の機運を盛り上げようと多くの開発者の目に触れやすいよう、デザイン室の一等地でクレイモデルの検討を始めた。そして、そのもくろみ通り、社内の賛同者が徐々に増えていった」(岸)
 その賛同者としてコンセプトを一緒に練り上げ、開発責任者(以下、LPL)を務めた原 国隆は語る。
 「自分も当時、『最近は大人の乗るバイクがない』と感じていた。だから岸のつくったクレイモデルを見て『これはデカいな、迫力があるな』と思い、『乗っていてドーンッとくるのがいいね』なんて言っていた。自分の大型車の原体験はCB750 FOUR(K0)であり、『乗れるものなら、乗ってみろ』というくらいの存在感のある直4モデルが、私にとってのCBだった。だからBIG-1も自己主張のある『太い走りのバイク』にしたかった」
 デザイナーの岸がこだわったのは前後18インチタイヤだった。タイヤサイズは車体の大きさを決める重要な要素だったが、当時は大型モデル用の国産18インチタイヤはなく、しかも18インチに対する反対意見も少なくはなかった。原は「ホンダはなんにでもチャレンジする会社じゃないか」と押し通した。
 だが、開発現場から社内に提案されたBIG-1は、新技術もない2本ショックのモデルでは、欧米での売り上げが見込めない、という営業的な見地から却下されてしまう。それならばユーザーに直接問おうと、同時開発していたCB400SFのイメージ訴求モデルの形で、東京モーターショーに参考出品したのである。

CB1000 SUPER FOUR アイデアスケッチ

CB1000 SUPER FOUR アイデアスケッチ

開発者の目に触れることで、社内の機運が盛り上がった。クレイモデル検討

開発者の目に触れることで、社内の機運が盛り上がった。
クレイモデル検討

CB1000 SUPER FOUR(初代BIG-1)

CB1000 SUPER FOUR(初代BIG-1)

 「もう来場者の目の色が違っていた。誰もがなめ回すようにバイクに見入る姿は、1968年の東京モーターショーにCB750 FOURが登場した時と同じものだった」(原)
 その反響を受けて、BIG-1はCB1000 SUPER FOURとして1992年11月に発売され、1年間で約4,000台を売るヒット商品となった。それを見た他社も相次いで競合商品をリリースし、1996年には規制緩和によって大型二輪免許が教習所でも取得できるようになったことも追い風となり、国内にはかつてないビッグバイクブームが訪れた。
 そして、「ライバルに排気量で負けたくない」というユーザーの意見もあって、1998年には排気量を1300ccに拡大。出力を93PSから100PSに向上するとともに低中速をより充実させた。車体では前後17インチタイヤ、シート高の引き下げなど、乗りやすさを求めた変更が施された。排気量拡大に合わせてブレーキやサスペンションも強化し、狙い通りに走りのパフォーマンスは向上したものの、車両重量は260kgから273kgに増加してしまった。

CB1000 SUPER FOUR 走行動画

CB1300 SUPER FOUR(2代目BIG-1)

CB1300 SUPER FOUR(2代目BIG-1)

CB1300 SUPER FOUR(2代目BIG-1) 走行動画

 しかし、CB1300SFとなったBIG-1は発売年には販売計画を上回る4,600台を売り上げ、単年あたりではシリーズ最大の記録となった。2003年には軽量化とPGM-FI(電子制御燃料噴射装置)の採用を中心にしたモデルチェンジを行い、3代目以降も幾度となく手直しを受け、発売30年を超えた現在に至るまで磨き込まれてきた。
 市場の要求や法規制などで時代が変化しても、初代CB1000SF以来の扱いやすさや快適性を向上させるという考え方は不変である。そこには「乗りたいバイク、所有したいバイク」という、つくり手とユーザーの想いが1つになった、ビッグバイクの理想像、すなわちCBというモーターサイクルの姿そのものである。

CB1300 SUPER FOUR(3代目BIG-1)

CB1300 SUPER FOUR(3代目BIG-1)

CB1300 SUPER FOUR(3代目BIG-1) 走行動画

CB1300 SUPER FOUR SP

CB1300 SUPER FOUR SP

プロジェクトBIG-1 30周年記念モデル

プロジェクトBIG-1 30周年記念モデル

CBR 究極の「操る楽しさ」を

 1991年11月のミラノショーでCBR900RRファイアブレード(以下、ファイアブレード)は衝撃的なデビューを果たした。1000cc TT-F1(ツーリストトロフィーフォーミュラワン)レギュレーションに代わり、750ccスーパーバイクレギュレーションが1994年から施行されようとしている時代に、それとは関係のない排気量設定で登場したからだ。そのコンセプトは「操ることを最大限に満喫できる、TOTAL CONTROL」であり、スポーツライディングの楽しさを徹底的に追求したモデルだった。

