第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第5節 アジア大洋州
 第1項 アジア大洋州

成熟期を迎え二輪車市場は多様化・グローバル化へ

 アジアにおける二輪車市場は右肩上がりの成長を続けたが、やがて成熟期を迎える。例えばタイでは、2000年代半ばには二輪車は国民の3人に1台のレベルまで普及していた。もちろん買い替え需要は見込まれたが、飛躍的な成長は期待できない。他のアジア諸国も同様で、2010年代に入ると東南アジアの二輪車市場は成長市場から成熟市場へ移行していった。
 そこでホンダは、市場の変化に合わせた戦略の見直しに着手する。まず、生産効率と商品競争力を高めるために、可能な限り車両の骨格部分や仕様を統一するなど、各国間の製品プラットフォームの統一化を図った。一方で、各国のニーズも取り入れる試みを推進する。中心となったのはタイの研究所、HRS-Tだ。HRS-Tが開発全体を統括し、各国のマーケティング・センシング機能を持つ拠点が連携しながら国ごとの情報を収集する体制をつくり上げた。新たな現地化により、生産・調達だけでなく、HRS-Tを中心として開発の機能も拡充し、外観や色・仕様・装備なども現地の市場の反応を迅速に反映しつつ、開発できるようになった。
 市場の成熟化による変化は、アジア各国で起こった。タイでは、2010年代からは製品の多様化を図った。従来のアジアにおける二輪車の位置付けは生活必需品だった。そのため、小型バイクやスーパーカブタイプのバイク・スクーターといった、比較的安価で実用性の高い商品を中心に展開してきた。それに加えて、新たなニーズを掘り起こし、走る楽しみを重視したSCOOPY(スクーピー) i・MSXやZOOMER(ズーマー)-X・Monkey(モンキー)125などの製品投入も開始したのである。CBR250RやCRF250、CBR500RやCBR650Rなどの中・大型系のスポーツバイクも、法規制の流れもあり、THが設立した二輪車グローバルモデル工場で生産された製品が日米欧各国へ輸出される展開をみせた。またPCXは、アジア市場のフラッグシップモデルとなるとともに、スタイリッシュで扱いやすいモデルをリーズナブルに日米欧各国に提供するグローバルモデルともなったのである。
 インドネシアでは2010年代に入り、これまでのスクーターだけでなく若年層向けのスポーツモデルの展開を始め、2016年には最新鋭オールニューのCBR250RRを発売した。最新技術を搭載した製品がインドネシアのお客様にも受け入れられるようになり、国外へも輸出するに至った。

2009年発売されたPCX

2009年発売されたPCX
THが生産したアジア市場のフラッグシップモデルであり、日米欧各国に提供されるグローバルモデルともなった

インドネシアにおいて、若年層向けのスポーツモデルとして発売されたCBR250RR 最新技術を搭載し、グローバル展開された

 ベトナムでは、タイやインドネシアとは少し違う展開をみせた。富裕層の増加により、欧州市場のスクーターが人気を集める現象が起こったのだ。かつて、安価な中国製モデルに押されたのとは逆に、販売価格が欧州現地の約2倍という高級スクーターがどんどん売れた。欧州のスクーターは、小柄なアジア人の体形に対して車体サイズも明らかに大きかったが、かえってそれが豪華に見えると好まれたのである。ホンダが欧州で生産していた高級スクーターSHは、2010年代にはベトナムにおける販売台数が欧州を上回るまでに成長し、さらにHVN生産車両が欧州へ輸出されるまでになった。
 二輪事業の屋台骨を支えてきたASEAN*2地域は今や成熟期を迎え、単なる生活の足としての二輪車だけではなく、生活を豊かにする楽しさが求められている。ホンダはそのニーズに早くから取り組み、グローバルでも通用する、コストを抑えた魅力的な商品を次々と展開してきた。特にTHでは最大650ccの高性能スーパースポーツモデルも生産し、グローバルに供給している。今後も、ASEAN地域各国のお客様のニーズを先取りする商品とサービスで貢献していくことはもちろんであるが、グローバル生産拠点として、スケールメリットを最大限生かし、新たな時代をリードしていく。

