第Ⅲ章
独創の技術・製品

第1節 二輪車 第4項 二輪車用ATへのこだわり

第1節 二輪車 第4項
二輪車用ATへの
こだわり

クラッチ操作を
なくす60年の戦い

1949年、ホンダ初の本格的オートバイ、ドリームD型は誰でも簡単に扱えるオートバイにしたいとの想いから
操作に慣れを必要とする手でのクラッチ操作を省いて左足でギアチェンジする機能を搭載。
その後、1958年に発売されたスーパーカブC100では
クラッチ操作が不要な革新の自動遠心クラッチ機構を搭載したことで
クラッチレバーをなくして足だけのギアチェンジを可能にした。
「誰にでも簡便に乗れるようにする」ということは
「技術で人の役に立つ」という本田宗一郎の想いの具現化だった。

二輪車専用ATの可能性を追求したHRD

バダリーニ構造図 バダリーニ構造図
バダリーニ式をベースにホンダが開発した二輪車用AT HRD バダリーニ式をベースに
ホンダが開発した二輪車用AT HRD

 二輪車をより扱いやすくする技術の1つとして、ホンダが二輪車用AT(オートマチックトランスミッション)に取り組んだのは1950年代後半のころだった。そのAT機構はHRD(Honda R&Dの頭文字)と呼ぶもので、原型はイタリアのバダリーニが開発した無段階変速機であるHMT(Hydraulic Mechanical Transmission 通称バダリーニ式)である。
 HRDはバダリーニ式にホンダが独自に改良を加えたもので、非常に複雑な機構ではあったが、当時アメリカを中心に四輪車で普及し始めていたトルクコンバータ(トルコン)ATよりも出力伝達効率に優れ、サイズもコンパクトであった。そこに本田宗一郎は二輪車用ATとしての可能性を見いだしたのである。コミューターなど利便性が求められる商品では、クラッチ操作が必要なマニュアル変速の煩わしさを解消すべきであるという本田の思考は、自動遠心クラッチを採用したスーパーカブC100の大成功で裏付けられていた。
 ホンダはHMTの特許権を取得し、OHV水平対向2気筒エンジンに、ホンダ初の二輪車用ATとしてHRDを組み合わせたスクーターのジュノオM80を1961年11月に発売した。しかし、124cc・11PSという当時としては高出力なエンジンを採用したものの、オイル漏れの懸念から高圧な油圧作動が達成できず、その伝達効率は当初の想定を大幅に下回り、結果的にアンダーパワーとなってしまった。

ホンダ初の二輪車用ATであるHRDを搭載したジュノオM80

ホンダ初の二輪車用ATであるHRDを搭載したジュノオM80

 翌年には排気量を170ccに拡大したジュノオM85を追加したが根本解決には至らず、莫大なHMTの特許料が押し上げた高価な車両価格も、販売を阻害した。折しも、それまで堅調であったスクーター需要は下降の兆しを見せ始めたため、1年あまりで生産中止となりHRDは表舞台から姿を消したのである。
 そして、6年後の1968年、軽乗用車N360において、独自に開発したホンダマチック(トルコンAT)を採用。二輪車にも1977年にCB750 FOURにホンダマチックを搭載したエアラ、1978年にはホークCB400Tホンダマチック付きを発売したが、エンジン出力を十分に反映できず市場の反応は今一つで、スポーツバイクにATは不要という評価が市場の大勢を占めた。

