第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第Ⅱ章  世界に広がる事業展開

第2節 北米

「日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない」
本田技研工業が創立して5年有余の1954年3月、マン島TTレース出場宣言で
本田宗一郎がそう語ったように、ホンダは創業当初から
若い人たちが各国から迎えられるべく世界への飛躍を目指していた。
そして、すぐに需要が期待できそうな東南アジアではなく
資本主義の牙城であるアメリカを進出先として選んだ。
そのアメリカでの挑戦の連続が、今のホンダの礎を築いたと言っても過言ではない。
日本からの輸出が政治問題化する以前より志した
「需要のあるところで生産する」 現地生産体制の構築
生産だけでなく現地で開発するグローバルネットワークの構築
お客様の満足度を高める取り組みなどである。
これらすべてに共通するのは、現地すなわち「アメリカの会社になろうよ」という姿勢である。
ホンダのアメリカ進出が地に足をつけたものになったのは、良き企業市民という考えを持ち
真正面から地域と向き合ったからではないだろうか。

1.アメリカへの進出
世界へ打って出るにあたり、アメリカを選択

 「アメリカに行ったら冷蔵庫でもなんでも次から次にベルトコンベヤーでもってあふれるほど出てくる。日本にそんなものはない。だからうちの会社もオートバイをああいう風に作れるようにならなければダメだ。俺は将来必ずそういうものを作るんだ」
 1952年、工作機械視察団としてアメリカを訪問し浜松に帰った本田宗一郎は、みかん箱の上に乗ってそのように語った。その後1954年のマン島TTレース出場宣言で「日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」と力説し、1954年1月の社内報で「今年こそは輸出を促進し、日本の工業を世界に披露しなければならない」と記述したのも同様の思いからだ。
 創業後数年で国内二輪業界におけるトップメーカーとしての基盤を固めつつあったホンダは、引き合いに応え、1952年には台湾へカブ号F型の輸出を開始していた。そして、いよいよ本格的に海外市場への進出を模索する意思を固め、1956年の暮れから翌年にかけて、ヨーロッパと東南アジア、1958年にはアメリカで市場調査を実施した。
 調査の結果、メンバーは東南アジアへの進出を社内に提案した。この地域は、ヨーロッパから輸入されたオートバイやモペッドが少しずつ走り始め、大衆の交通手段は自転車からオートバイへの移行期にあった。近い将来には、経済成長とともにさらなる普及が見込まれるとの予測からの提案だった。しかし、専務(当時)の藤澤武夫は、「アメリカに行こう」と言った。
 アメリカは、1950年代半ばにはすでに四輪車生産が1千万台*1に届かんとする巨大なマーケットを持つ一方で、オートバイ市場は年間6万台にも満たなかった。
 そこを最初の海外進出の地に選ぶのは常識では考えられない。だが、アメリカは資本主義の牙城であり、世界経済の中心である。アメリカで成功すれば市場を世界に拡大することが期待できる。逆にアメリカでヒットしないような商品では、世界に通用するような国際商品にはなり得ない、というのが藤澤の主張だった。

  • :乗用車・トラック・バスの合計
アメリカ市場最初の拠点となった、アメリカン・ホンダ・モーター

アメリカ市場最初の拠点となった、アメリカン・ホンダ・モーター

マーケットは自らつくる

 アメリカ進出にあたって、商社に頼るという意見もあった。しかし、国内の二輪車販売網づくりを手掛けてきた経験から、他者の力を借りて商売するのでは、先方の都合が優先されるケースが想定され、そうなると思うような商売ができなくなってしまう懸念があった。また、耐久消費財であるオートバイは、販売した後もメーカーが自ら責任を持ってアフターサービスを行わなければならない。それらを考慮した結果、ホンダは1959年6月、アメリカに全額出資の販売会社、アメリカン・ホンダ・モーター(以下、AH)を設立し、自力で販売網を築くことにした。自らが良しとするやり方でゼロから切り拓いていく、「松明は自分の手で」という姿勢こそホンダの取り組みの根幹である。
 渡米したメンバーは、何カ所かの候補地を視察した末に、ロサンゼルスを選ぶことにした。ロサンゼルスは、年間を通じて気候が温暖で雨もほとんど降らない。天候に売り上げが大きく左右されるオートバイの商売を、1年を通じて行いやすいという意味で絶好の環境であった。また、ロサンゼルスは日系人が多い地域でもあり、ホンダ初の海外現地法人の設立にあたり、日本の文化と言葉が分かる日系人が助けになると考えた。
 1959年9月、AHは営業活動をスタートした。主力商品は、ドリーム(250cc/300cc)とベンリイ(125cc)で、日本で発売されたばかりのスーパーカブ(アメリカ名HONDA50)も加えられた。「現地の社会に適した経営ができなければ発展はあり得ない」という考えのもと、日本から連れてきた部下と川島喜八郎の2名以外は、現地で採用した従業員が中心となり、総勢8名で営業活動を開始した。

