第3期2000年~2008年
1992年の撤退から8年の時を経て、2000年にHondaはF1へ復帰。B・A・R(British American Racing)へのエンジン供給および車体の共同開発という新たなスタイルだった。2004年にはコンストラクターズランキング2位を獲得、そして2006年にはHonda単独のHonda Racing F1 Teamとして参戦。第13戦ハンガリーグランプリで悲願の復帰後初優勝を果たした。
直前に中止されたフルワークス参戦
第2期のホンダは、エンジンサプライヤーとして大成功を収めた。「次はエンジンだけでなく、車体にも挑戦したい」。そんな欲求がエンジニアの間で生まれるのは、ごく自然のことだった。
こうして1998年には、当時、社長だった川本信彦から「車体製造も含めたフルワークス参戦」が明言され、英国に前線基地となるホンダ・レーシング・ディベロップメント(以下、HRD)も設立された。
1999年の冬にはイタリア・ダラーラ社製造の車体に無限ホンダV10を積んだRA099が完成。F1ドライバーのヨス・フェルスタッペン*1によるテスト走行が重ねられ、好タイムを記録。第3期への期待は、いやが上にも高まっていった。
「しかし社内には、『車体までやられたら、ホンダの屋台骨がおかしくなる』と反対する声も多かった」と、2000年からHRD初代社長を務めた田中詔一は述懐する。「いわゆる文系と理系、営業系と研究所系の確執があったということです」
その結果、ホンダは直前の1999年5月になって、「オールホンダ」での参戦を断念。発足したばかりのブリティッシュ・アメリカン・レーシング(以下、BAR)という新興チームと、エンジン供給に加え車体の共同開発という新たなパートナーシップを組むと決断を下した。純粋な戦闘力の高さだけでいえば、既存の中堅チームで無限ホンダ・エンジンを搭載していたジョーダン・グランプリと提携する可能性もあった。しかし車体エンジニアにしてみれば、F1マシン開発の夢は諦め切れない。チームとの契約内容の1つである「車体の共同開発にも関与できる」ことが決め手となって、BARとのパートナーシップが決まった。
「車体の歴史がこれから始まる」(外村明男 車体開発担当)、「自分の手掛けた車体がレースに出るのを楽しみにしている」(川崎郁夫 空力開発担当)。オールホンダの参戦形態がなくなったとはいえ、車体を担当するエンジニアの期待はいやが上にも高まった。
一方、F1プロジェクトを統括した専務取締役(当時)の福井威夫は、「ホンダはこれからも自主自立でいく。そのためには強い商品競争力とブランドカが要る。『F1をやる』というスタンスはその双方に効果がある」と、第3期参戦の大義を語っていた。
田中自身はブラジル駐在やフランス・インドネシアの現地法人代表、アメリカン・ホンダ・モーター(AH)の駐在員を務めるなど、世界各地で営業の最前線に立ってきた生粋のビジネスマンだ。いうまでもなく、ホンダのレース活動とは無縁だった。それが56歳にして初めて、第3期ホンダF1の英国前線基地を統括する重責を任された。
「なぜ私に白羽の矢を立てたのか、今も分かりません」と田中は振り返る。「あくまで推測ですが、土壇場でフルワークス参戦を取りやめたことで、国際自動車連盟(以下、FIA)にしてみれば期待が大きかった分、怒りも大きかった。他チームとのこじれた関係を修復し、うまくやっていく必要もありました。エンジニアたちが開発に専念できるよう、政治の世界をすべて任せられる人間が必要だ。経営陣はそう考えて、私を選んだのかもしれません」
世界の趨勢に取り残されていたホンダ
しかし2000年からホンダのワークスエンジン供給を受けたBARは、1997年F1ドライバーズ選手権を制したジャック・ビルヌーブを擁したにもかかわらず、そこからの3年間で表彰台はわずか2回、コンストラクターズ選手権*2でも5位・6位・8位と低迷した。
「車体だけでなく、エンジンももっと高いポテンシャルを持ったものをつくらないとダメだ」。そう語るのは、2003年からプロジェクトリーダー( P L )として復帰した木内健雄だ。木内は第2期にはエンジンの電子制御開発、所属ドライバーの担当エンジニアを務めた。活動休止後は研究所に戻り、ハイブリッドエンジンの開発に携わっていた。そこに突然の、F1への復帰辞令だった。
ほぼ10年ぶりに戻ってきたレース現場で木内は、F1エンジンの飛躍的な進化を目の当たりにした。
「ホンダのF1エンジンは世界一どころか、重たいし、パワーでも負けていた。なにより新しい技術がまったく入っていない。その事実を、研究所のエンジニアたちに認めさせる。まずはそこから、入っていきました」(木内)
