第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第6節 中国

第6節 中国

14億*1の人口を擁する隣国、中華人民共和国(以下、中国)は
近くて遠い国だったが、1978年の改革開放路線以降、国際交流が活発化する。
ホンダは、いち早く1981年に現地企業との二輪車技術提携を結ぶと
中国社会への貢献とお客様の喜びの拡大を志して
現地パートナーと力を合わせ、二輪・パワープロダクツ・四輪事業を展開してきた。
やがて中国は、かつての自転車大国・オートバイ大国から、今や世界一の自動車大国となった。
ホンダは、この国の自動車をはじめとする産業と市場の将来を見極め
中国でもお客様に選ばれ続ける企業となることを目指していく。

*1:2021年時点 外務省データより

いち早く改革の波に乗り二輪事業に参入

 1978年末、中国では鄧小平が主導した改革開放路線への転換が打ち出され、長く閉ざされていた市場の門戸が開かれた。翌年の1979年1月には中国から工業視察団がホンダを訪問し、その中の重慶の二輪車メーカー嘉陵機器廠から要請を受け、1981年に技術提携契約を締結した。1982年にはモペッドJH50の生産が始まり、ホンダは他社に先駆けて、中国という巨大市場への参入を果たした。1985年にはエンジン加工設備の大型契約を嘉陵機器廠と結ぶなど、二輪車の現地生産体制が整えられていく。
 ほぼ同時期にホンダは、上海・広州・洛陽の企業とも技術提携を開始した。当時、中国ではオートバイ自体が少なく、発展途上にあった。「ホンダのバイクは精巧で壊れない」と支持を獲得し、たちまち揺るぎない信頼を得た。
 次なる展開として、ホンダは現地での自社生産を目指す。しかし、技術提携によって得た信頼をもってしても、事は簡単に運ばない。当時、中国政府は二輪事業を中国経済発展のための基幹産業と位置付け、外国資本単独での参入を許可していなかった。現地での生産を実現するには、地場メーカーとの合弁でなくてはならず、出資比率は50%を超えてはならないという制約もあった。一方で、合弁にはメリットもあった。それは、地場メーカーとパートナーシップを結ぶことで、中国ビジネスのノウハウを学ぶことができ、現地に根差した取り組みも可能になることである。

嘉陵機器廠との契約調印の様子 嘉陵機器廠との契約調印の様子

 1992年から1993年にかけて、ホンダは、広州・天津・重慶の地場メーカーと相次いで合弁契約を締結し、五羊-本田摩托(広州)有限公司(以下、五羊ホンダ)・天津本田摩托有限公司(以下、天津ホンダ)・嘉陵本田発動機有限公司(以下、嘉陵ホンダ)という3つの二輪車メーカーを設立した。
 五羊ホンダは、最初の生産拠点として、合弁相手である二輪車メーカー広州摩托車公司の工場を活用することとしたが、ホンダの担当者はその工場を見て愕然とする。プレスも溶接も組み立ても、別々の建物でバラバラに行われていたからだ。まずは、建物をコンベアでつなぐことから工場の改造を始めた。
 同様に、オフィスも多くの部屋に分かれ、お互いに何をしているかが見えなかったため、壁を取り外し、オープンな環境にした。中国人には中国人なりの好みもあり、理解を得るのは一苦労だったが、工場もオフィスも、ホンダ流のやり方に変えていくことから始めたのである。未知のホンダの文化を言葉だけで理解してもらうのは難しいため、日本で工場見学を行い、理解を促すこともしばしばだった。
 「各部署のリーダーは何度も熊本製作所や本社、研究所などに行き、生産のやり方や理念を学んでいきました。そして、そこで学んだことをほかの人たちに伝え、議論しながら、3年かけて五羊ホンダの文化をつくっていきました」(元五羊ホンダ董事長 楊大冬)