  • :Association of South-East Asian Nations 東南アジア諸国連合

パワープロダクツでアジアの産業や暮らしに貢献

G200 THで生産される汎用エンジンG200・G150はアジアにおけるホンダブランドを牽引していった G200 THで生産される汎用エンジンG200・G150は
アジアにおけるホンダブランドを牽引していった

 農業や漁業といった一次産業が盛んなアジア各国では、農業機械・船外機や建築機材などのパワープロダクツ製品は、二輪車同様、市場の伸びが期待されるカテゴリーであった。
 アジアでホンダが汎用エンジンの生産を開始したのは、1987年である。THで、G200・G150といった汎用エンジンを生産し、周辺国に輸出を始めた。1977年に世界中に通用する汎用エンジンとして登場したMEエンジンシリーズのG200・G150は、農業機械から建設機械までカバーする動力源として、幅広い用途に適合できるロングセラー商品である。小型軽量で優れた耐久性を持ち、低速トルクの大きな粘り強いエンジンである。平たん地はもちろん、傾斜地での使用でもオイルの漏れにくいロータリーブリーザー機構や、埃や草詰まりに強い機構も備え、非常時にも確実に操作できるエンジンストップスイッチ、メカニカルノイズを抑えた静粛なエンジン音など、安全や環境にも配慮されている。
 ホンダの汎用エンジンはアジアで圧倒的なシェアを誇るようになり、ポンプ・刈払機・噴霧器・ボート用エンジンなど、農業や漁業を中心とした新興国向けのパワープロダクツ製品を開発していく。こうした製品は人々の生活に役立ち、THは二輪車とパワープロダクツによってアジアにおけるホンダブランドを牽引していった。

THの汎用エンジン生産風景

THの汎用エンジン生産風景

 また、輸出を前提とした東南アジア向けの戦略製品の開発・生産による市場拡大、そして汎用エンジンG200・G150の安定拡販を図るとともに、品質を向上させつつ現地調達率を高め生産量を増やすなどの試みによって、コストの低減も行った。
 さらに、1985年にインドにホンダ・シエル・パワープロダクツリミテッド(HSPP)*3を設立。1988年から発電機の生産を開始し、生産拠点を拡大していった。
 2010年代を迎えると、パワープロダクツ市場において、インドネシア・フィリピン・ベトナムで安価な中国製品との競合が激化する。ホンダはそれまで以上に、品質の向上や、現地調達率の向上と生産量増加によるコスト低減を推進すると同時に、生産技術の向上を図った。さらに、厳しい排ガス規制をクリアしたエンジンや高性能発電機など、先進国向け製品の生産・輸出も拡充した。
 これにより、2022年時点で、ホンダのパワープロダクツのグローバル展開に占めるアジア大洋州の生産台数は全体の47%に達した。そのうち、アジア大洋州からグローバルに輸出する比率は76%に上り、アジア大洋州の販売台数は北米に次いで第3位となった。アジアのパワープロダクツ拠点は、中国とともにホンダのグローバル展開の中心的役割を担うまでに成長したのである。

  • :2020年、ホンダ・インディア・パワープロダクツリミテッド(HIPP)に改称。
G200エンジンを搭載したロングテールボート(タイ)

G200エンジンを搭載したロングテールボート(タイ)

