第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第5節 アジア大洋州 第1項 アジア大洋州

第5節 アジア大洋州
第1項 アジア大洋州

二輪車が生活の足であるアジア市場に参入したホンダ。
国ごとに異なるニーズへ応えるため、ホンダは地道に現地のニーズを探り
「現地化」により開発・生産コストの壁も乗り越え
二輪車、パワープロダクツ、四輪車と、人々が求める製品を展開し
さらにホンダのグローバル拠点としての役割も担っていった。
成長し、成熟し、時代とともに変貌するアジア大洋州市場で
ホンダはこれからもお客様とともに進化し、ものづくりで貢献していく。

アジア展開は、生活の足となる二輪車から

 歴史や文化、政治・経済体制も異なる数多くの国々から成り立つアジアは、ひとくくりにはできない。所得や人口も国によって大きな差があり、二輪車・四輪車の普及度もさまざまである。しかし、成長・発展を続けるアジアの国々には、かつて大きなポテンシャルを秘めたマーケットという共通項があった。
 アジア市場の大きな特徴は、二輪車が人々の移動手段として定着し、発展してきたことだろう。温暖な気候であることに加え、公共交通機関が十分整備されていない地域も少なからずあるため、二輪車は生活になくてはならない社会インフラといっても過言ではない。「需要のあるところで生産する」を掲げるホンダが、早くからアジア二輪車市場に着目したのは当然の流れだった。1962年、ホンダは他に先駆けて、東南アジアにおける企業活動の足掛かりを築くため、シンガポールに事務所を設立。市場参入準備を開始した。

マレーシアの農村風景(1964年)

マレーシアの農村風景(1964年)

ベトナム サイゴン(現ホーチミン)の都市交通(1970年)

ベトナム サイゴン(現ホーチミン)の都市交通(1970年)

 文化や生活習慣が多様で、市場の発展スピードも国によって異なり、生活の足である二輪車も、国ごとに仕様・装備・外観が異なる。経済状況や交通インフラ、さらには好みなどを考慮した製品でなければ、現地の人々に受け入れられることはできない。
 「都市部で日常的に渋滞が発生するインドネシアやタイでは、混雑した街頭でも軽快に走れるスリムな車体が好まれます」(元アジア大洋州本部長 五十嵐雅行)
 例えば、アジアの初期市場形成を牽引した、スーパーカブ。アジアでは家族全員で1台の二輪車を使うことが多かったため、誰でも運転でき、経済性や耐久性にも優れ、絶大な支持を得てきたスーパーカブは、各国のニーズや好みに合わせて仕様を変えている。タイ・ベトナム・インドネシア・フィリピン・マレーシアといったそれぞれの生産拠点で、各国仕様のスーパーカブがつくられている。
 こうしたことはアジア二輪事業へ参入した当初から分かっていたわけではない。各国で事業を展開する中で、試行錯誤を重ねるうちに会得していったのである。

恒常的に渋滞が発生するアジアの都市部では、二輪車は日常の足となっている

恒常的に渋滞が発生するアジアの都市部では、二輪車は日常の足となっている

最初の一歩を踏み出したタイで現地化を進める

 ホンダがアジアで本格的に二輪事業の第一歩を踏み出したのは1964年。タイのバンコクに、二輪車・パワープロダクツ製品の販売会社、アジア・ホンダ・モーター(ASH)を設立した。翌1965年には、二輪車の生産拠点としてタイ・ホンダ・マニュファクチュアリング(以下、TH)を設立。現地生産を開始した。
 海外進出では、当然のことながら各国の政策に沿って事業を展開する必要がある。アジアでは、日本で生産実績のある製品を日本から移管して生産し、国の状況によっては、ほとんど現地調達なしで、簡単な組み立てのみ現地工場で行うノックダウン生産が主流であった。
 生産の現地化には、相応の段階を踏む必要があり、さまざまな部品サプライヤーの協力も重要だ。ホンダ主導で複数の取引先と合弁会社を設立し、技術供与によって現地工場で内作化を進めるなど、長年にわたって生産の現地化を進めていった。
 タイでは、現地化の過程で、設備・部品メーカー、物流関連会社など、多くの日系メーカー・合弁会社が生まれた。その結果、部品・完成車の輸出までも行い、欧米二輪車メーカーによる新興国向け製品の生産に活用されるまでになった。2019年にはタイにおける二輪車輸出はホンダが63万台でトップであり、うち完成車は23万台であった。これは、97%に及ぶ現地調達率と、二輪車輸出のグローバル展開をいち早く構築してきたからにほかならない。