初代CBR900RR

初代CBR900RR

初代CBR900RR 走行動画

 「とにかく『操る』ことを最大限に満喫してもらい、お客様に走りを楽しんでもらいたかった。それも、ライダーに冷や汗をかかせないこと。ワインディングや、街の中を走っていると、時にひやりとして冷や汗をかくこともあるが、そのひやりを避けられるように最大限コントロールできる。そんなマシンを狙って自分で開発を手掛け、自分で楽しめるようなら、お客様に納得していただける商品として提供できると考えていた」と、当時LPLの馬場忠雄。それまで30年にわたってテストライダーを務めてきた馬場は、その経験が買われてLPLにばってき抜擢された人材だった(2002年の6代目までLPLを務めた)。
 馬場はスポーツライディングの楽しさ、ライダーの意のままに操れるコントロール性の獲得のために、乾燥重量185kg・装備重量200kg以下という目標を設定。それを基準にして600cc並みに軽量な車体に、1000ccに匹敵する出力を求めると、そのバランスポイントが900ccとなったのである。当時のスポーツモデルの大半は、最高出力と最高速の数値を商品訴求の通例としていたが、ファイアブレードでは最高出力は125PS、最高速度は260km/h前後で十分な性能が発揮できると判断し、軽量化に注力した。
 通常、排気量の拡大は車重の増加を招くものであり、1000ccモデルにおいて185kgの車重を実現することは当時の技術では困難であったが、排気量を900ccにしてもその難易度は変わらないものだった。ファイアブレードの開発における軽量化は、車体全体においてグラム単位で行われた。当時の車体設計プロジェクトリーダー(PL)だった福永博文は言う(2004年から馬場の後を継いでファイアブレードのLPLに就任)。
 「最初に馬場に言われたのは、グラフィックのストライプシールの重量まで管理するということだった。当初は驚いたり感心したりもしたが、そこまでやったからこそ目標がクリアできたのだし、そうしないとできるものもできない。何かで一気に軽量化ができることはまずないので、全員がどれだけ知恵を出せるかが重要だった」
 初代ファイアブレードの素性を知るうえで1つの目安になるのは、当時ホンダが販売していた600cc以上の4気筒モデルとのスペック比較だろう。以下は1992年型モデルの最高出力・乾燥重量・ホイールベースである。900ccで125PSの最高出力は妥当と思えるものの、同じフルカウルのCBR1000Fを大幅に下回り、CBR600Fと同じ乾燥重量とホイールベースは、従来のオーバー750cc4気筒の常識ではあり得ない数値であった。
 もちろん、全面新設計の直列4気筒エンジンでも小型軽量化を実現するため、サイドカムチェーンやシリンダーと一体型のアッパークランクケースなどを導入。ギアトレーンは重量とサイズで不利と判断し、カムシャフトの駆動をチェーン式としたことや、部品点数を減らすために背面式が主流だったACG(交流発電機)をクランクシャフトの左端に設置したことも同様である。

リッタークラスのパワーに600ccクラスの重量とサイズを実現したCBR900RR

リッタークラスのパワーに600ccクラスの重量とサイズを実現したCBR900RR

小型軽量化された直列4気筒エンジン

小型軽量化された直列4気筒エンジン

 車体に関しても初代ファイアブレードは画期的な機構を随所に導入していた。フレームはスーパースポーツの定番と言うべきアルミツインスパーだったが、押し出し材のメインチューブは異形断面・4層構造という独特の形状でその成形には非常に苦労している。理想的なアンチスクワット(加速によるリアの沈み込みを抑える)を求めて、ミッションの出力軸とスイングアームピボットの位置関係は入念なテストを実施。軽快なハンドリングと重量削減を念頭に置いてカウルに開けられた数多くの穴は、ファクトリーマシンRVF750からの技術転用だった。
 そして、それら以上のインパクトを放っていたのは、あえて採用した前輪16インチと正立フロントフォークだった。当時はすでに前輪17インチが定番になりつつあったが、過去に前例がないショートホイールベースに高出力の組み合わせでは、前輪の接地感が十分に得られなかったため130mmの前輪幅が必要だった。しかし、タイヤサイズが130/70ZR17では外径が大きくなり、130/60ZR17では乗り心地が悪くなる。そこで外径を120/70ZR17と同等としながら幅を広げるために、130/70ZR16という特殊なサイズを採用したのである。

革新的だった正立フロントフォークと前輪16インチの採用 革新的だった正立フロントフォークと前輪16インチの採用

 正立フロントフォークの採用は、ステアリング周りの重量増を避けると同時に、乗り味に影響を及ぼすフォークピッチの自由度を確保するためだった。しかも倒立に匹敵する剛性獲得のためインナーチューブには当時では極太のφ45mmを選択し、ボトムにアルミ鍛造2ピース構造を採用することで、1本当たり700gから800gの重量削減を実現していた。
 このように、革新的で異例の存在だった初代ファイアブレードは、ベテランを中心に、世界中で多くのライダーから支持を集めた。ただし、粗削りでとがったところも残っていたが、その後のファイアブレードはその運動性を維持することを念頭に置きつつ、扱いやすさを意識したさまざまな改善が実施され、1998年に登場した3代目後期モデルで、開発陣の理想としていたレベルへの熟成が図られていった。
 そして2000年以降のファイアブレードは、時代の変化とライバル勢の台頭に対応すべく、世代を重ねるごとに大胆に進化してきた。2004年型以降はレース用ホモロゲーションモデルとして1000ccに排気量を拡大し、MotoGPマシンの技術も投入された。2020年にはサーキット使用に重きを置いた最高出力218PSの1000RR-Rとなったが、ライダーが積極的なスポーツライディングを楽しめることは忘れておらず、初代で提唱した「TOTAL CONTROL」というコンセプトは、その歴史が30年を超えた現在も不変なのである。

CBR1000RR-R FIREBLADE SP 30th Anniversary

CBR1000RR-R FIREBLADE SP 30th Anniversary

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