1992年末に活動休止してからは、レーシングエンジンコンストラクターの(株)無限(後のM-TEC)がホンダの技術を基にしたエンジンを開発し、リジエやジョーダンに供給。1999年までに計4勝を挙げるなど成果を出していた。それだけに技術的な空白は、ほとんどないはずだった。ところが実際にはホンダのF1エンジンは、世界の大勢から完全に遅れてしまっていた。
木内は研究所のエンジニアたちと議論を重ね、具体的な数値目標を絞っていった。だが軽量化ひとつとっても、「これ以上軽くできるはずがない」と、当初エンジニアたちはかたくなだった。
「とはいえもともとが、実力者ぞろいですからね。ターゲットさえ設定して納得できれば、あとは順調でした。最終的に最軽量で最もパワーの出るエンジンができ上がった」
車体開発も同様で、BARの技術陣は「そもそも目標性能値を置いて、それに向かって開発を進める」という発想がなかったという。そこで低重心化、軽量化を徹底させたことで、徐々に戦闘力は上がっていった。そして2004年には新加入の佐藤琢磨が3位表彰台に立つなど、計11回の表彰台、コンストラクターズ選手権2位と大躍進を遂げた。
ところが翌2005年は再び選手権6位と、不本意な結果に終わる。燃料タンクが原因の車両重量規定違反による表彰台取り消し、2戦出場停止も大きな足かせとなった。「しかし低迷の最大の理由は空力開発の遅れ、それに尽きます」と、この年にHRDの2代目社長に就任した和田康裕は言う。
「テクニカルディレクターのジェフ・ウィリスは、100%スケールの最新鋭の風洞建設をずっと要求していた。ところがホンダはその重要性が理解できず、風洞をつくる決断がものすごく遅かった。ようやく完成したのは、2005年の暮れだったと思います」
フルワークス参戦の復活
1990年代以降のF1は、タバコ広告の全盛時代だった。ホンダのパートナーであるB A Rも当時世界第2位のブリティッシュ・アメリカン・タバコ(以下、BAT)が多額の資金を拠出し、全面的に支援を得ていた。
一方で欧州連合(EU)と世界保健機関(WHO)は1990年代からタバコ広告を段階的に規制しており、F 1でも2006年を最後に全面禁止されることになった。HRD初代社長だった田中はすでにそれ以前から、チームへの資本参加を視野に入れてBATとの交渉を重ねていた。その一番の目的は、「ホンダ側の発言力を増すことだった」という。
「当時はすでに、車体の共同開発も進んでいました。もちろんレーシングカーの車体開発では、彼らの方が経験豊富です。それでもホンダの長所が生かせる領域はあった。しかしやはり資本の論理で、BARはホンダのいうことをなかなか聞いてくれなかった。ならばホンダが資本参加することで、うちのエンジニアたちの言い分が今以上に通るような枠組みをつくろうと」(田中)
2004年末にはBARチームの株式45%を取得し、共同経営に乗り出した。翌年秋には、BATが持つBARの株式すべてをホンダが取得。こうして1960年代の第1期以来となる、念願のフルワークス参戦が2006年から始まった。
Honda Racing F1 Teamという正式名称のもと、オールホンダとして再出発したこの年には、シーズン前半こそ苦戦を強いられたものの、中盤以降戦闘力を回復。8月の第1 3 戦ハンガリーG Pでは、予選1 4 番手からスタートしたジェンソン・バトンが波乱の展開を制して、オールホンダとしては1967年イタリアGP以来となる、39年ぶりの優勝を果たした。辛抱強く続けたエンジン改良、車体の共同開発、そして最新鋭風洞の建設に象徴される大規模な設備投資と、地道に打ってきた布石がようやく実を結び始めた。チームはこの年、2004年の2位に次ぐ、選手権4位でシーズンを終えた。そして元F1ドライバー鈴木亜久里の立ち上げたSUPER AGURI F 1 TEAM(スーパーアグリ)にもエンジンを供給、同時にギアボックス開発などの技術支援も行った。
しかし翌2007年を戦うマシンは、開幕前テストの段階から戦闘力の低さを露呈。全17戦中入賞は3回のみで、選手権8位に終わった。不振の理由は技術面でいえば、風洞で得たデータが実走テストでなかなか再現できなかったこと。そして運営面では、ホンダF1チームを統括するリーダーの不在が大きかった。
ロス・ブラウンに託された命運
低迷から抜け出し、チームを上昇気流に乗せるためには、この世界での超大物を引き抜くしかない。当時のF1では、ベネトンの連覇に貢献したパット・シモンズ、空力の奇才といわれたエイドリアン・ニューウェイ、そしてフェラーリ黄金時代の立役者ロス・ブラウンが活躍していた。シモンズ、ニューウェイが純粋なエンジニアだったのに対し、ブラウンは組織運営の指導者としての能力が際立っていた。そしてブラウンだけがフェラーリを離れて、フリーの立場だった。