モトクロスで復活したHRD、そしてHFTへ

 二輪車用ATにホンダが再び注力したのは、1980年代中盤のことだった。1973年に社長を退いた本田が、日本ボーイスカウト連盟のイベントでオフロードバイクの走行会を催したのだが、雨天となった初心者ばかりの走行会は、ぬかるんだコース上でスタック続出となった。泥まみれで難儀している少年たちの様子を見て本田は言った。「バダリーニでオフロードバイクをつくれば、滑らなくて良いんじゃないのか」。ATなら変速によるトルク変動が少ないのでリアタイヤが滑らないという発想だったが、そこには未完の夢に対する忸怩たる想いがあっただろう。AT技術の一環としてHRDの研究は継続していたものの、実用化の糸口は見つかっていなかった。その滑らかな作動性や静粛性は優れたものであったため、伝達効率を最適化できれば理想的なAT機構になるはずだった。
 過去にHRDに関わった研究所のエンジニアの中にも、不完全燃焼の想いを抱いていた者は少なくなかったが、本田のひと言が結実化につながった。1985年、HRDは二輪車搭載を前提にしたR研究として正式に承認され、再び研究が始まった。
 その研究テーマは「オフロード用エンジンでのHRD開発。最終的にはレースに参戦し、その性能を確認・実証する」というもので、開発責任者(LPL)には四輪のATやABS(アンチロックブレーキシステム)の設計などを行ってきた林勉が指名された。油圧関連のエキスパートであった林は「二輪車にこそ、扱いやすいATが必要」という持論の持ち主であり、それを知っていた当時の本社取締役・朝霞研究所所長で後に五代目社長となる吉野浩行が林を推したのである。研究は当時四輪車用として研究されていたHRDを分析することから始めた。
 ところが林は1カ月ほどでその作業を切り上げ、基礎研究もなしにいきなりHRDの完成図面を書き上げて部下たちを唖然とさせた。だが、当時の社長・久米是志は、その図面を見て「よし、これだ」と即座に決裁したという。久米もまた冗談半分で「この会社でノーベル賞を取れる可能性があるとすれば、林一人だろう」というように林を評価していた。
 搭載するエンジンはモトクロスで使用する2ストローク単気筒250ccが、出力的にもサイズ的にも、研究すべきHRDに最適だと判断された。すぐに試作エンジンはでき上がり、ベンチテストも行わずにモトクロッサーCR250Rの車体に搭載して研究所内で運転テストが行われた。
 「クラッチ機構に自信がない。何かの拍子に飛び出すかもしれないから気をつけてくれ」という林の話から、建屋の壁に前輪を当て、全員でマシンを押さえてエンジンを始動。そして、クラッチを恐る恐るつなぐ。だが、エンジンがうなるばかりでマシンはまったく動かなかった。
 「やるならハードルの高いレーサーだと、一番ATにふさわしくないマシンに載せたわけだが、みんなで大騒ぎして完成車をつくり、『さあ離れていろ』と始まったら、進まないどころか後輪すら回らない。当時入社1年未満だった自分はびっくりだった。ただ、林さんがすごいと思ったのは、この時に、二輪車用HRDの完成形に近いものをつくったことで、それは原形のバダリーニに匹敵するぐらいの発明だったと思う」

後のHFTとなるプロトタイプレイアウト。車体は動かなかったものの完成形に近いものがこの時点ででき上がっていた 後のHFTとなるプロトタイプレイアウト。
車体は動かなかったものの
完成形に近いものがこの時点ででき上がっていた

 こう語るのは、入社直後に耐久シミュレーション担当として配属されていた中島芳浩である。その原因が油圧によるオイルポンプ躯体の瞬間的な破断だと分かるまで、数基のHRDをつくり直した。
 「どこかの段階で耐圧試験をしたところ、なんてことはない、組み立て式の躯体が圧力に負けていたことが判明したので、電子ビーム溶接を用いて一体化してこれに対処した。HRDでは約400kg/cm2の高圧で使うので、色々な部分が変形したりする。隙間から漏れてくる油はどのくらいの量なのか、太いプランジャピストン9本に対し細くて本数が多い場合では、どちらの性能が良いのか、そんなことを書いてある本や論文が出ていたわけではないから、自分でやってみるしかなかったが技術的に非常に面白かった」(中島)
 手探りの開発は少しずつ前進したが、レーシングマシンとしての性能を確保するメカニズム自体の開発に2年、実戦を想定したテストで変速特性やフィーリングを決定するまでに3年、都合5年の時間を要したのである。中でも実戦仕様への熟成には手間取った。
 何度テストしても評価はNOという状況にチームは焦燥し、1989年の段階では「これはもうダメかもしれない」という諦め感が漂い始めていた。ところが、この年11月のジャパン・スーパークロスに来日した外国人ライダーたちがこのATに試乗したところ、「疲れない」「コーナーが速い」「面白い」と、総じて高評価を与え、1人3周程度の走行にも関わらずタイムはMT(マニュアルトランスミッション)車のベストタイムに0.5秒差にまで迫ったのである。AT車の実戦投入は決定した。
 1990年、HRDはHFT(Human Fitting Transmission)と名称も新たにし、RC250MAとして全日本モトクロス選手権にフル参戦。実戦開発を行いながらランキング7位を獲得。ここでさらなる高出力化と軽量化が図られ、翌1991年は第2戦で初優勝。AT車はスムーズな変速による高いトラクション性で圧倒的な速さを発揮し、結果的に12戦24ヒート中の8ヒートを制し、見事シーズン最多勝利でシリーズチャンピオンを獲得した。