川島喜八郎の下、現地採用の従業員を中心にアメリカでの営業活動を始めた

川島喜八郎の下、現地採用の従業員を中心にアメリカでの営業活動を始めた

 当時のアメリカにおける移動手段は自動車が一般的であり、オートバイはレジャー愛好家やレースマニアなど、一部の限られた人たちの乗り物で、マーケットのほとんどが排気量500cc以上の大型オートバイで占められていた。しかも、オートバイには、「ブラックジャケット」と呼ばれる黒い革ジャンパーを着たアウトロー(無法者)たちの遊び道具といったイメージがつきまとっていて、アメリカ社会における評価は低く、大衆商品としては受け入れられていないのが実情であった。
 オートバイ業界に対しても、暗い、汚い、という悪いイメージが根付いてしまっていた。当時のオートバイは、オイルが漏れるのが当たり前で、また、多くのオートバイ販売店の店内はうす暗く、床はオイルで黒く汚れていて、とても気軽に足を運べるような雰囲気ではなかった。
 そのようなマーケットに小排気量の実用車のラインアップを持ち込んでも簡単に売れるわけがなく、AHが営業活動を開始して3カ月が過ぎ、1959年も暮れようとしていたが、総販売台数はわずか170台余り。当初の目標である月間1,000台には程遠く、アメリカのオートバイ市場開拓は厳しいスタートとなった。
 しかし、しばらくするとスーパーカブが注目を集めるようになる。スーパーカブは、他の同じクラスのオートバイに比べ、倍以上の馬力を持つなど高い走行性能を誇り、小さくて取り回しが良く、4ストロークエンジンの採用により音も静かだった。加えて、フロントカバーと幅広いステップを持つデザインは、スカートもめくれにくく、女性でも手軽に乗ることができた。これまでの悪いイメージを連想させたオートバイとはまったく別の乗り物という印象を、多くの人に与え始めていた。また、215ドルよりというリーズナブルな価格は、大学生が小遣いをためたり、ローンを組んでも買える価格だったため、若者のキャンパスライフを彩る手軽でファッショナブルな移動手段として重宝されるようになった。
 そうして、スーパーカブの販売台数は伸びていったが、既存の販売店を通じての商売だけでは、これ以上の飛躍的な伸びは望めないとAHのメンバーは感じていた。そこで、オートバイを大衆商品としてアピールするために、営業戦略を強化するとともに、他メーカーがこれまでやらなかった大々的な広告を展開することにした。
 AHの事業概要を各地でプレゼンテーションしたり、広告を通じたりしてオートバイ販売に参入したいという熱意のある人を広く募集。加えて、オートバイを手軽に買える商品にしようと、スポーツ用品店やアウトドアショップなどに、スーパーカブを販売してもらうよう働き掛けた。商品広告は、専門誌への掲載にとどまらず、一般大衆誌にも掲載することにした。中でも、アメリカを代表する高級グラフ誌『LIFE』をはじめとする一流雑誌に広告を掲載することで、オートバイという商品そのもののイメージアップを狙った。

HONDA50 CA100(アメリカで販売されたスーパーカブ)

HONDA50 CA100(アメリカで販売されたスーパーカブ)