中間層にターゲットを拡大するためタイで四輪車を開発

 1983年にタイに四輪車販売合弁会社ホンダ・カーズ・タイランド(以下、HCT)を設立するなど、ホンダはアジアにおいて四輪事業の展開を開始していた。しかし、1990年代初頭、東南アジアにおける四輪車市場ではピックアップトラックをはじめとする商用車がシェアの大部分を占めていたが、ホンダが展開していたのは乗用車のみ。ボリュームゾーンの商用車は扱っていなかった。
 「乗用車しかない弱みをどう強みに変えていくかが、販売戦略のポイントでした。ホンダはアジアで築き上げてきたプレステージ(高級)なイメージを大切にすることで克服したのです」(当時、アジア大洋州本部長 原田実)
 シビックは1980年代中ごろから、アコードは90年代初頭から現地生産が始まっていた。しかし、生産台数はわずかで、部品の現地調達率も低く、多くを輸入に頼るため、日本市場に比べ高価格で販売されていたが、高い商品力で高所得者から信頼を得ることで売り上げを伸ばしていたのである。
 しかし、アジアがさらなる成長・発展を遂げる中、ホンダの四輪事業も新たな局面を迎える。経済成長を受けて中間層の所得水準も上昇し、新たに乗用車の購買層となって、ビジネスチャンスは急拡大する。しかも、タイでは税制改革により、1991年から乗用車の税率が下がる追い風も吹いていた。ホンダは、ASEANのマーケットリーダーであるタイから生まれるトレンドが周辺国へ波及する効果も見据えて、1992年に四輪車生産合弁会社、ホンダ・カーズ・マニュファクチュアリング・タイランド(以下、HCMT)を設立。シビックの現地生産を開始し、新たなステップを踏み出そうとしていた。
 とはいえ、中間層にとってホンダ車は気軽に購入できる価格帯ではない。リサーチを続けていた営業関係者は、従来の高級イメージで、高品質でありながらリーズナブルなクルマなら売れると確信していた。いくら安くても、型が古かったり装備や品質に問題があったりしてはならない。初代シビックのように「このクルマだから乗るんだ」と、顧客に選ばれるクルマでなくてはいけない。ホンダが長期的にアジアにおける四輪車市場でのポジションを維持していくためには、アコード・シビックに続く第三の柱として、新たな開発車の投入が必要だ。アジアのニーズは、他の地域とは明らかに異なる。他社に先駆けてアジア地域のためのクルマを開発することは、ホンダにとって、アジア地域におけるシェア拡大と、将来の地位を確固たるものにするに違いない。このような構想のもと、アジア地域自立化のための、地域専用戦略車の開発が始まったのである。

タイ発の発想とASEANならではの部品調達でコスト削減

 新たなクルマを開発するにあたり、検討が重ねられた。タイはもとより、アジア各国の自動車の位置付けから需要予測、ターゲットユーザーの使用状況・購買力・ハードや装備に対する考え方、さらには価格イメージに至るまで、コンセプトや設計要件を決めるために必要なありとあらゆることを半年かけて調べ尽くした。
 その結果、新開発車のコンセプトは「家族のように大切なクルマ」、サブタイトルは「高質」に決定。4ドア5人乗り3ボックスのコンパクトセダンで、広いリア席、取り回しの良さに加え、よく効くエアコンは欠かせない。ターゲットユーザーは、初めて新車を購入するミドルクラス。求めやすい価格は必須だが、ホンダのセダンらしく、持つことに誇りと満足が感じられる高級感あるデザインは譲れないポイントである。そして、車体はタイで現地生産することと決まった。
 こうした条件のもと、設計段階に入ったが、大きな壁に突き当たる。
 「出てきたコスト試算では、シビックに対し、たった4%しかコストダウンを図れませんでした。愕然としました」(当時、栃木研究所LPL室 上村正美)
 当初は日本のノウハウを現地で生かせば、十分にコストダウン可能と考えていた。しかし、日本から部品を供給する際にかかる物流費・関税・為替の影響が大きく、思うような数字が得られなかったのだ。
 いかにしてコストダウンを実現するかが、至上命題となった。あらゆる議論を尽くす中、大きな発想の転換が必要だと気付く。日本から部品を流用することをやめて、設計そのものを現地調達が可能なものに変える。つまり、日本発の発想を捨ててタイ発の発想に立つことがベストだとの結論に至ったのである。
 現地調達率を上げる取り組みが始まった。まずはアイデアの「玉出し会」を行って駐在経験豊富な設計者たちの意見に耳を傾け、多くのアイデアを徹底的に図面に反映させた。例えば、ストラットサスペンション化・バンパーの3分割化などが、そうした試みから生まれた。また、より早く、より安い部品を開発するため、ローカルメーカーを回って各社の要望を積極的に取り入れた。
 さらなる役割を果たしたのが、部品相互補完だ。これは、ASEAN諸国間での部品補完スキームである。自動車メーカーが、ASEAN各国間の部品相互補完計画をASEAN上級官僚会議に提出し、許可を受ければ国産部品として認定され、関税が2分の1になる恩典が受けられるというものだ。国ごとに部品やクルマを製造すると、生産規模が小さいためにどうしてもコストが上昇する。しかし、各国間で部品を供給し合えば量産効果が生まれ、コストを低減できる。しかも、それぞれの得意とする部品、いわば特産部品であれば、高品質の部品が調達可能になるのだ。
 これらの取り組みにより、新開発車は現地調達率70%を達成し、目標を大幅に上回るコストダウンを達成することができた。絶対に成功させるという執念が不可能を可能にしたのである。

