1985 Honda NSR500 [NV0B]
GP500ワークスロードレーサー

500ccと250ccのダブルタイトル獲得という偉業で完結

オーストリアGPの500ccクラス決勝のトップ争い。手前から、スペンサー、ローソン、サロン、マモラ。このレースは降雨のために中断が入り、2ヒート制になったが、合算タイムが最短だったスペンサーが勝利した。(Photo/Shigeo Kibiki)

第2戦以降、スペンサー+NV0Bは連勝街道を突き進んだ。スペインGPからの10戦のうち7戦で優勝を飾るという圧倒的な強さだった。それも、セッティングの範疇を出ない改良だけで各レースに対応し、勝ち続けた。

強いて挙げるなら、エンジン回転の上がり方をあえて鈍くしてトラクションをつかみやすくするためのマスアップ仕様のクランクシャフトをシーズン序盤のうちに投入したのは、比較的大きなことだった。そしてNV0Bは、メカニカルトラブルによるリタイアは一度も出さずにシーズンを戦い抜き、狙いどおりにチャンピオン奪還を果たした。

スペンサーと、彼のクルーチーフを務めたアーブ・カネモト。日系アメリカ人のカネモトは、豊富な経験と飽くなき向上心の持ち主で、ホンダで活躍した時代のスペンサーを支え続けた。(Photo/Shigeo Kibiki)

3つのレースで勝てなかった原因も、ライダーやマシンにはなかった。西ドイツGPでは、ウェットレースとなった中で装着したリアタイヤが柔らかすぎ、過剰に摩耗してグリップを得られなくなり2位に。ユーゴスラビアGPでは、コーナーの内側に置かれていたストローバリア(※麦わらで作られた防護材)に時速200kmオーバーで膝を打ち付け、レースを諦めてもおかしくない身体状態になりながらも2位。ダッチTTはシーズン唯一のリタイアを喫したが、それは他のライダーの転倒に巻き込まれたためだった。

1985年のスペンサーといえば、500ccクラスだけでなく、250ccクラスにも挑んでチャンピオンに輝いたことが多くの人々の記憶に残されている。RS250RW(NV1A)を駆り、10戦に出場して7戦で勝利。ひとつのグランプリ大会で500ccと250ccの両クラスを制することを4回も実現。そして、その先にまだ2レースを残した第10戦イギリスGPで250ccクラスのタイトルを決めてみせたのだった。

1985年のスペンサーは、世界グランプリ全12戦のうち10戦で500ccと250ccの2クラスに出場した。つまり、250の走行が終わると、休憩もそこそこに今度は500で走る、ということを連日繰り返した。ケニー・ロバーツが果たせなかった2クラス制覇の実現に闘志を燃やし、NV1Aのずば抜けた高性能にも後押しされ、見事に目標を達成した。(Photo/Shigeo Kibiki)

続く第11戦スウェーデンGPは、500ccクラスの番だった。スペンサー+NV0Bはシーズン10回目のポールポジションをさらうと、決勝では独走。最終ラップの最終コーナーを立ち上がると、前輪を高々と上げてフィニッシュラインをまたいだ。その瞬間、500ccクラスと250ccクラスのダブルタイトル獲得という歴史作りが完結した。

その後、スペンサーほどのトップライダーが世界グランプリロードレースでふたつのクラスにシリーズ参戦した例はない。それだけ大変なことをやってのけたスペンサーは、モータースポーツの歴史に永遠に名を残す人物となった。そして、アメリカはルイジアナ州シュリーブポート出身のこのライダーが語られる際には必ずといっていいほど、NV0BとNV1Aによって達成された1985年の偉業が思い起こされることにもなった。

当時の世界グランプリでは、シーズン終盤に行われるスウェーデンGPでタイトルが決まることが多かった。そして、実際にそこで決めた場合は、開催地であるアンダーストープ・レースウェイの敷地内にあるプールに飛び込んで祝うのが恒例。スペンサーも500ccクラス2度目の世界チャンピオンの座をこの北欧のサーキットで決め、プールへのダイブを味わった。(Photo/Shigeo Kibiki)

貴重な経験の場となった現場テクニカルサポート業務

ワークスマシンの開発に携わっている技術者のレース現場への派遣を、ホンダは世界グランプリロードレースへの参戦開始当初からずっと行っている。そしてNV0Bを投入した1985年には「テクニカルサポート」という名称を新たに与え、業務として明確なものとした。実戦におけるワークスマシンの運用の実情を把握し、現場からの要望を吸い上げることが主な役割のものだ。

1985年の世界グランプリでテクニカルサポートの業務にあたったのは宮島義一と山本 馨。ともにHRC入社時からGPロードレーサーの車体設計に携わってきた技術者である。宮島が社歴5年目、山本が4年目で、ともに20代半ば。自分たちが作るバイクが実際に使われているグランプリレース現場のなんたるかを、彼ら若手設計者に身をもって学ばせよう、というのが、テクニカルサポートの業務化初年度にHRCが彼らを起用した狙いにあったものと思われる。
「シーズン前半戦は宮島さんが、そして後半戦を私が担当しました」と山本は振り返る。「自分たちが図面を描いたマシンを、フレディがものすごい速さで走らせるのを目の当たりにし、レースで何が起こっているのか、どういう理由で何が問題になるのかを、実感を持って理解していきました。仕事ですから楽なことはありませんけど、何しろフレディの速さは圧倒的だったし、マシンはNV0BもNV1Aもそんなに問題を出さなかったので、思っていたよりは余裕がありました。ヨーロッパとか世界グランプリのレース現場とか、慣れないことばかりでしたけど、本当にいい経験になりましたし、大変だったけど楽しかったです」

翌1986年になるとHRCは、「SWS(Special Works Support)」と呼んだ、ワークスマシンを有力な独立系レーシングチームに有償貸与して走らせる活動を開始。それを支える機能も、テクニカルサポートの業務は果たしていくことになる。

1985年イタリアGPでの一枚。左から、HRC車体設計者の宮島義一、サスペンションサプライヤーであるショーワの技術者の蓑和栄一、そしてスペンサーのクルーチーフであったアーブ・カネモト。のちに宮島は、1987年モデルから1991年モデルまでのNSR500の車体設計リーダーを務めた。(Photo/Jiro Ishida)

1985年のスウェーデンGPで、スペンサーのダブルタイトル獲得が決まってホッとひと息ついていたところのHRCスタッフたち。左から、HRCの現場エンジニア部隊のリーダー役であった羽田一郎、ショーワの蓑和栄一、車体設計者の山本 馨、NSR500を担当したメカニックの清田幸春、そしてチャンピオン決定戦の現場で緊急の部品作りなどが求められる有事に備えて出張してきたHRC試作課の中野英雄。のちに山本は、1992年モデルから1995年モデルまでのNSR500の車体設計リーダーを務めた。(Photo/Jiro Ishida)