ホンダとして最初の日中合弁企業となった五羊ホンダ

ホンダとして最初の日中合弁企業となった五羊ホンダ

政策変更とコピー車氾濫で暗黒時代に

 参入当初の苦労を乗り越えた後は、ホンダの合弁企業による二輪事業は、生産も販売も順調に推移した。
 「天津市内にあふれる二輪車が、全て天津ホンダ製の二輪車に替わる日も夢ではなかった」(元天津ホンダ総経理白都勝)
 ところが、1990年代の後半から、急速に売り上げに陰りが見られるようになる。1994年、中国政府の自動車工業産業政策によって四輪車メーカーと同様に、二輪車メーカーも主要企業によるグループ集約の政策が打ち出され、小規模な地場メーカーが生き残りをかけて生産能力を急拡大。極端な低価格製品を次々に発売したためだ。しかも、これらの新興メーカーの製品の多くはホンダのコピー製品だった。
 さらに追い打ちをかけたのが、都市部のナンバープレート規制だ。都市部では、1990年代後半から過密化する交通による交通秩序の混乱や排出ガス・街の美観などへの影響を理由に、二輪車を減らすべくナンバープレートの発給制限を開始したのだ。
 ホンダの二輪車合弁会社では国産化の推進に注力した。コスト・品質・デリバリーのさらなる競争力向上を目指し、同一部品を複数の部品サプライヤーから調達したことで、部品サプライヤーの数も急増していた。しかし、二輪車の需要低迷の影響で、過剰に製造された部品が市場に流通し、それらを組み立てて完成車にしてしまうコピーメーカーまで出現する事態を招いた。
 もちろん、いかにそっくりにしたところで、コピー製品とホンダ車では、品質や性能に雲泥の差があった。しかし、当時の日系合弁企業の二輪車の価格が20万円から30万円なのに対し、コピー製品は7万円から10万円。価格が半額以下なら故障しても仕方ないというユーザー心理も働いた。ホンダの顧客の多くを占める都市部の人々は規制により新たにナンバーが取得できない一方で、農村部などの市場では安いコピー製品が選ばれる。新製品を開発しても、すぐに地場メーカーにコピーされてしまう。
 「投資しても回収の見込みが立たない。まさに暗黒時代です。結局、五羊ホンダは約4年間、投資もせず、新機種の開発もやめてしまいました」(元本田技研工業中国本部 副本部長池ノ谷保男)
 一方、1990年代後半には、乱立するコピーメーカーの中から日系合弁企業に生産台数で匹敵するまでに成長した企業も現れた。こうした地場メーカーが低価格と幅広い製品バリエーションでシェアを拡大した結果、当時、中国は世界最大の二輪車市場に成長するとともに、世界最大の二輪車生産国となった。

コピーメーカーと手を組む逆転の発想

 窮地に陥ったホンダだったが、コピーメーカーを活用するという大胆な戦略で活路を見いだす。まさに逆転の発想である。
 1999年、地場メーカーの海南新大洲摩托車股份有限公司(以下、新大洲)から、ホンダに合弁の申し入れがあった。新大洲は、成長を遂げたコピーメーカーの1社で、CG125などのコピー製品を年間60万台生産し、ホンダの約半額で販売していた。いわば、敵のような存在だ。しかし、ホンダは、自分たちにはない新大洲のビジネス手法に着目した。
 新大洲は、安価な部品をスピーディーに調達することを徹底し、そのための部品調達システムを構築していた。中国全土に張り巡らせた情報網により、モデルごとの販売台数を毎日集計するとともに各メーカーの部品価格情報も収集。部品の購入時は数量や納期を提示して競争入札するなど、安く生産することを徹底したシステムである。こうした部品調達システムに加え、上海と海南の2カ所にある工場や、中国全土に広がる販売網も大いに価値があるものだ。しかも、新大洲が使用する部品の中には、安いだけでなくホンダの基準をクリアする品質を有するものも含まれていた。つまり、基準を満たさない部品をホンダ純正品に替えれば、大幅にコストダウンしつつホンダ車として通用する製品にすることも可能だったのだ。
 また、それまでホンダが中国の二輪事業でパートナーとしてきたのは、国営および市営企業だが、新大洲は民営企業。先見性や柔軟性を持つオーナー社長の決断で迅速に動けるうえ、ホンダの価値観も民営企業なら共有できるだろう。そのような思惑もあった。
 一方、新大洲は、中国がWTOに加盟すると海外企業との競争が激化し、単なるコピーメーカーでは生き残れる保証はなく、国際的な競争力を持つ企業になるために、ホンダと手を組むのが得策だと考えていた。

