伝説の軌跡
8年越し悲願の母国GP初優勝
母国戦で運に見放され続けたセナ
1991年、HondaはそれまでのV型10気筒エンジンからV型12気筒のRA121Eを投入した。高回転でハイパワーを絞り出すV12をHondaが採ったことは大いに注目を集めることとなった。それは、当時最高峰とされたHondaパワーの大きな路線変更であるとともに、HondaF1第1期の記憶を呼び起こすものであったからである。Honda第1期F1のV12エンジンが奏でるエンジン音は「Hondaミュージック」と呼ばれ、独特の高音サウンドが絶賛されていた。そのHondaV12が復活したのだ。
シーズン序盤から、HondaV12を搭載したマクラーレン・ホンダは好調だった。開幕戦アメリカGPではセナがポールポジションから優勝を果たし、仕様が変わったエンジンのポテンシャルの高さを証明した。
そして、第2戦ブラジルGPを迎える。それまでセナは、なぜか母国ブラジルで勝てないでいた。何度もトップを走り勝利を目前にしながらも、母国勝利という栄冠は手にしていなかった。過去7度の挑戦で4度のポールポジションを獲得したが、マシントラブルなどセナには不運が付きまとう。特に前年1990年はレース終盤までレースをリードし、勝利確実と思われた矢先に周回遅れのマシンと接触して勝利を逃し、F1の神はセナに試練を与え続けていた。その試練に立ち向かうセナにとって、ブラジルGP優勝は悲願だった。そして、挑戦8年目にしてようやく念願の母国優勝叶ったのである。しかしそれは、まさに薄氷を踏む思いの、きわどいものだった。
終盤、6速のみの走行を強いられる
サンパウロにある一周4.3kmのインテルラゴスのコースは、高低差が大きいだけでなく、左まわりという点がユニークなサーキットで、ふだん右まわりに慣れているドライバーたちにとって肉体的にも厳しいコースでもある。
セナは予選でまるで指定席であるかのようにポールポジションを獲得、決勝でもレースをリードする。しかし、ライバルのナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)が背後にぴたりと付いて離れず、セナに余裕はなく、必死に逃げる展開だった。順位変動こそないものの、息詰まる戦いが続く。71周レースの60周目にセナを追うマンセルの方にマシントラブルが発生し、ふたりの勝負は終わった。これでセナの独走となり、地元観衆は大喜びの歓声を上げ、サーキットは異様な雰囲気に包まれた。ところがセナもトラブルに見舞われていたのである。ギヤボックスにトラブルが出始め、まず4速が無くなった。そして3速と5速と、次々にトラブルは拡大し、最後は6速のみでの走行を余儀なくされていた。低速コーナーでは止まりそうになり、もしストールしたらセナのレースは終わってしまう。当然ながらラップタイムもみるみる落ち、後方からは2番手リカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ)が周を重ねるごとに迫ってくる。曇り空からはセナの苦境を嘆くが如く、雨粒が落ちてきた。しかし、ウェットコンディションを得意とするセナにとっては、ブラジルでようやく訪れた幸運だったのかもしれない。一方、セナの異変に気づいた者は「今年もセナはブラジルで勝てないのか」と、セナの心中を察した。
それでもセナは、すべてを振り絞りマシンをゴールに運んでいた。チャンピオンナンバー1を付けたマクラーレン・ホンダが最後の坂を必死で登り切ってトップチェッカーを受けた時、2位パトレーゼは3秒後に迫っていた。もしレースがもう一周あったら勝てなかっただろう。マシンだけでなく、セナ自身の身体も限界に達していたからである。
感激と疲労でコクピットを出られず
フィニッシュ直後のテレビ中継に、コクピット内で泣き叫ぶセナの声が流れ、視聴者を驚かせた。当時は非公開であったピットとドライバー間の無線交信を、地元放送局が傍受していて、初めてそのやりとりが公にされたのだった。マシンをコース脇に停めたセナは、必死のドライビングと過労と喜びとで、しばし放心状態となる。マーシャルカーに乗せられて戻ってきた後も、表彰台でトロフィーも持ち上げられないほどだったが、最後、自身の頭上にシャンパンを浴びせ、自らの勝利を祝った。自身通算28勝目。この時点でジャッキー・スチュワートの27勝を抜いて、通算44勝のプロストに次いで、これで単独2位(当時)の勝利数となった。
悲願の母国優勝を果たしたセナはその後も絶好調で、開幕から4戦連続ポール・トゥ・ウインという前人未到の大記録を達成し、チャンピオンシップを大きくリードしたが、ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルとリカルド・パトレーゼが調子を上げるマシンを武器に、徐々にセナに肉薄していくことになる。