1985 Honda NSR500 [NV0B]
GP500ワークスロードレーサー

本田宗一郎の『天覧試合』を制し、タイトル奪還へばく進

1985年の世界グランプリ開幕戦南アフリカGPの500ccクラス決勝のスタート。写真右端から、ポールポジションのスペンサー、予選2位のエディ・ローソン(ヤマハ・チーム・アゴスチーニ)、同3位のクリスチャン・サロン(ソノート・ヤマハ)、同4位のロン・ハスラム(ホンダ・ブリテン)、同5位のワイン・ガードナー(ホンダ・ブリテン)。ハスラムとガードナーのマシンはNS500。世界グランプリでは翌1986年まで、スタートは押し掛けで行われていた。(Photo/Jiro Ishida)

デイトナを戦ったNV0Bは、南アフリカへ送られた。他方、日本からは、使用する鉄板の厚さを上げた対策型チャンバーなどのパーツが、HRCスタッフたちの手荷物として持ち込まれた。そして迎えた1985年の世界グランプリ開幕戦である南アフリカGPは、ホンダワークスがロスマンズ(英国のタバコブランド。1985~1993年の世界グランプリにおけるチームHRCのメインスポンサー)のカラーリングに彩られた最初のGPレースでもあった。その予選で、スペンサー+NV0Bはポールポジションを獲得。決勝でもスタートから首位を走った。だが、8周目にヤマハのエディ・ローソンにかわされ、抜き返せず2位に終わった。

勝てなかった理由は、レースの途中からチャタリング(※フロントタイヤが細かく跳ね、ステアリングが振られる現象)に見舞われたことだ。フロントが安定していることによって自在なライディングを実現させていたスペンサーにとっては、死活問題だった。構造もコンパウンドも硬めのタイヤを使うデイトナでは顕在化しなかったのだが、世界グランプリに来ると初戦で出てしまった。

南アフリカGP決勝で首位争いを演じるスペンサー+ホンダNSR500とローソン+ヤマハYZR500。デイトナで勝ったNSRだが、世界グランプリへ舞台を移した途端に土をつけられた。HRCは、ライバルも強力にマシンを進化させており、まったく気を抜けないことを痛感させられた。(Photo/Shigeo Kibiki)

チャタリングを抑制するためには、NV0Bのフロント荷重を上げてやらなければならなかった。その手段としてHRCがこのとき採ったのは、フレームのステアリングヘッドパイプの位置を10mmほど、車体中央寄りに移設すること。NV0Bのフレームからヘッドパイプを外し、そのホルダー部をえぐって穴を広げ、狙った位置にヘッドパイプを置き直したところを溶接で固めた。そして、16mm、つまりチェーン1コマ分を長くしたスイングアームを製作して組み合わせた。これにより、ホイールベースは変えずに、エンジンの位置とライダーの乗車位置を相対的に前寄りにして、フロント荷重を増やした。

対策を講じたNV0Bを、HRCはユーゴスラビアのリエカに持ち込み、スペンサーによるテストを実施。相応の効果を確認して、これを第2戦スペインGP以降の標準仕様とした。

そのスペインGPには、本田宗一郎がやって来た。彼は、日頃から何かにつけHRCに顔を出し、二輪のレース活動を気にかけていた。しかし予選では、スペンサー+NV0Bが0.03秒というわずかな差ながらも2位となってしまった。

本田宗一郎の登場により、スペインGPにおけるホンダのピットは否応なく緊張感に満ちたものとなった。宗一郎に説明を行っている人物(写真中央)は、当時のHRCで車両開発やレース活動の統括責任者を務めていた福井威夫。(Photo/Shigeo Kibiki)

「リードバルブなんか抵抗になるから外せ! パワーを出して勝て!」と宗一郎は怒鳴った。それは彼一流の叱咤激励であったに違いないが、チームHRCにのしかかるプレッシャーは否が応でも高まった。すると、決勝日の朝のウォームアップセッションでスペンサーが転倒。チームの緊張感はピークに達することとなった。

ヘッドパイプの位置を変えた改修仕様のフレームは、このときは転倒した車両のものしかなく、HRCは突貫で修理に当たった。また、スペンサーも親指の骨にヒビを入れていた。しかし、決勝に彼は強行出場し、宗一郎が見守る前で独走優勝を飾ってみせたのだった。

本田宗一郎がやって来たスペインGP。ホンダにとっては『天覧試合』のようになったこの一戦で、スペンサーは怪我を負っていながら2位を13秒以上も引き離して優勝をもぎ取った。(Photo/Shigeo Kibiki)