和田はすでに2007年の3月という早い段階から、ブラウンに接触。その後も粘り強く、6カ月以上の交渉を重ねていた。
「家族との時間を大事にしたいのは分かるが、最後の挑戦と思ってホンダの再生に協力してほしい」。そう説得する和田に、ブラウンはこう応えた。「共通の目標に向かって、仲間とともに必死で頑張る。そんな体験をまた味わいたくなった。それが困難であればあるほど、燃えてくる」
同年11月にチーム代表に就任したブラウンは、翌2008年からの3年計画を策定した。「1年目はチームの欠点を洗い出す。そしてシーズンの早い段階から、2009年に向けてのマシン開発にシフトする」
その言葉通り、チームはシーズン中盤で早くも2008年マシンの改良を打ち切り、翌年に向けてのマシン開発に注力した。それもあってこの年のホンダは、選手権9位と低迷したままだった。
しかしブラウンは、技術規約が大きく変更される2009年シーズンに懸けていた。コース上での追い越し機会を改善しレースを面白くするため、この年のマシンは空力性能に多くの制限が加えられることが決まっていた。開発次第では、上位チームに追い付く絶好のチャンスだと、ブラウンは踏んでいた。
ちなみにホンダワークスチームとなって3年目を迎えたこの時点でも、車体開発、特に空力部門は、BAR時代からの現地のエンジニアたちが主導権を握っていた。ホンダのエンジニアたちは基本的に四輪R&Dセンター栃木(以下、HGT)で開発を続け、必要なら英国にある程度の期間出張するという状態だった。
ホンダ側の空力開発リーダーだった小川厚は、そんな状況をなんとか改善したかった。しかし英国に毎月出張し、向こうのエンジニアたちと会議を重ねても、ホンダ側のアイデアが採用されることはなかなかなかった。そうした中、1人のエンジニアが、突破口を開くことになる。当時研究所で空力開発をしていた皆川真之だった。
「(マシン後方に気流を流す)ディフューザー周りの研究をしていて、いくつかアイデアを思い付いた。そしたら英国滞在中の小川から、『手書きでもなんでもいいから、とにかく送ってくれ。栃木の存在感を、示したいんだ』と、言ってきた。そのうちの1つが、マシン下面のダウンフォース*3を飛躍的に増大させる、ダブルデッカーディフューザーでした」(皆川)
皆川は実際にノートに手書きした図をスキャンして、小川にメール添付で送った。すると現地のエンジニアたちも「面白いことを考えるやつが日本にいる」と興味を示し、皆川はこの年の夏、英国に出張して同僚たちに詳細を説明。さらに11月から駐在し、本格的に開発に専念した。
突然の完全撤退
しかしそれからわずか1カ月後の12月5日、当時の社長 福井威夫が緊急記者会見を開き、F1からの完全撤退を表明した。サブプライムローン問題に端を発した世界的な金融危機で、業績が悪化。F1レース活動が経営を圧迫する恐れがある、経営資源の効率的な再配分が必要という説明だった。
チームはブラウンに譲渡された。資産の切り売り、従業員の大量解雇を避けるための措置だった。ブラウン・ジーピー・フォーミュラ・ワン・チーム(以下、ブラウンGP)は2009年に向けて開発を進めていたマシンも引き継ぎ、メルセデスエンジンを搭載したマシンBGP001で参戦した。
すると開幕戦から勝利を重ね、ドライバーズ・コンストラクターズ選手権の両タイトルを独占。皆川の開発したダブルデッカーディフューザーも、この躍進に大きく貢献した。
2000年から9年間の参戦期間中、ホンダの優勝はわずか1回。悲願のタイトル獲得も果たせなかった。振り返れば第3期活動は、フルワークス参戦の方針が直前に撤回され、さらにほぼ2年ごとの目まぐるしいチーム代表の交代が象徴するように、チーム運営も決して安定したものではなかった。
それでもブラウンが最後のチーム代表に就任してからは、チーム力は着実に上がっていた。そのタイミングでの、突然の撤退表明だった。翌年タイトルを独占したブラウンGPはシーズン終了後、ファクトリーも含めメルセデス・ベンツ(以下、メルセデス)に完全売却される。するとホンダ時代からの英国の車体開発スタッフが中心となって、メルセデスは2014年から2021年まで8連覇という偉業を達成した。
「一番の心残りは、頂点に立つまで続けなかったことです。それだけの先行投資をしてきたし、タイトルを取れる力は十分にあった」。ビジネスの分野から未知のF1の世界に飛び込み、ホンダF1第3期の礎を築いた田中HRD初代社長にとっても、無念の幕切れだった。