ワークスマシンの開発に携わっている技術者のレース現場への派遣を、ホンダは世界グランプリロードレースへの参戦開始当初からずっと行っている。そしてNV0Bを投入した1985年には「テクニカルサポート」という名称を新たに与え、業務として明確なものとした。実戦におけるワークスマシンの運用の実情を把握し、現場からの要望を吸い上げることが主な役割のものだ。
1985年の世界グランプリでテクニカルサポートの業務にあたったのは宮島義一と山本 馨。ともにHRC入社時からGPロードレーサーの車体設計に携わってきた技術者である。宮島が社歴5年目、山本が4年目で、ともに20代半ば。自分たちが作るバイクが実際に使われているグランプリレース現場のなんたるかを、彼ら若手設計者に身をもって学ばせよう、というのが、テクニカルサポートの業務化初年度にHRCが彼らを起用した狙いにあったものと思われる。
「シーズン前半戦は宮島さんが、そして後半戦を私が担当しました」と山本は振り返る。「自分たちが図面を描いたマシンを、フレディがものすごい速さで走らせるのを目の当たりにし、レースで何が起こっているのか、どういう理由で何が問題になるのかを、実感を持って理解していきました。仕事ですから楽なことはありませんけど、何しろフレディの速さは圧倒的だったし、マシンはNV0BもNV1Aもそんなに問題を出さなかったので、思っていたよりは余裕がありました。ヨーロッパとか世界グランプリのレース現場とか、慣れないことばかりでしたけど、本当にいい経験になりましたし、大変だったけど楽しかったです」
翌1986年になるとHRCは、「SWS(Special Works Support)」と呼んだ、ワークスマシンを有力な独立系レーシングチームに有償貸与して走らせる活動を開始。それを支える機能も、テクニカルサポートの業務は果たしていくことになる。