激化する日米貿易摩擦、バブル崩壊。改革の川本時代、始まる
本田宗一郎と藤澤武夫が退任し、河島喜好が二代目社長に就任した1973年から、久米是志が三代目社長として「世界企業ホンダ」の立場を確かなものにしつつあった時期、日本経済は安定成長期にあった。
1980年代前半は、円安ドル高により日本の貿易黒字が増大。アメリカなどとの貿易摩擦が激しさを増した。貿易不均衡を解消するため、1985年9月、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルに、先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁が集結し、ドル安によるアメリカの貿易赤字削減を目指した外国為替市場への協調介入を決定した。これがいわゆるプラザ合意であり、バブル景気の端緒であった。
プラザ合意を受け、円安から一転、一気に円高が進行する。円が高すぎて輸出製品が売れない。大きなダメージを受けた日本の輸出産業を保護し、とどまることのない円高不況を打開すべく、日本銀行は度重なる公定歩合の引き下げを実施した。すると融資を受けやすくなった企業や個人投資家は、株式や不動産投資に奔走し、株価・地価は急激に高騰した。短期間にアップダウンを繰り返し、今度は未曾有の好景気に沸く日本経済。ところがわずか数年で泡のようにはじけた。株価も地価も大幅に下落し、バブル経済崩壊と同時に、投機に走った企業は大きな損失を計上せざるを得なくなり、日本経済の長きにわたる安定成長期も終焉した。
バブル経済期のホンダは「本業に専念する」というストレートでシンプルな考え方を貫き通した結果として、株や不動産関連の投資で損失を出すことはなかった。しかし1980年代末から1990年初頭にかけて、現地化を標榜しつつも、ホンダの輸出比率はなお高く、プラザ合意による急激な円高は、輸出メーカーとしてのホンダを大きく揺さぶった。加えて、バブル経済の崩壊とともに、日本経済全体が一気に冷え込み、国内消費は大きく落ち込んだ。国内販売も厳しい状況が続く。
まさにその渦中、1990年6月に第四代目の社長に就任したのが、当時54歳、専務を務めていた川本信彦である。
国際情勢も一大転換期を迎えた。1990年には東西ドイツの統合、翌1991年にはソビエト連邦の崩壊により戦後冷戦構造に終止符が打たれた。世界経済にグローバル化の波が押し寄せる。
「激動の時代である」社長就任にあたっての川本の一言だ。続けて、「21世紀に向けて、社会・政治・経済・文化などのさまざまな局面で、世界中が苦しみながら新たな進むべき道を模索しているように見える」 と就任直後の川本は語っていた。
ものづくり・環境・安全
あらゆる面で常に先駆ける企業へ
社長となった川本が最初に着手したのは、「現場を知る」ことだった。技術屋である川本はものづくりにはたけているが、特に営業のことはよく分からないという自覚があった。そこで川本は、日本全国の営業拠点を訪ねて、つぶさに見て、熱心に話を聞き、対話した。「これも本田宗一郎さんの教え」と川本は言う。「分からないことがあったら、四の五の言わずに、現場に行って、現場の仕事を見せてもらって、現場の話を聞け、ということです」
営業の最前線がどうなっているのか、何が問題なのか、どうすればいいのか、販売店の営業と胸襟を開いて語り合った。見て、聞いて、考えたのだから、後は実行するだけ。川本の社長業が本格的に始動した。
「ホンダの動きが鈍くなっているのではないか?」それは、前社長の久米も川本も同じように感じていた危機感であり、社長となった川本がまず取り組むべき全社的課題は、余計な無駄を省き、鈍くなっていた動きを軽やかにすることであった。世界の変化は今この瞬間もすさまじい速度で進行している。この時代をどう生き延びれば良いのか、もはや待ったなしで決断しなければならない。
本田宗一郎と藤澤武夫が両輪となってホンダを牽引していた創業期には、二人の強烈な個性と発想力、実行力をバネに、拡大・発展する事業をまっすぐ、脇目も振らず全従業員が力強く後押ししていれば良かった。敗戦で行き場を失った航空工学の優秀なエンジニアが数多くホンダの門を叩き、技術力を底上げしたことも功を奏した。
河島喜好と久米是志の第二世代は、卓越した創業者が去った後の集団指導体制を確立して経営を安定させた後、CVCCエンジンの成功を転機としてアメリカをはじめとする現地生産を軌道に乗せた。世界企業ホンダとしての成長の足がかりを固めることで、創業期の勢いを見事に継承し、大きな飛躍へとつなげることができた。
