Honda NS500
1982-83 GP500ワークスロードレーサー

速さを見せるも、失点も多かった1年目
スペンサーがランキング3位に

NS500にとって6度目のグランプリレースであったベルギーGPで、スペンサーは独走。2位に入ったヤマハYZR500のバリー・シーンに3.8秒差をつけて、待望の勝利をつかんだ。奇しくもその日は、スペンサーの母国アメリカの独立記念日(7月4日)であった。 (Photo/Shigeo Kibiki)

1982年の世界グランプリを、ブランニューマシンであったNS500で戦ったホンダのワークスライダーは、前年の500cc世界チャンピオンであるマルコ・ルッキネリ、過去3年にわたってNR500で奮闘してきた片山敬済、前年にNRで印象的なパフォーマンスを見せていたフレディ・スペンサーの3名。そして、天才ライダーとしての呼び声が高かったスペンサーが、開幕戦アルゼンチンGPからトップ争いを演じる速さを見せたが、シーズン前半はエンジンの焼き付きなどのトラブルに勝機を阻まれることが繰り返された。しかし、その間に日本ではさらなる開発が進められ、第6戦ダッチTTでは、オールアルミ製フレームのNS2A-ALがデビュー。同時に、カーボン(CFRP)製スイングアームも投入され、一段と軽量なマシンとなった。そして、第7戦ベルギーGPでは、ニカジルメッキシリンダーの導入によって、従来の25:1から30:1に希薄化できた混合比の燃料を、初めて実戦で使用。パワーアップしたNS500を駆り、スペンサーがキャリア初優勝を飾った。それは、ホンダがグランプリに復帰してから初めてつかんだ勝利であった。

その1カ月後に行われた第10戦スウェーデンGPでは、今度は片山が優勝。続くサンマリノGPでは、スペンサーがシーズン2勝目をマークした。1982年に500ccクラスのグランプリレースは12戦が行われたが、1年目のNS500勢は3勝を記録。シリーズの最上位はスペンサーのランキング3位で、チャンピオンに輝いたスズキRGΓのフランコ・ウンチーニとのポイント差は31点。優勝2回分の獲得ポイントに相当する差であった。

ヤマハのケニー・ロバーツとの激闘を制し
スペンサーが史上最年少チャンピオンに

1983年スウェーデンGPにおいて、余人の追従を許さぬ領域での優勝争いを繰り広げた#3 スペンサーと#4 ロバーツ。この勝負を制したスペンサーが、次戦であったシリーズ最終戦サンマリノGPで、ついに世界王者となった。 (Photo/Shigeo Kibiki)

明くる1983年、NS500は新たにATAC機構を得てパワーバンドを広げ、戦闘力を大きく伸ばしていた。そしてホンダは、前年の3名にロン・ハスラムを加えた4名をワークスライダーとして起用し、世界グランプリにフル参戦させた。

中でも、傑出した速さを見せたのがスペンサーであった。当時21歳であったこのアメリカ人ライダーとNS500のコンビネーションは、全12戦のシーズンの前半7戦のうち5戦で優勝を飾る速さと強さを見せ、ポイントランキング首位を突っ走った。もっとも、ホンダにとって最大のライバルであったヤマハもやがて反撃に転じ、性能を上げてきたYZR500を操るケニー・ロバーツが、第8戦ダッチTTから3戦連続でスペンサーを下して優勝をさらった。

そして、最終戦のひとつ手前のレースであった第11戦スウェーデンGPが、この1983年のタイトルの行方を決める天王山となった。スペンサーとロバーツは、彼らを隔てるポイント差がわずか2点にまで縮まった状態で迎えたこのレースで、後世に語り継がれる優勝争いを繰り広げた。それは、バックストレートの後の右90度コーナーでインに飛び込んだスペンサーがロバーツを押し出す格好になったことで決着。スペンサーはシーズン6勝目を挙げ、リードを5点に再拡大した。そして迎えた最終戦サンマリノGPでのスペンサーは、ここで同じくシーズン6勝目を飾ったロバーツに続く2位でフィニッシュし、当時の史上最年少記録で最高峰クラスの世界チャンピオンに。彼が駆ったNS500は、ホンダにトップカテゴリーでは初めてのライダーズタイトルをもたらしたマシンとなった。

主力機でなくなった後も勝利を重ねたNS500
市販レーサーRS500Rの母体にも

NS500の軽快なハンドリングを好んだスペンサーは、ホンダの主力機がV型4気筒エンジン搭載のNSR500に切り替わった後の1984年のシーズン中も、しばしばNSで予選や決勝レースに出場。写真の西ドイツGPでは、V4エンジン車のヤマハYZR500で2位に入ったエディ・ローソンに16秒近くの大差を築いて圧勝を飾った。 (Photo/Shigeo Kibiki)

NS500によってグランプリ最高峰クラス制覇を成し遂げた翌年の1984年、ホンダは、V型4気筒エンジンを搭載したNSR500をデビューさせ、チャンピオンライダーであるスペンサーのみにこのニューマシンを与えた。しかし、エンジンの下に燃料タンクを配置した挑戦的な車体レイアウトが呼んだ弊害や、新開発のV4エンジンがトラクションをつかみにくい出力特性であったことなどから、性能を十分に発揮させられないことが多々あった。そして、第5戦西ドイツGPでは、NSを再び用意して走らせる事態に。ここで久しぶりに3気筒車に乗ったスペンサーは、まさに水を得た魚のごとく走り、圧勝を飾った。また、第9戦ベルギーGPでも、スペンサーはNSRではなくNSを選択し、快勝。最終戦サンマリノGPでは、やはりワークス仕様のNSに乗っていたランディ・マモラが優勝をさらい、翌1985年のダッチTTにおいても、マモラがNSで勝利を手に。ワークスマシンの主力機ではなくなった後も、NS500はグランプリで勝てる競争力を発揮し続けたのだった。

また、このV3エンジン搭載車は、ホンダ初の市販GP500ロードレーサーの母体となった、という点でも重要な存在である。1983年1月にHRCが発売した「RS500R」は、エンジンや車体の基本設計はワークスマシンであるNS500と同じという成り立ちの市販レーサーで、3気筒ならではの部品点数の少なさや扱いやすさから、500ccクラスに挑んだ世界中のプライベーターに支持された。RS500Rは、設立から間もなかったときのHRCが、自社の存在意義を示した商品であった。それは、NS500の企画段階から、市販レーサー版も構想されていたことによって成立した。ホンダとHRCの今日に連なるロードレース活動の礎が築かれるにあたり、NS500が果たした役割は非常に大きなものがあったのである。

1980年代前半は、世界グランプリのトップカテゴリーであっても、出場者の約3分の2はプライベーターであった時代。そうしたところへ、1983年にHRCが送り出した市販GP500レーサーの「RS500R」は、非常に高い支持を獲得した。写真は、1983年シーズンをRS500Rで戦ったジャック・ミドルブルグ。 (Photo/Shigeo Kibiki)