“こっちは何年苦労してきたと思ってんだ”
という気持ちは多少あった
勝つために最優先で開発するマシンを4ストロークのNRから2ストロークのNSにスイッチすることを決めたのは、当時のホンダの二輪車開発の総責任者だった入交昭一郎であった。NRの長円形ピストンエンジンコンセプトの発案者でもあった入交に対して、彼のもとでNRプロジェクトを切り盛りしてきた福井は、抗議した。
「当時はまだNRの性能を全部出したと思ってなくて、やり切ってない点がいっぱいあって、それらを潰していけば十分戦えるという信念でやっていたからね。それは2ストロークでもできるんだろうけど、4ストロークでやった方がいいじゃないか、(ここで2ストロークに切り替えると)ややこしいことになるんじゃないか、ということでね。
ただ、そのときには我々も、実戦に2ストロークがいかに合っているか、ということは肌身を持って分かっているわけですよ。レースの現場で我々が4ストロークで大騒ぎになって苦労しているところで、2ストの連中はシリンダーヘッドをペロって開けてチェックして、後はもう暇そうにしてるんだよね。それでも、NRもずいぶん実戦的な形になってきて、3年目、4年目がいよいよ勝負だ、っていうところに、NSが来ちゃったんだよ(笑)。NRで培ってきた良いところを、全部NSに持っていかれた(笑)。だから、“こっちは何年苦労してきたと思ってんだ!?”という気持ちは多少あったよね。でも、もう負けは認められないし、どっちで勝ったっていいじゃないか、ということで、スッと気持ちを切り替えたんだけどね。
それに、当時はHY戦争をやってたでしょう。ホンダはヤマハに押されていたわけだよね。その真っ盛りのときだった。その中で、ホンダの当時の経営上層部、私よりもっと上の人たちが危機感を持った、っていうこともあるんだろうね」
'83年は、開幕戦から最終戦までの間に
10馬力ぐらいは上げた
2ストロークV型3気筒エンジンを搭載したNS500は、1982年の開幕戦から世界グランプリに投入された。そして2年目の1983年には、NSを駆るフレディ・スペンサーが、ヤマハYZR500を操るケニー・ロバーツと、シーズンを通じての歴史的な死闘を繰り広げた。
「'83年の私は、グランプリの現場には行ってない。こっち(日本)で大変だったから。必死で毎レースの情報を集めて、次のレースをどうするのか、このパーツをどうするか、とかは全部こっちで決めていたわけだから。レースの現場は楽だよ。戦っているだけなんだから(笑)。
シーズン序盤は有利に戦いを進めたけど、途中からケニーのヤマハにどんどん追い上げられた。原因はハッキリしていて、もう馬力。ウチは3気筒で、相手は4気筒。ストレートで詰められちゃう。それで、何とかしなきゃいかんということで、日本側の我々も必死になってやってたんだよ。だから、外観はあんまり変わらないかもしれないけど、最高速なんて相当上げたよ。'83年の、特に後半は。馬力も上げたしね。それも、デバイスとかじゃなくて、職人がポートをタップでバーっとやって、チャンバーの形状を考えて、組み合わせを試して、ということで。モトクロスをやっていたおかげで、すごい職人が何人もいたんだよ。そういった努力で、開幕戦から最終戦までの間に10馬力ぐらいは上げたんじゃないかな。
ただ、加速性能や最高速の実用計算値を出してみても、やっぱり4気筒にはかなわないわけだよ。2ストロークで一番問題になる焼き付きに対しても、シリンダーのボアの小さい4気筒の方が有利だし。そこで、'84年からは4気筒のNSRを走らせた。最初は3気筒で良かったのかもしれしれないけど、やっぱり本来4気筒なんだよね。レギュレーションで目一杯の気筒数で、排気量も限界っていうのがね。だから、いいところで判断したんじゃないかな」