TH開所式 1967年10月 本田宗一郎(前列中央)とともに

TH開所式 1967年10月 本田宗一郎(前列中央)とともに

現地ニーズを徹底的に捉え、NOVA(ノバ)-Sを開発

 タイにおける現地化を語るうえで欠かせないのが、1987年発売のNOVA-Sである。いち早く現地生産・販売を手掛けていたものの、1980年代までタイの二輪車市場におけるホンダのシェアは3位にとどまっていた。当時のホンダは、先進諸国では技術力の高さで勝負していた。しかし、タイをはじめとした二輪車が文字通り生活の足である国々では、プロダクトアウトの考えは通用しない。現地の人々の暮らしや考えを知り尽くし、その土地で本当に求められる製品づくりをしなければ、そっぽを向かれてしまう。それまでの反省を踏まえ、現地の感覚・ニーズを取り入れた現地仕様の製品開発が始まった。
 市場調査の結果、ホンダの不振の原因は「タイにおけるホンダのイメージは年寄り会社で、若者のバイクは販売しない、開発できない会社といわれている。すなわち夢がない。ホンダが伸びない理由はここにある。従って、早急に、夢のある若者イメージの構築を目指すべき」という分析結果が出た。1986年のことである。これを受けて、タイのほぼ全域で若者の声を聞き、ライフスタイルや好みのファッション、そしてバイクに対するこだわりのリサーチを行った。
 1987年1月、開発チームが編成され、2ストロークのファミリースポーツモデルの投入が決まった。開発期間は通常の半分以下。このモデルの成否がタイのホンダの命運を左右するとまで言われ、並々ならぬプレッシャーの中、急ピッチで開発が進められた。過去にタイで2ストロークモデルを導入した際、焼き付きを発生させて評価を落としていたことから、特にエンジン開発には注力した。通常は多くて60個という試作シリンダーは、なんと300個を用意。雨期に備え、冠水した道路の水たまりに突っ込んでエンジンが急に冷やされた場合を想定するなど、数々のテストを行った。エンジンは、スーパーカブ*1の水平エンジンではなく、スポーツバイクらしく、極力シリンダーを立てた前傾40°を採用。また、女性ユーザーを考慮したまたぎやすさは重要とのことから、フレーム形状に工夫を凝らすなど、独自の設計にもこだわった。そしてその年の12月、NOVA-Sの発売に至った。
 発売に先駆け、販売網も一元化を図り、現地の販売会社A・Pホンダを設立していた。同社では、販売・サービス活動・パーツの供給を三位一体のパッケージにして、お客様に最高の満足を提供していく店づくりを徹底し、「Sales(販売)・Service(サービス)・Spare Parts(補修部品・カスタマイズパーツ)・Safety(安全運転教育)・Second Hand(認定中古車加修・販売)」をうたった5S店が展開された。
 こうした商品力と販売力が功を奏し、NOVA-Sはタイの若者に受け入れられ、1988年、当初の目標より1年早く、ホンダはタイの二輪車市場でシェアNo.1を獲得した。その後、1994年春には、NOVA-S発売からわずか6年で、NOVAシリーズは累計100万台を突破したのである。
 NOVA-Sの成功は、現地に溶け込み、タイの若者たちの心を第一に考えたマーケティングにある。常に相手の立場に立って考え、人と人のコミュニケーションとそれを支える信頼関係を大切にするという基本姿勢は、商品企画に広く生かされていった。