川本が社長に就任した当時、日米貿易摩擦や急速な円高、内需の縮小など、これまで沈潜していた数々の問題が、バブル経済崩壊と同時に顕在化した。併せて会社の規模拡大に伴って、小回りがきかなくなった。「普通のことが普通にできなくなっていた」 と、川本が指摘するような社内環境に陥っていた。度重なるリコールをはじめ、品質問題も、ホンダの未来を左右する重大な難事であった。「ホンダはクルマづくり・国際展開・安全性・環境・社会貢献において、常に先駆ける企業でありたい」という力強いビジョンを掲げて、川本は大胆な社内改革に着手した。
必要ならば社是を変えても良い。そう考えたほど、不退転の覚悟で臨む改革だった。
社長交代記者会見(パレスホテル) 左:久米是志 右:川本信彦
変わらなければホンダの明日はない
従業員一人ひとりの意識改革を断行
従業員一人ひとりの個性や意見・生き方・仕事への向き合い方・やりがいが集まって、初めて一つのホンダとなる。すべての部分が一つとなって、考え、決断し、行動する体となる。一人ひとりの意識が変わらなければ、会社全体を改革することはできない。なすべきは、従業員一人ひとりに意識改革を促すことだ。言葉や形だけでなく、一人ひとりが心から気持ちや考えを変えなければ、本当の改革にはつながらない。川本は、再び現場に立ち戻った。営業所・支店・工場など、あらゆる現場を歩き回り、言いたいことを言ってもらい、自分の意見も率直に伝えた。
一人ひとりの意識改革を実現するために、1992年に導入したのがTQM(Total Quality Management 総合的品質管理)である。それまでの経験・勘・度胸に基づく仕事の進め方を、客観的なエビデンスに基づく仕事のやり方へと転換したのである。その具体的な方法は、課長職以上の全従業員、取締役を含め、川本が直接面接をして評価することだ。仕事の目的・目標は何か、目標達成のために仕事のやり方をどう変革したのか、目標は達成できたか、できないとしたらそれはなぜか、達成したら次はどうするか。仕事のあらゆる段階において、効率性や効果・品質を厳格に測定しながら、無駄のないよう目標達成を目指していく。伝統的な「ワイガヤ」は結構だが、無責任な言いっ放しに陥らないよう配慮をし、何事においても即断即決を目指した。
地域と事業のマトリクス運営体制を導入し、役職者の年俸制・役職任期制などの人事制度改革も断行した。「ここまでやると反発が出てくる。嫌われもするし恨まれるわけです。(中略)しかし、急激な時代変化の中で、企業全体の体質を改革するためには、これしかなかったのだと今でも思っています」 と、川本は述懐する。批判されて嫌われてでも、ホンダとしてなすべきことを見極め、躊躇なく行動する。そこには求められるリーダー像が垣間見える。
RVブーム到来。「合併」の噂には怒りを露わに
従業員全員の意識改革に川本は精力を注いだ。同時に、マーケットを活気づける新しい商品を創造すること、新しい価値を提供することもホンダの重要な責務であり、喫緊の課題であった。
ホンダが得意とするのは、高性能なパワーユニットを搭載するスポーティなモデルや経済性の高いコンパクトなクルマだ。しかし、市場のニーズは変化しつつあった。1990年代初頭になると、1980年代半ばから人気が高まってきたRVのブームに、一気に火が付いた。
RVは、Recreational Vehicle レクリエーショナルビークルの略、街乗り用や移動手段としてだけではなく、レジャーや趣味を楽しむことを主な目的とする商品カテゴリーだ。現在のSUV(Sport Utility Vehicle スポーツユーティリティビークル)の先駆けといえる。RVは一般的に、さまざまなスポーツ用品やキャンプ用品などを搭載できる収納力を持ち、居住性も高く、山道や雪道にも対応できる走破性を備える。一般的には車高の高いトラックやワンボックスカーのプラットフォームと生産ラインを活用して生産される車種だが、ホンダは乗用車専用の生産ラインしか持っておらず、RVブームに対応した車種構成へ迅速に切り替えることができなかった。当時業績が低迷していたこともあって、「ホンダいよいよ合併か」と、根も葉もない噂が立ったこともある。経常利益は1989年から下降線をたどり、1993年には約227億円へと落ち込んでいた。川本は、「(合併の噂に対し)怒り心頭と言っていい気持ちでした」と回顧し、こう続ける。「ですが、このことで一つ学んだことがあります。それは世界が合従連衡の時代に突入して、世界的な自動車業界の再編成の時代を迎えようとしている。そういう時代だからこそ、ホンダの生き方をはっきりと示さなければならないと考えたのです」
