伝説の軌跡

禍根を残したセナ対プロストの対決

1989年10月22日第15戦 日本GP(鈴鹿)

またも王座決定戦の舞台は鈴鹿

1989年、ターボエンジンが禁止され、エンジンは自然吸気(NA)に一本化が図られた。この大きな規則変更においても、Hondaが新開発したV型10気筒エンジンを搭載したマクラーレン・ホンダの強さは揺るぎなかった。当時としては画期的だったパドルシフトのセミオートマ7速を持つフェラーリやルノーV10エンジンで戦うウイリアムズがしばしば優勝戦線に加わったが、タイトル争いはマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナとアラン・プロストの一騎打ちの様相となり、緊迫したチームメイト同士の戦いは熾烈を極め、ふたりの言動やレースに注目が集まり、レース界のみならず世界的な話題となっていった。

第15戦の鈴鹿(日本GP)を迎えた時は、ポイントリーダーのプロスト76点とセナ60点と、この年フェラーリに移籍したマンセル38点を大きく離した状況で迎えることとなった。セナとしてはこの鈴鹿と最終戦アデレイドで連勝しないと逆転2連覇は達成できない。しかし予選から絶好調のセナは、プロストに実に1.7秒もの大差をつけてポールポジションを奪うと、自信満々で決勝に臨んだ。

当時は決勝当日の午前中にウォームアップ・セッションが設けられていた。プロストはここで通常よりもダウンフォースを減らして直線スピードを上げるセッティングをトライし、セナより0.7秒速いタイムをマークすると、決勝もその仕様で臨むことを決める。スタートで抜群のダッシュを決めたのはプロストだった。1周目終了1.4秒差、2周して2.2秒差、5周終了時点で3.8秒差。セナが追い上げて逆転するだろうとの見方は外れ、首位プロストの快走が続く。焦ったのはセナ本人だったろう。21周してプロストはタイヤ交換のため予定のピットイン、2周後にはセナも同様にタイヤ交換。残り30周、セナがプロストとの差を少しずつ詰め始める。53周レースの47周目に入るところで、プロストとセナの差は0.5秒未満にまで縮まっていた。残りは6周余。勢いはセナにあった。

痛恨の接触劇、ライセンス発給問題に

47周目の最終シケイン、ブレーキングして右左とステアして立ち上がるそのブレーキング地点で、セナは「今がチャンス」と目前にいるプロストのイン側に思い切りダイブし、追い抜きにかかった。次の瞬間、プロストはいつもどおりイン側に切り込んだから、2台のマクラーレン・ホンダは絡み合いながらその場に頓挫してしまう。観客が呆気に取られている間、プロストはすぐにコクピットから降り、コース脇の通路を歩いてコントロールタワーへと向かった。一方、セナは駆け寄ったマーシャルたちに「押してくれ」と合図すると、そのままコースに復帰し、混乱の間に先行していたアレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン・フォード)を51周目シケインで抜き返すと、最初にチェッカーフラッグを受ける。劇的な逆転勝利を奪ったと喜んだのも束の間、セナに言い渡されたのは「失格」の裁定で、プロストとの衝突後にレースに戻った際に、シケインを正しく通過しなかったというのがその理由だった。すぐにマクラーレン陣営から抗議が出され、鈴鹿の結果は暫定とされたが、一週間後のパリのFIAでの聴聞審査の結果セナは失格となり、最終戦を前にプロストの王座が決まった。同一チームにふたりのエースは存在しえず、「衝突」は必然の結果だったのかもしれない。ライバル車不在のマクラーレン・ホンダ一強という背景のなかで、エースドライバー同士の栄冠をかけた戦い結末は禍根を残すものとなったが、セナ、プロスト両者の個性と技術、そしてチャンピオン獲得への執念を表したレースだった。

プロストはこの年をもってマクラーレンを去り、セナはこのアクシデントに起因するスーパーライセンス剥奪騒動に巻き込まれ、一時はF1の舞台から去らなければならない可能性すらあった。頂点を極めたマクラーレン・ホンダと「セナ対プロスト」の時代は幕を下ろし、セナとHondaにとって新たなステージが幕を開けることとなる。