HFTを搭載したRC250MA。1991年の全日本モトクロス選手権でシリーズチャンピオンを獲得した

HFTを搭載したRC250MA。1991年の全日本モトクロス選手権でシリーズチャンピオンを獲得した

足掛け40年。ついに市販化を実現

 レースでの技術的実証という目的を達成したHFTだが、その裏では幅広い排気量で市販化に向けた検討・開発も進められていた。市販モトクロッサーCR250RにHFTを搭載したテスト車が1991年に実戦テストを行い、オンロードモデルのNSR250Rにも搭載しての走行テストも行った。GL1500や4ストロークモトクロッサーCRF450Rでも搭載を具体的に検討していた。
 「NSR250R搭載のHFTは学習機能まで備えていたほどで、高い回転数を使っていると変速タイミングも高い回転になるものだった。方向性としてはライディングファン。イージードライブで、人間の感覚にフィットした走りをHFTでつくっていこうという考えが基本にあった」(中島)
 さらには4ストロークスクーターなどへの搭載を想定し、手のひらサイズに小型化した10PS対応のHFTも試作された。また、100PS対応のHFTユニットでは200時間の連続運転もクリアし、果ては四輪車への搭載も検討していた。だが、高回転・高出力であればあるほど、あるいはエンジンが小さければ小さいほど、HFTに求められる条件は厳しくなる。
 「残念ながらそれらが市販化に結び付かなかったのは、サブミクロンオーダー(0.1μ単位)となる加工や製造のコストの抑制が困難だったためです。量産設計となると、原理証明以上に高いハードルがあって、北米向けATV(四輪バギー全地形走行車)のルビコンに載せるにしても3年くらいかかったと思う」(中島)
 長い試行錯誤の結果、HFTの市販化にこぎつけたのは2000年発売の北米向けATVのTRX500FA フォートラックス・ルビコンと、さらにそこから8年を経た2008年発売のDN-01である。牧場や不整地で使用するルビコンは500cc単気筒、ツアラーモデルのDN-01は680ccV型2気筒と、いずれも出力変動の穏やかな低中速を主体としたエンジン性能で、サイズ的にもHFTに最適だった。

TRX500FA

TRX500FA

DN-01に搭載されたHFT DN-01に搭載されたHFT

 「みんながなんで一生懸命やっていたかといえば、『将来は全部これになるんじゃないか』というくらいの可能性をHFTに感じていたからだと思う。自分は図面を描き、テストでも乗っていたから、良い悪いも分かっていたわけで、とにかくHFTに慣れるとMTのバイクより楽で面白い。みんなこの世界にしたいと思っていた。HFTに乗った者はみんなそんな感情を持っていた。そういった意味では量産に向けたノウハウも獲得できて、やり切った感はある」(中島)
 ちなみにルビコンのネーミングは、ローマ時代の故事に出てくるルビコン川からきている。
 「販売が本当にうまくいくのか不安だが、ここまで来たらルビコン川を渡るしかない、要するに清水の舞台から飛び降りたつもりで上市しようという開発陣の気持ちの表れだった」(中島)
 HRDから困難な開発を続け、足掛け40年にもわたったHFTという技術との格闘を象徴するかのようなエピソードである。最終的にHFTの伝達効率は対MT比で8割まで向上したのだった。

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