民営企業との合弁でスピード感ある経営を目指した新大洲ホンダ

民営企業との合弁でスピード感ある経営を目指した新大洲ホンダ

現地で研究開発から生産まで可能な体制を

 こうして、2000年、新大洲、天津摩托集団有限公司、ホンダの三者が合弁契約を締結した。天津ホンダと新大洲の二輪事業部門が手を結び、二輪車の製造・販売を行う新合弁会社の新大洲本田摩托有限公司(以下、新大洲ホンダ)が設立される運びとなった。
 ホンダ車のラインアップは、先進的で高品質な中・高級車として高い評価を得ていた。高いエンジン製造技術を持ち、中高価格帯の商品を製造・販売する天津ホンダと、優れた市場分析力と販売力・調達力を武器に中低価格帯の商品を数多く展開する新大洲とが、新会社設立により融合し、さらに幅広いニーズに応える体制を構築したのである。
 さらに、2002年、二輪車研究所の本田摩托車研究開発有限公司(以下、HRCh)を上海に設立した。中国での外資100%の研究所は、日本の二輪車メーカー初となる。2003年に稼働を開始し、2004年には同研究所が関わる初めてのモデルとなる125ccスクーター・e-彩が、新大洲ホンダから発売された。e-彩の特徴的なスポーティーな外観デザインは、HRChが担当し、新大洲ホンダとともにユーザー調査を行って現地ニーズを反映させたものだ。また、中国の排出ガス規制に対応し、環境性能にも優れていた。
 他社に先駆けて、現地における研究開発から生産まで迅速で高効率な体制を構築することで、市場の変化に速やかに対応し、現地のニーズに合う製品の提供が可能になったのである。

日本の二輪車メーカー初となる中国での二輪車研究所HRCh

日本の二輪車メーカー初となる中国での二輪車研究所HRCh

現地ニーズを反映させた125ccスクーター・e-彩

現地ニーズを反映させた125ccスクーター・e-彩

良いものを、より安く生産し、グローバル拠点に成長

BeAT 日本で研究・開発
中国にて徹底した品質管理のもと生産されたトゥデイ

 2000年、当時ホンダの社長だった吉野浩行が、世界戦略「Made By Global Honda」を打ち出した。インドや中国などコスト競争力のある海外生産拠点を稼働させ、それまで構築してきたホンダのグローバルネットワークにより、世界規模での最適な調達と生産を行うというものだ。
 中国で生産した二輪車はコスト競争力を生かし、アフリカや中南米・中近東などへも輸出するまでになっていたが、さらに吉野は、10万円以下の日本向け新モデルを中国で生産し、日本へ輸出することを宣言した。日本国内では50ccの原付一種の売り上げが減少していたが、原付免許取得数からすると潜在的な需要が見込まれ、市場調査により、原付一種の低価格志向が強まっていることも分かった。こうしたニーズに応えたのが、2002年に初めて中国から日本に輸入されたスクーター・トゥデイである。
 トゥデイの研究・開発は日本で行われたが、部品調達や生産の拠点は中国に置かれた。日本からホンダの各部門のエキスパートが中国へ向かい、新大洲のスタッフとチームを組んだ。品質・性能を徹底追求しながらも、10万円以下の価格を実現することが至上命令だ。新大洲には、部品サプライヤー200社以上から、品質・コスト・デリバリーが最も優れた部品サプライヤーを選定してもらい、北は大連から南は海南島まで、プロジェクトメンバーが足を運んだ。初めは、ホンダの基準に合わない部品が多かったが、改善事項を粘り強くリクエストしながら、ホンダの求める基準を満たす部品を作ることができるサプライヤーを絞り込んでいった。
 2001年12月、開発は完了し、新会社の新大洲ホンダでの生産段階へと移行した。新会社設立に伴い、ホンダの熊本製作所から人員が派遣され、仕事の進め方やホンダ流の生産方式などの指導が実施された。ホンダレベルの品質の考え方や、そのために必要な作業標準を導入し、効率的な作業環境への改善を行うとともに、厳しい品質保証体制がとられた。その後、量産段取りの確認を経て、ホンダの全面的なバックアップを受けてトゥデイの生産がスタートした。
 こうして誕生したトゥデイの価格は9万4,800円。2002年8月に日本で発売すると順調に売れ行きを伸ばし、2003年6月には日本向けの輸出累計台数が10万台を突破した。
 この経験を生かし、続々と中国から日本への完成車輸出が始まった。五羊ホンダが2003年にスペイシー100を、新大洲ホンダは2003年にディオ、2004年にディオ・チェスタといったスクーターの生産を開始し、日本に輸出した。