アユタヤに先進技術を駆使した人に優しい工場を新設

アジア地域専用車開発の生産を担ったHCMTアユタヤ工場

アジア地域専用車開発の生産を担ったHCMTアユタヤ工場

 新開発車の生産を担ったのは、新開発車の立ち上げと同時進行で新設されたHCMTのアユタヤ工場だ。将来的なタイ四輪車市場拡大を見据えた供給力強化と、ホンダのアジアにおける四輪車生産の中心的役割を果たすべく建設された、完成車の生産工場である。日本から移管したプレス機を有効活用し、天井クレーンを全てタイで調達するなど、コストダウンを図りつつも急ピッチで建設が行われ、1996年3月、予定通り新開発車の生産がスタートした。
 アユタヤ工場は、新開発車の部品の現調化にも大きな役割を果たした。例えば、フロントフェンダー・トランクリッドといった、日本でも難しいとされるプレス部品の現地生産にチャレンジした。乗用車外観部品の金型を本格的に導入するのはタイでも初めての試みだった。厳しい目標ではあったが、関係者一同の、必ずタイの人々とともにやり切るという強固な意志のもと、地道な努力を重ねて実現にこぎ着けたのである。
 また、アユタヤ工場は、従業員や環境、ひいては地域社会に配慮した人に優しい工場をキーコンセプトにしていた。塗装部門は天井を高くした設計で、断熱材で外からの熱をシャットアウトし、乾燥機などで発熱するブースは、人のいるエリアから離れた場所に設置するなど、働きやすいつくりになっている。また、アジア初の75kWシャーシダイナモを備えた排出ガス測定ラボを設置するなど、環境対策への対応も積極的に行われた。もちろん、先進設備の導入や工程の工夫など、世界トップレベルの生産品質のためにも技術の粋を尽くした。
 「人に優しい工場というイメージは、そこで生産される製品のイメージもアップします。タイの人のためのタイの工場を、その文化の中で常にリファインしながら立ち上げた経験は、今後のアジア展開におけるモデルになるのではないでしょうか」(当時、アジア大洋州本部参事 鈴木武久)
 アユタヤ工場で生産した新開発車のプレス外板やフレーム構成部品などは、マレーシア・フィリピン・インドネシア・パキスタン・台湾にも輸出されることになった。その後、同工場は、アジア各国への部品供給拠点としても、大きな役割を担うことになった。

アジア生まれのベストセラー、CITY(シティ)誕生

 1996年4月、アジア発の新開発ファミリーセダンのCITY(以下、シティ)が華々しく発表された。価格は39万8,000バーツ。家族がゆったり乗れる大きさでありながら、価格はシビックより3割以上安い。初めて乗用車を購入する顧客にも魅力的な価格だ。現地部品の調達率から工法まで、徹底したコストダウンを図った結果、高品質でありながらモータリゼーションに沸き、購入を希望するお客様が努力すれば手が届くであろう価格を可能にしたのである。