  • :4ストローク、水平シリンダーエンジン、アンダーボーンフレームの特徴を持つ
スリムなボディと2ストロークエンジンのキビキビとした走りが特徴の

スリムなボディと2ストロークエンジンのキビキビとした走りが特徴のNOVA-S初代モデル 
ミリオンセラーとなりファミリースポーツという新たな市場も創出した

各国のニーズ・環境規制に対応した時代が求める商品を

 タイにおける現地開発をさらに強化するため、1988年、シンガポールを拠点とする本田技術研究所の現地駐在員事務所である、ホンダR&Dサウスイーストアジア(HRS)と、1997年にタイのバンコクに開発の中核拠点となる、ホンダR&Dサウスイーストアジア・バンコクオフィス(HRS-T)を設立。他のアジア各国にもマーケティング・センシング機能を持つ拠点を設け、顧客に近い場所で市場ニーズに迅速に応えるため、HRS-Tの分室をインドネシア(HRS-IN)およびベトナム(HRS-V)に開設し、販売・生産・研究開発機能の最適化を推進した。1997年にはアジア通貨危機に見舞われたが、技術・商品の開発を持続したことが、その後の市場回復牽引へとつながった。
 ホンダでは、1997年の二輪車エンジンの4ストローク化宣言に伴い、2000年代に入ると、タイにおける二輪車開発事業を一層加速させ、従来からのユーザーニーズ対応に加えて、環境規制の強化を見据えた展開を進めた。2002年度にはタイにおいて4ストロークエンジンへの転換を全面的に完了した。小型軽量で廉価、かつ高出力が得られる2ストロークエンジンは小型二輪車などに多く用いられてきたが、低燃費・排出ガスのクリーン化に優れた4ストロークへシフトしたのだ。また2003年には、小型PGM-FI(電子制御燃料噴射装置)を搭載したスーパーカブタイプのWave(ウエイブ125i)をタイで発売。PGM-FIの搭載により、排出ガスをさらに大幅に低減した。
 こうした環境対応を他社に先駆け、いち早く取り組んだことにより、ホンダは市場競争の構図を変えることに成功した。そして、タイの成功例を踏襲し、同様の試みがアジア各国でも展開されていくことになる。

Wave125にPGM-FIを搭載したWave125iをバンコクモーターショーにて発表

Wave125にPGM-FIを搭載したWave125iをバンコクモーターショーにて発表

インドネシアではトップシェアを奪回

BeAT BeAT
Vario Techno125 Vario Techno125

 ホンダが現地のアストラ(ASTRA)グループとパートナーシップを組んで完成車ビジネスを始めたのは、1960年代にさかのぼる。1971年からは部品を輸入し、組み立てを全て現地で行うかたちで、現地生産がスタート。1984年には二輪車用エンジン生産合弁会社のホンダ・アストラ・エンジン・マニュファクチュアリング(HAEM)を設立した。
 インドネシアでは、長年、スーパーカブタイプが主力製品として優位にビジネスを進めてきた。同国の人口は1998年に2億人を突破し、その後も増加を続けている。経済発展に伴って2000年代以降、世界で最も多くのスーパーカブが生産・販売されたのもインドネシアである。現地ではアヒルを意味する「ベベック」という愛称で呼ばれていることからも、いかにインドネシアの人々にスーパーカブタイプが愛されているか分かる。
 しかし、インドネシアのカブ人気を脅かす存在が現れる。アジア二輪車市場でライバルであったヤマハ発動機(株)(以下、ヤマハ)が、2000年代に入るとスクーターで先行する作戦に転じたのである。インドネシアは、アジアで最も成長が速く、若年層人口が急増していた。ヤマハは、ギアチェンジの不要なベルトコンバーター式の無段階変速をAT(オートマチックトランスミッション)と称し、「ATはギアチェンジが必要なスーパーカブにはない優れた新技術であり、ファッショナブルでもある」と、大キャンペーンを展開した。
 ホンダはというと、ベルトコンバーター式のスクーターをタイやブラジルで展開することを検討したこともあったが、雨期の冠水や重い荷物の運搬に弱く、小型ホイールは悪路走行に向かないと判断した経緯があった。何より、インドネシアにおける長年のスーパーカブ人気が簡単に揺るがないと踏んでいたのである。
 だが、ホンダの予想に反して、インドネシアでは、2007年ごろよりスクーター市場が急拡大していく。ホンダもベルトコンバーター式のAT導入を検討したが、スーパーカブをメインにしたビジネスから切り替えられず、苦戦を強いられる。さらにヤマハはスクーターだけでなく、スーパーカブタイプでも高価格帯と廉価帯の新モデルを投入。2009年4月には、ホンダは単月のシェアでヤマハに追い抜かれてしまったのである。
 これに対しホンダは反撃に打って出る。2009年、従来からの主力カテゴリーであるスーパーカブタイプのREVO(レボ)をフルモデルチェンジ。2010年からはAT市場の拡大に対応してVarioとBeATのマイナーチェンジを行うとともに、インドネシアで初となるコンバインドブレーキシステム(前・後輪連動ブレーキシステム)を搭載したVario Techno(バリオ テクノ)を発表するなど、ほぼ2カ月ごとにお客様の嗜好に合う製品を順次投入し、モデルを拡充した。さらに燃費向上・メンテナンスフリーをうたうFI(フューエルインジェクション)全適宣言の推進などの対抗策を講じた結果、2011年、ホンダはトップシェア奪回に至ったのである。