HONDA50 CA100 走行動画

 一方で、AHの営業メンバーは、全員背広にネクタイを締め、サービス・メカニックも真っ白の作業着を着用するようにした。常に清潔感のある服装と礼儀正しい態度で顧客に接することを心掛け、ホンダのオートバイを取り扱う販売店の経営者へも、その大切さをアピールした。そして、セールス活動、サービス技術に関するマニュアルやテキストを作成し、各地で講習会を開催するなど販売店の育成に力を注いでいった。
 販売店の経営者には店舗の改装を勧め、店舗を清潔に保つよう協力を依頼した。ホンダのオートバイはオイルが一滴も漏れないことを強みにして、オートバイ販売店は油にまみれた薄汚い所という悪いイメージの払拭に努めた。
 また、優良販売店に対しては、その店の広告・宣伝費用の一部を補助することで、販売店間に競争心を芽生えさせていった。これらの活動が実を結び、販売店の経営者は、積極的に改装を行い、女性や子どもでも気軽に来店できる雰囲気をつくったり、自分たちの店と商品を宣伝したり、地域のボランティア活動に商品を提供したりと、販売促進と店のイメージアップを自発的に行うようになっていった。
 需要がなければ、自らつくる。AHのメンバーは、さまざまな課題に挑み、それを乗り越えてホンダのオートバイのマーケットをつくっていった。このホンダのチャレンジを、アメリカは自由にさせてくれていた。それがアメリカの素晴らしさだった。

大反響を呼んだ「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」

「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」キャンペーンポスター

「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」キャンペーンポスター

※オリジナルポスターをもとに新規に制作したもの

 1962年12月、AHの二輪車年間総販売台数は4万台を突破、契約販売店の数は、アメリカNo.1となる750店近くにまで増えた。翌1963年度は、販売目標を前年の5倍増に当たる20万台に設定した。オートバイに乗る人たちの社会的評価とAHの商品の知名度をさらに高めていくことができれば、不可能な数字ではないと考えていた。そして、大手広告代理店のグレイから提案された「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA(素晴らしき人、ホンダに乗る)」をキャッチコピーとする広告キャンペーンを、アメリカ西部11州を対象に大々的に展開することにした。
 この広告には、主婦や親子、若いカップルなどが、通学・買い物・レジャーなどさまざまな目的でスーパーカブに乗っている姿が描かれていた。その色彩鮮やかなイラストと完成度の高いデザインは、これまでオートバイという言葉を聞いて嫌悪感を抱いたり、全く関心を示さなかった人たちに、日常の暮らしに密着した手軽でファッショナブルな乗り物としての新しい存在価値を強烈に訴えかけた。
 「オートバイが欲しい」というティーンエイジャーの声に耳を貸さなかった母親が、「ホンダだったら買ってあげる」と言うようになった。スーパーカブは、誕生日やクリスマスのプレゼントとしても人気を集めるようになり、学生やビジネスマン、主婦をはじめとする多くの層から支持を得て、既存のオートバイとは異なる、新しい大衆商品として認められるようになっていった。
 さらにAHは、オートバイメーカーとしてはかつてない広告展開を行った。全米が注目する一大文化イベントであり、テレビ放映は7割から8割超の高視聴率を誇るアカデミー賞授賞式に外国企業として初めてテレビコマーシャルを出稿したのである。
 1964年4月、全米中に放映されたテレビコマーシャルは、予想以上の反響を呼んだ。新たにホンダの販売店を始めたいという人が圧倒的に増えたほか、全米中の一流企業から「販売促進キャンペーンの賞品として、ぜひスーパーカブを使いたい」といった、タイアップの申し込みが殺到したのである。スーパーカブは、日常の暮らしに密着した手軽な乗り物として新しいオートバイの価値を全米にアピールしたことで、アメリカ社会に根付いていたオートバイに対するアウトローなイメージを払拭し、全米規模の爆発的なヒット商品に成長していった。

アメリカの恋

 アメリカで革新的な成功を収めるホンダについて、全国販売広告キャンペーンを手助けすることになった『LIFE』誌の西海岸支配人が、1964年1月のホンダ社報の「海外から見たホンダ」という特集に、最大限の賛辞を寄せている。
 「ホンダがアメリカにもたらしたのは、小さい・かわいい・清潔で、そして安価な車だけではありませんでした。ホンダはそれ以上に、今までオートバイを持ったことのない幾万の家庭や、およそオートバイを持とうということを考えたことのない家庭に、全く新しい生活方法をもたらしたのです」
 「しかし、こうして現在ホンダを使っている人々は、3年から4年前には『オートバイを使ったら?』と勧めると、両手を挙げて『とんでもない!』と軽蔑した人々なのですが、今はどうでしょう。もう、バイクを手放すことはできますまい」
 「わずかな費用でホンダに乗って行く楽しみが得られるということを、賢明なアメリカ人は知っています。(中略)そうです。確かにアメリカは恋をしています。そして、その愛されている彼の名はホンダです」(ウイリアム・グラフトン氏 1964年社報No.97より)