川本の予見は正しかった。世界的な自動車業界再編成の時代。それはのちに川本が社長を退いた直後に現実のものとなり、その渦中で、重要な決断を強いられることになる。
新ジャンル「クリエイティブムーバー」で四輪事業V字回復
ホンダはミニバンやRVの流行を、手をこまねいて見ていたわけではない。社内では、1990年8月から、レジェンドのV6エンジンを搭載する大型ミニバンを、アメリカに新工場を建設して生産する、というプロジェクトが持ち上がっていた。しかし、当時アメリカで販売されていたミニバンは約2万ドル、ホンダが工場を建設し、V6エンジン搭載車両を生産した場合の車両価格は、約3万ドルとの試算が出た。このような高価格では勝負できない。プロジェクトは、頓挫していた。しかし、川本をはじめ、商品担当役員・技術研究所のトップらは、アメリカのミニバン文化を日本に紹介すべきであると考え、開発を水面下で継続していた。 「困って、追い込まれていくと、火事場の馬鹿力のような知恵が出てくるのがホンダです」とは、川本の弁だ。アメリカでの新工場建設は諦めたものの、ホンダによる新しい価値創造を体現すべく、ミニバン開発は急ピッチで進められた。
課題は「このクルマをどこでつくるか」「どこでならつくることができるか」ということである。開発チームが鈴鹿製作所・埼玉製作所狭山工場、アメリカのホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチュアリング(HAM)に打診すると、狭山工場とHAMが名乗りを上げる。中でも狭山工場は、徹底的に生産ラインをチェックした上で、アコードのプラットフォームを流用・改善することにより、最小の設備投資額で、ミニバンの生産が可能だという検証を進めていた。ところが社内には、「日本ではスライドドアのワンボックスが売れている。アメリカ風のミニバンでは勝負できない」といった反対の声が多かった。開発チームらは、わずか20人ほどで試作車1台をつくりあげ、「セダン感覚なのに室内の広いこのクルマは、国内四輪車販売の立て直しにきっと貢献してくれるはず」など粘り強く説得を繰り返し、ようやく開発計画が正式に承認された。
オデッセイ
セダン感覚の乗り心地とセンターウォークスルーやフラットフロア、多彩なシートアレンジが可能にした広い室内空間。
オデッセイは今までにないジャンルのクルマとして誕生した
1994年10月20日、アメリカのミニバンの流れをくみつつも、日本らしいコンパクトで軽快な多目的車が発表された。オデッセイの誕生である。
このまったく新しいジャンルのクルマを販売するにあたり、ホンダはこれまでにないプリモ・ベルノ・クリオという3チャンネル販売方式を採用し、一気に市場浸透を図る。オデッセイは、その年の日本カー・オブ・ザ・イヤー特別賞とRJCニュー・カー・オブ・ザ・イヤーを獲得。シビックを上回る最短記録となる、発売36カ月で30万台を販売した。
ホンダはオデッセイをクリエイティブムーバー(生活創造車)の一つとして位置付け、続いてシビックのプラットフォームを流用したCR-V(1995年、発表年以下同)、若者層をターゲットにしたトールワゴン型のS-MX(1996年)、ボンネットタイプのミニバンであるステップワゴン(1996年)と、クリエイティブムーバ-シリーズを市場に投入。停滞していた国内四輪事業V字回復に、大きく貢献した。
CR-V(1995年)
S-MX(1996年)
ステップワゴン(1996年)
かつてない円高に対応して経営資源を
国内へ集中投下し、「80(はちまる)計画」を推進
クリエイティブムーバーの大躍進と時を同じくして、1995年、「国内四輪販売80万台体制の構築(80計画)」をスタートさせる。
円高は着々と進行しており、この年の4月19日、東京外国為替市場では、1973年にドルの変動相場制が導入されて以来の最高値となる1ドル79.75円を記録している(2023年3月現在、過去最高の円高は、2011年10月31日の1ドル75.32円)。円高の進行と貿易摩擦は、輸出を前提としたビジネスが立ちゆかなくなる危険性をはらんでいた。加えて、バブル崩壊後の景気低迷で、自動車マーケット全体は縮小し続けている。オデッセイ発表に先立つ1994年、ホンダは、日本における事業基盤の強化を打ち出し、これまでの「国内」という名称を「日本本部」に変更した。次いで1995年、起死回生のクリエイティブムーバーが好調に売り上げを伸ばしている機会を捉えて、日本国内に経営資源を集中投下し、年間80万台の四輪車を販売する「80計画」を打ち出した。
