伝説の軌跡

Hondaとの初勝利は伝統のモナコ

1987年5月31日第4戦 モナコGP(モンテカルロ)

念願だったHondaエンジン搭載

1987年、アイルトン・セナは、当時のロータス・チーム監督ピーター・ウォーの尽力が実り、念願のHonda V6ターボを得た。ロータスがこの年に投入したマシン99Tは、油圧制御によりサスペンションのストロークをコントロールし、車体姿勢の最適化を図る画期的なシステム「アクティブ・サスペンション」を搭載していた。しかし、開発途上のシステムがうまく機能しないことも多く、セナは走行に苦労し、結果が出ないレースが多かった。

この年は、10年ぶりの「F1日本GP」がHonda所有の鈴鹿サーキットで初めて開催され、Hondaとともに実績を積み重ねた中嶋悟が、セナのチームメイトとして日本人初のF1レギュラードライバーとして参戦するなど、Hondaにとっては特別な年だった。その特別な雰囲気が日本全体にF1を認知させ、後に「F1ブーム」を巻き起こすきっかけを生み出した。

2位ピケを30秒以上引き離す快勝

力強いエンジンを手に入れたセナだったが、開幕戦の母国ブラジルGPではトラブルに見舞われ無念のリタイアを喫し、第2戦サンマリノGPではポールポジションを獲得するも2位、第3戦ベルギーGPでは序盤のアクシデントによりリタイアと、開幕3戦は勝利には手が届かない状態となっていた。

そして、セナのシーズン最初の勝利は、伝統の一戦、第4戦モナコGPで達成された。フランスとイタリアに挟まれた小国モナコの市街地コースを舞台に、GPレースが初めて開催されたのは1929年の昔にまで遡る。その歴史とともに、コースに接するホテルやカジノを舞台に華やかな社交の場が催されるモナコGPは、狭くタイトなコーナーが多い難コースとしてもその名を馳せ、他のどのコースで勝つよりもモナコでの勝利は名誉なことだと、どのドライバーも口にしてきた。

予選とレース前半で他を圧倒したのはウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルだった。しかし78周レースの29周目、マンセルは突如ターボパワーを失ってスローダウンし、リタイアしてしまう。ウェイストゲート・パイプの故障だった。それまで2番手につけていたセナがこれにより労せず首位を奪い、42周してタイヤ交換を行なっても首位を明け渡さず、2位となったウイリアムズ・ホンダのネルソン・ピケに30秒の大差をつけてHonda V6ターボ獲得後4戦目にして優勝を成し遂げた。セナ自身も居住するモナコにおいて、挑戦4年目にして初勝利。この後通算6回のモナコGP制覇を成し遂げ、「モナコマイスター」と呼ばれるようになる。6回中5回はHondaエンジン搭載車での勝利であり、このモナコ6勝の記録は、2024年現在においても誰にも破られていない偉大な記録である。

翌年、Hondaとともにマクラーレンへ

この3週間後に行われた第5戦アメリカGPでも、セナが連勝しシーズン2勝目を挙げた。2勝を挙げたセナは一時チャンピオンシップをリードするも、シーズンを通してロータスの不調や不運なアクシデントにより結果につながらないレースが多く、シリーズランキングは3位で終わった。

この年のイタリアGPで、1988年シーズンからセナがマクラーレンへ移籍し、当時2度のワールドチャンピオンを獲得しているアラン・プロストとチームメイトになることが発表された。マクラーレンとHonda、そしてセナにとっては既定路線といえる移籍であり、頂点への道が始まることとなる。