「スーパーカブ天国」ベトナムにおける中国製品との攻防

 ベトナムでは1970年代後半から国中をスーパーカブが走り回り、「スーパーカブ天国」と呼ばれている。
 ベトナム戦争中、戦火からバイク1台に家族全員を乗せて逃げなくてはならない状況の中、ホンダのバイクだけが最後まで動き続け、命が助かったということから、全てのオートバイのことを「ホンダ」と呼ぶようになった逸話があるほどだ。しかし、当時のベトナムは社会主義経済により外国企業が参入できなかったため、街を走るスーパーカブは、国外から持ち込まれたものだった。
 やがて、1986年に始まったドイモイ政策により市場経済への移行や国際協力などの改革が進められ、ベトナムは大きな転換期を迎える。1990年代後半には工業化・外資導入が推進され、1996年、ホンダ・ベトナム(以下、HVN)を設立して、現地生産を開始した。主力はスーパーカブタイプのSuper Dream(スーパードリーム)である。フロントにキャリアとバスケットを備え、バイクタクシーとしての需要にも応えて二人乗りを重視したつくりにするなど、ベトナムでの使い勝手を反映したモデルである。現地生産・販売に向け、期待は大いに高まった。

ホンダ・ベトナム二輪車工場(HVN)(設立当時)

ホンダ・ベトナム二輪車工場(HVN)(設立当時)

ホンダ・ベトナムの二輪車生産風景(2014年) ホンダ・ベトナムの二輪車生産風景(2014年)

 ところが、狙いすましたかのように、中国からホンダの1/2から1/3の価格でスーパーカブのコピー車が流入し始める。中国では二輪車産業が急拡大したが、国内政策の影響で市場が急減し、その余剰分の販路を周辺国の市場に求めた。ホンダは大打撃を受け、シェアは10%を切る危機的状況に陥り、市場を失ってしまった。
 このままでは、HVNが操業停止になってしまう状況から、ホンダは売価をできるだけ下げる取り組みを始めた。しかし、耐久性と信頼性という評価まで落とすわけにはいかない。ここでは相当の議論があった。さらに、現地調達部品の低コスト化やタイからの部品供給の流れの見直しなど、約2年間にわたる工夫と取り組みを経て、2002年、スーパーカブタイプの新モデルWave αを発売した。高い品質と信頼性を維持しながら、既存モデルの約半額という大幅な低価格化を実現したのだ。その結果、ホンダはシェアを挽回。毎日使われる実用車としてホンダ製品の耐久性・信頼性が受け入れられた結果である。
 その後、富裕層の増加により、ベトナムでは低価格なラインアップだけでなく、多様な製品が展開されるようになる。2007年には新型スクーター、Air Blade(エア ブレイド)、2008年には先進的でファッショナブルなデザインを採用したスーパーカブタイプのWave RSXが加わった。

2002年、ベトナムのユーザーニーズに合致したデザインの二輪車Wave αの生産を開始

2002年、ベトナムのユーザーニーズに合致したデザインの二輪車Wave αの生産を開始

ベトナムの二輪車保有台数は2010年代、都市部で高水準に達した

ベトナムの二輪車保有台数は2010年代、都市部で高水準に達した