第Ⅲ章
独創の技術・製品

第3節 パワープロダクツ 第1項 生活を支える汎用エンジン

第3節
パワープロダクツ 
第1項 生活を支える
汎用エンジン

エンジンの力で
人々の労働を
助けたい

農村や漁村で過酷な労働を強いられていた人々を各地で目にした創業者 本田宗一郎は
「これではいかん。機械化して彼らの労働を軽減する何かができないか。
オートバイだけでは、これらの人を救えない。
ホンダのエンジン技術を使って、日本を貧困から救えないか」と考えていた。
1950年ごろの農業用エンジンの領域では、すでに国内の一流メーカーがしっかりした販売ルートを持ち
農家の需要を上まわるエンジンの販売合戦を展開しており、新しいメーカーの参入は難しいと思われていた。
しかし、「お客様が求めているもの」を、「真に社会に役立つもの」を、「オリジナルでつくる」という考えのもと
得意分野の小型ガソリンエンジン技術を生かした農業用エンジンの開発を決意する。

汎用エンジンへの進出

 「背負式散粉機用の小型エンジンが欲しい」
 ある小型農機メーカーから声がかかった。自転車用補助エンジン・A型(1947年発売)や、性能をさらに向上させたカブ号F型(1952年発売)の評判を聞きつけてのOEM供給*1の相談だった。
 1952年9月、カブ号F型エンジンの基本構造を受け継いだホンダ初の汎用エンジン・H型の生産がスタートした。主要部品は当時としては画期的なアルミダイキャストを採用し、総重量6kgの軽量コンパクトな1馬力のエンジン。重労働であったエンジン始動もロープ手動2回でできると好評で、背負式散粉機用エンジンとして国内の果樹園ばかりでなく、広くブラジルのコーヒー園でも使用された。

背負式散粉機用のエンジンとして開発された、ホンダ初の汎用エンジンH型

背負式散粉機用のエンジンとして開発された、ホンダ初の汎用エンジンH型

 H型の開発を通して、ホンダエンジン付き製品を普及させることで、労働を軽減し生産性を上げて豊かな国にしたいとの思いを強めた本田宗一郎は、「すべての人に受け入れられるためには、使い勝手が悪く、臭いがくさく、煙の出る2サイクルでは駄目。4サイクルだ」との信念を持つようになっていた。
 構造は複雑化してコスト高になってしまうが、ホンダは4ストロークエンジンの開発に挑戦。1954年12月、コンパクトで未経験の人にも扱いやすいT型の販売を開始した。2.5馬力にパワーアップしたT型には、農業機械に求められる斜め状態での安定使用が可能な、ホンダ汎用エンジン初の自社開発キャブレターを採用。マフラーにも高温で変色しにくい処理を施し、使い勝手の向上に加えてデザイン性にも配慮した。

汎用エンジンとして4ストロークエンジンに挑戦したT型

汎用エンジンとして4ストロークエンジンに挑戦したT型

 1950年代半ばから日本の経済成長は加速。農村では若者が都会の労働力として地元を離れ、労働力不足が顕著になっていた。1956年、自動脱穀機の普及は全国農家戸数の半分に当たる270万台に達するなど、労働力不足による農業の機械化は確実に進んでいった。
 高まりを見せる農業の機械化や建設産業の高効率化に対応する汎用性の高い動力源として、最も需要の多い3.5馬力クラスで小型軽量かつ高性能なエンジン、VN型エンジンを開発し1956年に発売。このVN型は、常用回転数・回転方向およびヘッド取り付け寸法・駆動軸の関係位置などを既存のアタッチメントに合わせた、始動性の良い強制空冷4ストロークサイドバルブ直立エンジンであった。VN型エンジン発売後、さらにユーザーの具体的用途が明確になり、便利さと市場の高級化指向を先取りするため、多くの自動装置を装備した新VNシリーズの開発が進められ、カム軸駆動のVNC型とクランクシャフト直結駆動で減速機付きのVND型エンジンを1958年に発売。最高出力が5馬力で、小型・軽量・自動遠心クラッチとリコイルスターターの採用による始動の容易さ、アルミ製ファンカバーによるファン音低減と高い外観商品性など、さまざまな特徴を備えていた。
 二輪車ではスーパーカブC100が登場し、企業として躍進期への節目となった1958年、農機具課を新設し、汎用エンジンを活用した独自の完成機として耕うん機や発電機などの分野へ進出。汎用(パワープロダクツ)事業も躍進期へと突き進んでいった。