新大洲ホンダのトゥデイ生産ライン

新大洲ホンダのトゥデイ生産ライン

トゥデイに続く中国からの輸入車第2弾となるスペイシー100

トゥデイに続く中国からの輸入車第2弾となるスペイシー100

 さらに、2012年にはスーパーカブ110・スーパーカブ50を相次いでフルモデルチェンジし、新大洲ホンダで生産・輸出を開始した。1958年からのロングセラーであるスーパーカブ50だが、初めてフレーム構造まで一新するフルモデルチェンジである。中国での生産を決断した背景には、広く一般のユーザーに購入してほしいというホンダの想いがあった。調達から生産まで効率化を図った結果、日本での消費税込みの販売価格は、従来モデルと比べ、スーパーカブ110で2万1,000円、スーパーカブ50で4万8,300円安く設定することができた。
 中国における二輪事業は、ホンダのグローバルネットワークの一翼を担う生産拠点へと進化を遂げたのである。

中国の新大洲ホンダで生産し、日本へ輸出されたスーパーカブ110

中国の新大洲ホンダで生産し、日本へ輸出されたスーパーカブ110

新たな日常の足、電動二輪車

 ナンバープレート規制により都市部で禁止された二輪車に代わり、中国で手軽な移動手段として普及したのが電動二輪車だ。価格が安く運転免許も不要なうえ、自転車レーンが整備されているため走行しやすいとあって、爆発的にユーザーが増加した。
 2011年、ホンダはEB*2・酷士(クゥシィ)の生産・販売を開始した。最高時速20km/h、1回の充電での最大航続距離は40km。価格は2,700元と、当時の日本円にして3万円台だった。酷士は、2,000名以上を対象にした市場調査で日常生活における自転車の使われ方を徹底的にリサーチし、わずか8カ月で現地開発された。中国ですでに流通している部品を使いながら部分的な仕様追加や設計変更を施すことで、お求めやすい価格とホンダ製品として譲れない安全性を両立させ、現地ニーズに合う製品として投入された。
 その後も、中国での電動二輪車の需要は右肩上がり。2020年代に入ると、市場規模は年間3億台規模にまで成長した。2021年、五羊ホンダは、いずれも現地開発によるスクータータイプのU-GOとU-beの2機種を発売した。
 U-GOは、モーター出力が異なる2タイプを展開し、1.2kWタイプは7,999元(2021年当時の為替レートで約14万5,000円)、800Wタイプが7,499元(同レートで約13万5,900円)と、中国市場でも十分競争力のある価格設定で、メットイン機能・USB充電ポート・フロントフック&フロントボックスなど実用的な装備が盛り込まれた。
 U-beは、1人乗り仕様で、重量はわずか54kg。低いシート高や短いホイールベースなど、扱いやすさを重視した。価格は、最廉価モデルでは3,099元(2021年当時の為替レートで約5万6,000円)と、限りなくシンプルな構成とすることでお求めやすい価格を実現した。
 ホンダと無印良品のコラボレーションとして話題を呼んだのが、2022年に新大洲ホンダが発売したEB・素-MS01である。無印良品を中心とした専門店事業の運営を行う(株)良品計画とホンダの共同開発モデルで、車両デザインは無印良品(上海)商業有限公司のデザインチームが、開発と製造・販売は新大洲ホンダが担当した。無印良品らしいモノトーンの洗練されたデザインにホンダの技術力が結集。中国市場向けとしては高価格な4,980元(2022年当時の為替レートで約10万円)で、5,000台のみ、中国国内で限定販売された。

  • :ホンダでは電動二輪車を最高時速で、EB(電動自転車:Electric Bicycle、~25km/h以下)、EM(電動モペッド:Electric Moped、26~50km/h)、EV(電動車:Electric Vehicle、51km/h~)の3つに分類している
中国で手軽な移動手段として普及した電動二輪車五羊ホンダはU-GO・U-beの2機種を現地開発・販売した

中国で手軽な移動手段として普及した電動二輪車五羊ホンダはU-GO・U-beの2機種を現地開発・販売した