販売不振への対応、社会への貢献

直列4気筒エンジンを搭載し、その性能と商品力で人気を集めたCB750 FOUR 直列4気筒エンジンを搭載し、その性能と商品力で人気を集めたCB750 FOUR

 1969年には、カナディアン・ホンダ(CH、後のホンダカナダ・インコーポレーテッド〈HCI〉)を設立するとともに、これまでの市販車にはない直列4気筒エンジンを搭載した大型機種ドリーム CB750 FOURをアメリカとカナダで発売した。CB750 FOURは、圧倒的な性能と洗練された商品力で人気を誇り、マルチシリンダー化を果たせなかった欧米のオートバイは、主役の座から降りることとなった。
 ホンダのオートバイはアメリカ社会にすっかり定着し、1970年度の販売台数は50万台を突破した。商品のラインアップも50ccのホンダミニトレール(モンキーの輸出仕様車)から、750ccの大型オートバイまで充実していた。
 しかし、それまでの道のりは順風万帆というわけではなかった。1965年に、アメリカは北ベトナムに爆撃を開始。スーパーカブの購買層の中心だった多くの若者が戦地に赴いた。社会は混迷の様相を呈し、1966年の春ごろからスーパーカブをはじめとして、AHの商品の売れ行きは一気に鈍り、販売不振がしばらく続いた。
 不振の原因は社会的な背景によるものと考えられたが、流行の変遷により、AHの商品に対する目新しさがなくなってきたからという意見もあった。
 AHは、広告費を大幅に削減して商品価格を下げることに努めたほか、スタイルの異なる特別仕様車を販売。日本の研究所には、アメリカ向けの新車の開発に力を入れるよう働きかけるなど、需要の喚起を図るためにさまざまな施策を展開した。
 その結果、新しいオートバイのマーケットをつくり出すことに成功。1966年には、以前から広大な原野や山野を手軽に走れるオートバイを求め、スーパーカブを改造して乗っていたユーザーのニーズに応えた新商品CT90 トレール(90cc)を発売した。
 また、1968年に発売したホンダミニトレールは、子どもでも手軽に乗って楽しめるオートバイとして大ヒット。親子連れの週末のアウトドアレジャーとして、ミニトレールに乗って楽しむ光景が各所で見られるようになった。そのような中、ミニトレールを使って、安全で正しい乗り方とさまざまな楽しい使い方を教える活動を通じて、団体活動に積極的に参加する姿勢を身に付けることで青少年の健全な育成を図る活動が行われた。アメリカ・キリスト教青年会(以下、YMCA)である。AHは、その趣旨に賛同して、YMCAからの要請に応え30台のミニトレールを寄贈するとともに、サービスパーツの援助やメカニック講習会の開催など、積極的な協力を行い、さらに1970年には計1万台を寄贈した。
 このミニトレール活動を通じて、これまでYMCAの活動に興味を示さなかった子どもたちが熱意を持って参加するようになり、青少年の非行化防止にも寄与するとYMCAから高い評価を受けた。新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。このように設立から10年を経て、AHは少しずつアメリカ社会に貢献する活動にも着手していった。

