伝説の軌跡
Honda蜜月時代のピリオドを、勝利で飾る
F1活動10年目で引き際を決めたHonda
1992年9月11日、日本時間の午後3時、Hondaはこの年限りでF1活動を休止することを正式に発表した。折しもモンツァではイタリアGPの予選が始まろうとしていた。「Honda活動休止をどう思うか?」と突然日本の報道陣から問われたアイルトン・セナは、涙を見せてマイクの前から走り去った。
F1活動10年目で引き際を決めたHonda
1983年にF1復帰を果たして以来、6年連続コンストラクターズ・チャンピオン(1986~87年ウイリアムズ、1988~91年マクラーレン)獲得という偉業を達成したHondaは活動休止の理由を「所期の目的を果たしたため」とリリースした。「実は1991年末時点で辞める決意をした。だから1992年は圧勝し、セナに4度目の王座を取ってもらいたいと思っていた」と、後に雑誌インタビューで川本信彦社長(当時)が語っている。1983年F1復帰のキーパーソンである川本氏が自ら引き際も決めたのだった。いずれ歳月が経てば、かつての自分のようなHondaの人間が、再びF1に復帰すると考えていたことだろう。
残り6周で勝機。HondaF1の70勝達成
決勝レースは予選1~2位のナイジェル・マンセルとセナのリードで始まった。14周目にはリカルド・パトレーゼがセナを抜いて2番手に上がる。一時は20秒ものリードを築いていた首位マンセルが追ってきたパトレーゼにその座を譲ったのは20周目。すでにダブルタイトル獲得を決めていたウイリアムズは、地元イタリア人のパトレーゼに勝利をプレゼントする思惑があった。ところが、ウイリアムズは2台ともマシンに重大トラブルの症状が現われ、マンセルはリタイアし、パトレーゼも急激に順位を下げていった。
これにより、残り6周で首位に立ったセナが自身にとってはF1グランプリ38勝目、撤退を表明した節目の一戦でHondaF1の第2期最後の勝利を飾ることとなった。Honda撤退を知ったセナは、翌年に向けてマクラーレンを出て最強ウイリアムズへの移籍を模索する。ところがそのシートは水面下で1年間動いていたアラン・プロストの手に渡ってしまう。1993年シーズン開幕を前に、セナはF1を離れてCARTインディカーに転向する可能性を示唆するも、結局はマクラーレンにとどまって、フォードV8カスタマー仕様エンジンで戦うことを決めた。セナはチームとの交渉で、年間契約ではなく1戦ごとの契約という変則的な形態を選択した。勝利を渇望するセナの苦しい立場が現れた契約だった。
1993年、戦力的には不利なこの環境下でセナはしばしば神懸かりなレースを見せ、圧倒的優勢だったはずのウイリアムズのプロストを最終戦まで苦しめることとなる。4度目のタイトルを獲得し、引退していくプロストに代わり、翌1994年ウイリアムズのシートに収まることになったセナは、自身4度目となる王座を全勝で奪還する意気込みだったはずである。
1994年5月1日、アイルトン・セナは「最速」のまま我々の前から去っていった。そしてあとには伝説が残った。セナの残像はいまだに34歳のまま変わることがない。通算戦績、出走161戦41勝65ポールポジション、首位走行86戦。そのうちHondaエンジンによる数字は、96戦32勝46ポールポジション、首位走行61戦となる。セナとHondaが切っても切り離せない関係だったことを、この数字が物語っている。