  • :Original Equipment Manufacturer 他社ブランドの製品を製造すること
小型軽量・高性能エンジンとして開発されたVN型

小型軽量・高性能エンジンとして開発されたVN型

VNシリーズとして発売されたカム軸駆動のVNC型

VNシリーズとして発売されたカム軸駆動のVNC型

汎用事業をホンダの3本目の柱に

 1959年にホンダ初の完成機となる耕うん機F150を発売して以来、発電機・船外機など幅広い分野に進出し、汎用事業は規模を拡大していった。そうした中、これら完成機の動力源でもある汎用エンジンにおいては、OEM供給先として日本国内とは桁違いの規模の海外市場に目を向けていた。
 そして1963年、国際商品にふさわしい本格的エンジンとして小型軽量のG20と、幅広い用途のG30の販売を開始。使い勝手の良さで高く評価されたGシリーズは、船外機、発電機、ポンプなどに搭載されて幅広い生活シーンで活躍し、10年以上にわたりホンダの汎用エンジンの主力として生産された。それでも、世界最大の汎用エンジンメーカーであるアメリカのブリッグス社(Briggs&Stratton Corporation)の年間生産台数が数百万台であったのに対し、ホンダはわずか20万台に過ぎなかった。
 当時からホンダの品質・信頼性は非常に高いものだった。しかし他社に比べると高価で重量も重く、また、取り付け部の仕様が一部独自のため各社のOEM機械への搭載適合性が高くないこともあり、なかなか販売台数を伸ばせずにいた。
 こうした状況を打破するべく、本田宗一郎から社長を引き継いだ河島喜好によって、1975年に「3本柱構想」が打ち出された。すでに世界一となっていた二輪車、N360やその後のシビックの成功によって拡大基調にあった四輪車に並ぶ3本目の柱として、伸び悩んでいた汎用事業にも、全社を挙げて取り組んでいこうという姿勢が示された。

海外市場に目を向け開発されたG20、G30はその後Gシリーズ展開し10年以上にわたって、ホンダ汎用エンジンの主力となった

海外市場に目を向け開発されたG20、G30はその後Gシリーズ展開し10年以上にわたって、ホンダ汎用エンジンの主力となった

100万台売れるエンジンを開発せよ

 汎用事業に3本柱の一角を担わせるための具体的目標はほどなく示された。それは、年間100万台以上を狙える新エンジンの開発。前述のように、当時ホンダの汎用エンジンの年間生産台数は20万台レベルで推移していたため、100万台という数字には開発担当者の誰もが耳を疑った。そうした驚きの中で、「Million seller Engine」の頭文字から命名されたMEエンジンの開発(ME構想)がスタートした。
 100万台を販売するには、どのようなエンジンをつくればいいのか。当時、世界の汎用エンジン市場の規模は、およそ1,000万台。このうち、約800万台をアメリカのブリッグス社が占めていた。同社のエンジンはホームユース(コンシューマーユース)に強く、大量生産によって強力なコスト競争力を誇っていた。ホンダのエンジンは、二輪車のエンジンを原点にしていたため高品質だが他社に比べると価格が高く、汎用製品市場ではなかなか受け入れられない。1万円で3年使えるエンジンと、3万円で10年使えるエンジンでは、安価なエンジンが選ばれる。汎用製品市場は二輪車や四輪車とは価値観の異なる市場なのである。
 そこで、ターゲットをブリッグス社が得意とするホームユースではなく、業務用市場に絞り込み、開発コンセプトを「丈夫で長持ち、コスト1/2」と定めた。

各部門のメンバーの知恵を結集し
コンセプトを具現化

 「丈夫で長持ち」とはいうものの、どの程度の耐久性があればよいのか。これは難問だった。使い方、使う人によって、それぞれ状況も感じ方も異なる。その商品のユーザーが、「丈夫で長持ち」と感じるようにすること。ユーザーの感覚こそが基準であり、それが新しいエンジンの目指すべき方向性だった。二輪車・四輪車も含めた各部門から集まった開発メンバーは、幾度となく市場での使われ方やユーザーの感覚について話し合った。 例えば、一番困ることはエンジンが焼き付くことだという意見があった。どんなに丈夫であっても焼き付いてしまっては意味がない。ならば、焼き付く前にエンジンを止めたらどうか。そんな発想から、エンジンオイルが規定量よりも少なくなると自動的にエンジンを停止させる機能・オイルアラートが生まれた。ほかにもメンテナンスフリーのCDI点火、始動が容易なデコンプカム、非常時の迅速停止が可能なキルスイッチなどの新機構を生み出すことにつながった。
 コンセプトのもう一方である「コスト1/2」も困難な課題だった。世界に通用するエンジンにするためには、品質を高めながらコストダウンしなければならない。そこで、タンク・キャブレター・クランクなどの機能別に担当者を割り振り、例えば燃料タンクの現状のコストが800円なら400円に、という具合に目標を設定することにした。 強引な方法だったが、常識を超えなければ達成することはできない。不可能と思う機能も少なくなかった。例えばプラグなどは、共通化したり一番売れているサイズに合わせたりするなど、いかに安く購入するかを考える程度しかアイデアはない。せいぜい3%から4%のコストダウンが限界だ。そんな場合は、容易ではないにしろコストを1/2以下にできそうな機能に取り組む他チームと協力する。その機能に対してアイデアを出し、1/2を超えた分を自分たちの機能のコスト削減分とするのである。一つの目標に向かって、全員の力をまとめ上げていく。こうした努力の積み重ねが、最終的には「ほぼ1/2」という、驚くべき成果を実現することになった。