YMCAへのミニトレールの寄贈はAHにとってアメリカ社会への貢献活動でもあった

YMCAへのミニトレールの寄贈はAHにとってアメリカ社会への貢献活動でもあった

2.四輪事業のスタートと拡大
日本で培った販売手法を基本に展開

 AHは、設立10年目に四輪車販売に着手した。1969年12月、ハワイでN600を発売後、1970年5月にはアメリカ本土でも同車の販売を開始。それまでに築いてきた二輪車の販売店を通じて、西部3州(カリフォルニア・ワシントン・オレゴン)から順次、N600の販売地域を広げていった。しかし、自動車市場の基盤が確立しているアメリカでは、「自動車は自動車販売店から購入するもの」という考えが強く、販売活動は苦戦を強いられた。
 AHが四輪専門の販売網を開拓するために自動車販売店へアプローチを開始したのは、1973年のシビックが契機となった。
 販売店候補の人々に、ホンダの企業活動やフィロソフィーを説明しても、「自分の国の市場やお客様については、自国で生まれ育った私たちが一番よく知っている」と取り合ってもらえず、シビックを店頭に置いてもらうことさえできなかった。大型車が主流で、大きいことが自動車の価値であったアメリカの自動車市場においては、低価格・低燃費をアピールしたホンダの小型車のコンセプトも、強い抵抗感を示されるばかりだった。
 AHのメンバーは、一人で複数の州を販売テリトリーに持ち、現地の自動車販売店を一軒ずつ訪問し、徐々に自店のラインアップにシビックを加えることを承諾する販売店を獲得していった。とは言うものの、小型で低価格のシビックは、商品ラインアップの下方に位置付けられ、同車の展示は屋外展示場の片隅や中古車売り場に並べられるという状況だった。
 しかし、転機が訪れた。世界を揺るがした第一次石油危機(オイルショック)である。1973年半ばから翌年にかけて、アメリカの自動車業界にも大きな打撃を与え、大型で豪華なクルマへの憧れから、燃費を考えた実利を重視する価値観へと転換を迫った。
 そのような折、AHは、他社に先駆けてマスキー法(1970年改正の米国大気浄化法)が定める厳しい排出ガス規制値を世界で初めてクリアした「CVCC」エンジン搭載のシビックを市場に投入。CVCCによる希薄燃焼によって低公害だけでなく燃費にも優れていたシビックは、1974年度の米国環境保護庁(Environmental Protection Agency〈以下、EPA〉)主催による燃費テストにおいて第1位を獲得した。低公害・低燃費とともに優れた走行性能もアピールすることで、多くの支持を獲得、販売が上向くようになったのである。小型車マーケットのなかったアメリカで、シビックは受け入れられていった。スーパーカブ販売時と同様、需要がなければ自らつくる、という姿勢は四輪車販売でも生かされた。

マスキー法をクリアしたCVCCエンジンを搭載したシビック(1974年モデル)

マスキー法をクリアしたCVCCエンジンを搭載したシビック(1974年モデル)

信頼の獲得、ホンダ車専売店への一歩

 世界初の低公害・低燃費技術を採用したシビックCVCCのヒットを受けても、AHはおごることなく基本に立ち返る活動を行った。
 一時的に商品が注目されても、販売店にホンダの企業活動を理解してもらい共感を得られなければ、長期的に取り扱っていただけないと考えたのである。
 そして、調査機関J.D.パワー・アンド・アソシエイツ(以下、J.D.パワー)の協力を得て、1976年から毎年、AHと販売契約を結んでいるすべての自動車販売店でシビックを購入していただいたお客様一人ひとりを訪問し、シビックの商品コンセプトや品質、購入先販売店に対する意見や要望を聞き集めた。そして、商品コンセプトについては研究所、品質に関する事項は製作所にフィードバック。一方、お客様からの販売店に対する意見や要望については、店舗ごとに数値化し、その資料を携えて、AH四輪営業メンバーが各販売店を一軒ずつ訪問した。しかし、営業責任者が販売店のオーナーに調査結果を説明しても、なかなか納得してくれなかった。そのため、「これは私が言っているんじゃないんです。お客様が言っているんです」と言って販売店を説得して回った。こうして、各販売店のオーナーと、次年度の調査時までに実施すべき諸施策と実行計画について話し合った。
 このような、販売店と一体となって販売体制やサービスの向上を目指す活動により、各販売店のオーナーは次第にAHに信頼を寄せるようになった。ホンダ車のショールームを設け、サービスの充実に力を注ぐ店が現れ始めた。この動きが、その後のホンダ車専売店の誕生へとつながっていった。現在、ホンダが全世界で展開しているCS(Customer Satisfaction〈お客様満足〉)活動は、この時の地道な活動を原形として拡大し、発展してきたものである。