Honda NS500
1982-83 GP500ワークスロードレーサー

インタビュー/福井威夫

NS500ラージプロジェクトリーダー/
本田技研工業 第6代社長

text=KIYOKAZU IMAI

「もう負けは、許されなかった」

技術者として、リーダーとしてのNS500プロジェクト

2009年9月に行ったインタビューの際の福井威夫。当人の直筆サインが入ったフレディ・スペンサーのレプリカヘルメットの私蔵品を、わざわざ持参してくれた。 (Photo/Takeshi Nagashima)

1982年9月、ホンダは二輪のモータースポーツ業務を遂行する子会社であるホンダ・レーシング(HRC)を設立したが、それより半年前の1982年3月に、2ストロークエンジン搭載のGP500レーサーであるNS500をデビューさせ、ロードレース世界選手権の最高峰500ccクラスを戦い始めていた。

NS500の開発とレース活動を取り仕切るラージプロジェクトリーダー(LPL)の役を担ったのは、当時は本田技術研究所の主任研究員であった福井威夫だった。2003年6月から2009年6月まで、本田技研工業の代表取締役社長を務めた福井は、1979年8月にホンダが世界グランプリロードレースに復帰した際に投入した4ストロークエンジン車のNR500においてもLPLを務めていた。

長円形のシリンダー/ピストンを持ち、各気筒に計8本の吸気/排気バルブを備える、革新的な4ストロークエンジンを搭載したNR500だが、そのデビュー当初の走りっぷりは、技術的な未熟さをさらけ出すものだった。開発チームには、2年や3年をかければ、2ストローク勢と互角以上の性能を実現してみせる、という心意気と手応えがあったが、レース活動を司るマネージメント側、そしてホンダ全体としては、そんな時間的な余裕を持てなかった。そこでホンダは、実戦を通算でまだ8回しか戦っていない段階でNR500に見切りをつけ、勝利を手っ取り早く実現させるための2ストロークエンジン車を開発した。それがNS500であった。

NR500の担当技術者たちの中には、福井に向かって「何でここでNRを諦めるんですか? 竹ずっぽ(竹筒)のツー(2ストローク)なんか、嫌だ!」と訴えてくる者が何人もいた。だが、プロジェクトの立ち上がり時からNRに心血を注いできた福井こそ、NRからNSへのスイッチに悔しい思いを誰よりも強く抱いた人間であった。

2009年6月、福井はホンダの社長という大役を6年にわたって務め上げたすえに退任した。それから3カ月が経った2009年9月、肩の荷を降ろして柔和な表情を取り戻していた福井に、二輪レースの頂点を目指して奮闘した日々のことを語ってもらった。

あれだけ負け続けるっていうのは
現場の人間は、もう耐えられない

NR500のデビュー2戦目であった1979年フランスGPでのホンダの整備テント内の様子。初代モデルのNR500は、走らせるだけでも恐ろしく大変なマシンだった。 (Photo/Shigeo Kibiki)

福井には、NR500に一旦見切りをつけ、2ストロークのNS500の開発に向かったときのことから話を始めてもらった。
「NRを出したのが'79年だよね。だけど、それからずっと、ほとんどノーリザルトだったわけだよね。'80年も'81年も、ノーポイント。4ストロークの特別なエンジンだったから、ということももちろんあるけど、車体、サスペンション、ブレーキと、いろんなものが勝ちにいくレベルに達していなかった、というのが本当のところだった。それらをエンジンと一緒に、どんどん進化させていったわけですよ。必死になってやっていったんだけれども、結果が出ない。あれだけ負け続けるっていうのはね、現場の人間は、もう耐えられないね。精神的に。NRでもいつかは勝てるかもしれないけど、時間もかかるし相当大変だぞっていうのは、みんな認識していたわけだね。

そういう状態のところへ、当時のホンダのモトクロス部隊のリーダーで、私の上司だった宮腰さん(宮腰信一。元本田技術研究所主任研究員。)が、2ストロークの3気筒というコンセプトを立てて、これでやろうということに大筋ではなったわけですよ。ただ、すぐには踏み切れなかったんだ。それで、あのとき吉野さん(吉野浩行。5代目本田技研工業社長。1981年当時は本田技術研究所朝霞研究所所長)が絶妙の采配をしてくれて、NR部隊の中でNSを開発することになったんです。もし、NR部隊とは別にNSの2ストローク部隊を作っていたら、多分うまく行かなかったと思いますね。それで、NRは私がLPLをやっていたもんだから、『NSもお前のところでやれ』ということで、2本立てになったんですよ。NRを転がしながらNSを開発する、というね」