アジアで開発され、生産されたシティ

アジアで開発され、生産されたシティ

 バンコク市内で行われた発表会には、タイのジャーナリストや日本紙特派員など約300人が詰めかけた。新開発車の発表に加え、ASEAN諸国でのホンダのさらなる事業強化を期待する視線が注がれる中、「シティの投入は、ASEAN諸国のモータリゼーションの進展に責任を持って取り組むホンダの企業姿勢の現れ」(当時の社長 川本信彦)、「お客様のことを常に念頭に置いたシティは、タイで必ずご愛顧いただけるものと信じています」(当時のHCT社長 藤江佐一郎)など、会場で行われたスピーチからも、自信のほどがうかがわれた。
 多くの期待を背負い、タイ国内92のホンダ販売店でシティの販売が開始された。当時、タイ国内では商用車から乗用車へのシフトが進み、バンコクでは逆転現象も起こるなど、乗用車の需要が高まるタイミングである。期待は高まった。店舗からの情報を生かしつつ顧客層を徹底的に研究し販売施策にフィードバックするとともに、営業スタッフを増員し販売に専念できる環境を整え、日本の営業ノウハウをこれまで以上に伝えるなど、販売力の強化を図った。ホンダに熱い想いを持つ現地ディーラーも、シティにかける情熱はひとしおだった。
 シティは順調にセールスを伸ばし、タイ国内で発売から10カ月の1997年2月までで1万4,000台余りの販売台数を記録。さらに、台湾・フィリピン・マレーシア・パキスタン・インドといった国々でも生産が始まった。アジア通貨危機の影響を受け、厳しい局面を迎えたものの、現地調達体制・部品相互補完体制など、アジアにおける事業基盤の構築は大きく進歩した。
 2000年には製造会社HCMTと販売会社HCTを一体化して、ホンダオートモービル(タイランド)カンパニー・リミテッド(以下、HATC)を設立。アユタヤ工場は2008年にラインを増設して生産力を強化した。
 その後もシティはモデルチェンジを重ねつつ、アジアの国々で愛され続けている。2022年現在、タイ・マレーシア・インド・パキスタン・ベトナム・インドネシアで生産され、41カ国で販売。世界累計販売台数は400万台を突破し、アジアにおけるホンダの基幹車種となっている。

大災害からの復興、そして3+1戦略へ

 2011年3月11日、東日本大震災が発生した。未曾有の大災害の影響は日本国内にとどまらず、HATCのアユタヤ工場でも日本からの部品供給が停滞。ようやく立ち直るかに思えた矢先、今度はタイを洪水が襲った。7月にタイ北部から始まった洪水は徐々に範囲を拡大し、10月にはバンコクに到達。アユタヤ工場にも2.5mの水が押し寄せ、水没してしまう。生産設備は壊滅状態となり、1,000台以上の完成車がスクラップと化した。
 「工場は全て水没し、一面がまるで海になりました。これでホンダはタイから撤退するしかないだろうと思いました」(当時、アユタヤ工場長 ピラパット・K)
 従業員に職を失う不安が広がる中、当時のHATC社長、小林浩は、すぐに従業員を集める。そして、「HATCは一人も辞めさせない。全員の雇用を守る。だから心配しないでほしい。みんなの力で工場を復旧して、1日も早く元通りの生活に戻ろう」と、励ました。
 この一言で従業員全員が奮い立ち、若手もベテランも、タイ人スタッフも日本人スタッフも、自らの手で工場を立て直すために団結した。水没を免れた2階の狭いスペースで復旧計画を立案し、設備の手配に奔走、工場内の油を除去するなど、24時間体制でゼロからの復旧活動に突き進んだ。そして、2012年3月、目標より早く操業を再開させることができたのである。
 アユタヤ工場の操業一時停止は、アジア各国にも多大な影響を及ぼした。部品供給が滞って工場が稼働停止するなど、ホンダのアジア四輪事業には大打撃であった。だが、新興国では絶対にチャンスを逃さないとの2020年ビジョンのもと、タイ・インドネシア・マレーシアの3カ国にインドを加えた4カ国を中核に据え、アジア四輪事業を強化・拡大する3+1戦略を立ち上げたのである。それは、成長著しいアジア市場でユーザーのニーズを的確に捉え、他に先駆けた素早い対応によって新しい市場や顧客を開拓し、ホンダ製品の生産・販売を拡大する戦略であった。