「いい商品群が開発できるメドが立ってきたら、次に考えなければならないのは販売です。商品と売りの両輪がしっかりとしていなければ、安定的にビジネスを続けることは難しいからです」と、川本は言う。この計画は、生産と販売の効率化を最大限進めることで、国内で80万台を継続的に売り上げる体制を構築するためのものだ。さらに、国内販売80万台と輸出20万台を合わせて、計100万台の生産を確保する。ちなみに80万台という数字は、前年度(94年度)実績に45%も上乗せしたものである。
「相当きつい目標です」と当時を語る川本は、このチャレンジを成功に導くべく、営業戦力の大幅な増強を決断し、ホンダから販売会社への出向・派遣を行った。営業部門からだけでなく、製作所の従業員たちも、営業スタッフとして販売の最前線に立つ。開発から生産・物流・営業と全社を巻き込む総力戦となった80計画であったが、決して無謀な挑戦に終わらず、1994年に55万8,876台にまで落ち込んでいた国内販売台数は、1997年ついに80万台を突破、80万9,283台と過去最高を記録した。川本が就任以来注力してきたTQMが、品質・コスト・物流の領域で成果を挙げてきたことも、目標達成に貢献した。
「目標を明確に定めて、勢いをつけて、ダーッと行くと、ホンダは強いなと改めて思いました」と、川本は話し、「チャレンジはやり続けるからこそ達成できるのだということで、だから無理だと思っても一度はやってみるものだなと思いました」と述懐している。
世界四極の自立に向けて
広がりゆくグローバルホンダ
日本本部の目覚ましい活躍の一方で、世界戦略においては、「需要のあるところで生産する」というホンダの経営理念のもと、「世界四極の自立化」をさらに推し進めた。
川本の脳裏には、社長就任直後から悩まされた日米貿易摩擦の苦い思いがある。アメリカ商務省の次官や駐日アメリカ大使、ビッグスリーの社長らが、日米貿易摩擦の是正を求めて、次々と川本を訪ねてきた。アメリカ側の主張はこうだ。日本のクルマが安価なのは、メーカーから独占的に安い部品を購入しているためで、不当な商慣習によって、アンフェアにつくられたクルマをアメリカで販売することは許されない。もちろん川本に納得できるはずはない。ホンダは、二代目社長河島のころからアメリカで二輪車、次いで四輪車の現地生産をスタートし、部品調達も現地で行ってきた。日本で生産する製品にもアメリカ製部品を採用している。ましてや、ホンダには独占的に部品を購入する下請けシステムなど存在していない。ホンダは生産拠点だけでなく、日米貿易摩擦の高まりの中、現地部品の調達率を高め、研究開発や生産技術開発をアメリカ国内で展開する戦略をも実行してきた。ホンダは現地化の牽引者であるとの自負が、川本にはある。しかし、説明を繰り返しても、アメリカ側もまた納得することはなく、議論は平行線をたどった。
川本は、1994年に入り、日本・米州・欧州・アジア大洋州の世界四極体制および米州・欧州・アジア大洋州の自立化を宣言する。現地調達率を一層引き上げ、現地の人が現地で考えて、現地でつくって、現地で売る、そして現地の人に、現地の社会に喜んでもらうことを目指したのである。販売台数の多いアメリカで構築した現地自立化の実績とノウハウを拡大展開し、日本が主導する中央集権的な体制とは異なる世界四極体制を構築することで、現地に大幅な権限移譲を行い、ホンダのグローバル化加速を目指した。現地の市場を読み解き、顧客ニーズを把握し、スピード感を持って現地の人が喜ぶ商品を開発・提供するには、真の現地自立化が不可欠であると考えたのである。
創業期の猛烈なスピード感あふれるホンダに身を置いた川本が、パラダイムの大きな転換期においても重視したのはスピードであった。TQMによりあらゆる業務の効率化・迅速化を図り、クリエイティブムーバーを短期間で開発・発売し、80計画で国内でのチャレンジングな目標に向かって一気に邁進した。そしてグローバル展開においても現地化により意志決定を迅速化する。スピードは、成長の重要要素の一つである。それは、先行き不透明感がさらに高まった現在においても通底する経営指針といえる。