エンジン焼き付け防止のため、エンジンオイルが少なくなると自動的にエンジンを止める、オイルアラート機構

エンジン焼き付け防止のため、エンジンオイルが
少なくなると自動的にエンジンを止める、
オイルアラート機構

MEエンジンG200の構造図

MEエンジンG200の構造図

誰もが信じていなかった100万台を達成

 1977年、ME構想に基づいて開発したG150・G200の販売を開始した。G150・G200は東南アジアで「店頭に並べなくてもどんどん売れる赤白のエンジン」として好評を得て、船外機やポンプなどに幅広く搭載された。ME構想で開発したエンジンはシリーズ化し、1982年に目標の年間販売台数100万台を達成。ホンダの高い技術力と確かな着眼点を世界にアピールすることに成功した。
 市場に立脚した製品要件と将来の目標を見定めた開発によって、汎用エンジンとしてのあるべき姿を明らかにした戦略が、誰もが信じていなかった成功をもたらした。そしてこの成功は、二輪車エンジンからの脱皮を促し、汎用エンジンとしての独自性を切り開くことにもなった。その意味においても、MEエンジンは3本柱構想を受けて開発された製品にふさわしいエンジンであった。
 100万台というとてつもない目標だからこそ、さまざまなアイデアを出し、新しい体制を構築した。100万台というより、100万人のお客様に喜んでもらいたいという気持ちがあったからこそ、実現できたといえるだろう。

東南アジアで「店頭に並べなくてもどんどん売れる赤白のエンジン」と呼ばれたG150とG200

東南アジアで「店頭に並べなくてもどんどん売れる赤白のエンジン」と呼ばれたG150とG200

発電機の低騒音化への要望から生まれた
汎用水冷エンジン

 ホンダは汎用エンジンのOEM供給に加え、自社の完成機用として、それぞれに適したエンジンの開発に取り組んできた。
 1970年代に入ると高度成長の波に乗って、発電機は工事現場などでも多く使われるようになっていき、都市部で夜間工事が増加すると騒音に対するニーズが増大。発電機の静粛性が求められるようになった。そこでホンダは軽自動車ライフの水冷4ストロークエンジンを搭載するEM5000を開発。開発担当責任者の自宅前で真夜中に最終試作機の試運転を実施したが、まったく気が付かれなかったというエピソードを残すほど静かな発電機となった。EM5000は工事用途にとどまらず、映画やテレビ制作現場などでも幅広く使用され、販売台数の拡大を続けていた。
 ところが発売から数年後、ライフ自体が四輪戦略の流れの中で生産中止となったため、EM5000も必然的に生産中止となった。それでもなお、市場からは再生産の要望が強く、1980年ごろに汎用エンジン独自の水冷エンジン開発が計画される。しかしながら、当時の製品系列では発電機以外に搭載する製品がない状況であった。そのため、投資コストを抑えるために、船外機BF9.9の生産ラインを活用することになった。
 船外機エンジンに最適化された生産設備を共用せざるを得ず、苦労の連続ではあったが、それを逆手に取りさまざまなアイデアを投入。他社にないユニークなエンジン・GX360が完成した。GX360は1982年発売の発電機EX5000(防音型)・ES6000に搭載され、その後、乗用芝刈機HT3813や車載専用発電機EV6010に搭載されるなど活用の幅が広がっていく。いずれも競合製品と比べエンジンの高い信頼性と低騒音が圧倒的な商品競争力につながっていた。さらには、マリンジェネレーター用にアメリカのOEMにも採用されるなど息の長い商品となり、当初の計画を大幅に上まわる累計約17万台(1996年度末)の生産台数を達成した。

汎用エンジンとして独自に開発された水冷エンジンGX360を搭載した防音型発電機EX5000とES6000

汎用エンジンとして独自に開発された水冷エンジンGX360を搭載した防音型発電機EX5000とES6000

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