第2期1983年~1992年
四輪市販車の開発に注力するため、1968年を最後にF1から撤退していたが、1983年、Hondaは15年ぶりにF1への復帰を果たした。翌1984年に復帰後の初勝利を挙げると、1986年にコンストラクターズタイトル、1987年にはドライバー、コンストラクターのダブルタイトルを手にする。1988年には開幕11連勝し16戦中15勝。1992年で活動を休止するまでの10年間で通算69勝、5年連続ダブルタイトル獲得といった金字塔を打ち立てた。
待望のF1再開
「レースはホンダの企業文化です。勝ち負けではなく、ホンダ車に乗っていただいているお客さまに、最高の技術をお見せするため、そして楽しんでいただくため、レース活動を再開します」。
1978年新年の記者会見で、社長の河島喜好はホンダのレース復帰を発表した。
低公害エンジンの先駆けとして開発したCVCCエンジンは、高い評価を得ることができ、ライフ、シビック、アコードハッチバックの発売で、市販車のラインアップもそろってきた時期での決断であった。
二輪車は1979年から世界グランプリに復帰したが、四輪車はF1界の10年間の進歩を考えると、すぐには踏み切れず、F2での実績と経験を積み上げてからF1に挑戦するという方法を採った。そのため、F1の参戦までには5年の歳月を要することになる。
F2参戦2年目の1981年、ヨーロッパF2選手権制覇を成し遂げ、1983年から1984年には、通算12連勝という大金字塔を打ち立てた。
並行して、1983年にはF1のエンジン開発も始めた。販売チャネルの3チャネル化に向けた市販車種の拡大を控えていたこともあり、研究所では超多忙の日々が続いたが、量産車を犠牲にしないという川本の方針は、その後も貫かれた。
第2期はF1界での市民権を得るため、エンジンをヨーロッパの車体メーカーに供給して、共同作戦によって参戦する方法を採った。目標は世界一になることだ。
1983年7月のF1イギリスGPにスピリット・ホンダで復帰。シルバーストーンサーキットには、10年ぶりのホンダの復帰に、大勢のジャーナリスト、カメラマンが詰め掛けていた。しかし結果は、わずか5周でリタイア。この年の最終戦、南アフリカGPでは、ウィリアムズ・ホンダがデビューし、ケケ・ロズベルグのドライブで辛うじて5位入賞を果たした。
チームメンバーは第1期での経験者はごく少数で、F1は初めてという若い技術者たちで構成されていた。レース活動を通じて、商品の開発に携わる若い技術者を、厳しい極限のチャレンジの中で育てたいという狙いがあったのだ。
しかし、世間は、ホンダだから勝って当然というのが、大方の見方だった。
汗と涙のダラスの勝利
2年目の1984年は、3月のブラジルGPから始まった。この第1戦では予想もしなかった2位と、周囲が驚くほどの好スタートを切った。ところがその後のレースでは、4位から6位には入賞するものの、華々しいスタートと比較すると、周囲の方がやきもきするような足踏み状態が続いていた。
「あまりに勝てないものだから、勝利、という言葉はないのかなという思いが、脳裏をかすめていた時期だった」(川本)。
7月8日、ダラスGPの決勝当日は、摂氏40度の猛暑。オーバーヒートするマシンが続出した。
ウィリアムズ・ホンダが賢明だったのは、ドライバーのヘルメットの中を冷却するシステムをつけていたことだった。同チームのマシンは、エンジンにも車体にも問題はあったが、過去にワールドチャンピオンを獲っているロズベルグは、市街地コースに非常に強く、その力量をいかんなく発揮した。
復帰後10戦目で、ついに初の勝利を挙げたのである。
連日連夜、試行錯誤を繰り返してきたメンバーたちは、チーフエンジニアの土師 守を先頭に、イギリスと日本の国旗を振りながらマシンに駆け寄り、抱き合った。川本はこのレースを、総責任者として現地で祈るような気持ちで観ていた。
「勝ったけれど、全然実感が沸かなかった。忙しくて、とんぼ返りでその日のうちにロサンゼルスへ帰ったんですよ。そして、食事に行ったら、そこで、アメリカン・ホンダとHRA(ホンダR&Dノースアメリカ)の仲間がビッグパーティーを用意してくれていて、“優勝おめでとう!”と大きく書いてあった。それで初めて、あっ、勝ったんだって、ジーンときたわけですよ」(川本)。
F1で世界一を証明するために始まった第2期は、着実に第一歩を踏み出したのである。
ワールドチャンピオンへの道のり
ダラスGPで優勝はしたものの、エンジンの基本的な問題点は解決していなかった。
ヨーロッパのサーキットで勝つには、馬力が不足していたのだ。残り7戦は、ジャック・ラフィとロズベルグが1戦ずつ完走しただけで、あとはすべてリタイアだった。
1984年9月のイタリアGPから、総責任者に桜井淑敏が就任し、市田勝巳も戦線復帰した。
桜井は勝つために、チームの規模を人と金の両面で、2年間で3倍にする計画を立てていたのだ。1984年シーズン終了後、勝てるエンジンを設計するために、市田は、かつて川本にそうしてもらったように、若い設計者を2人連れてホテルにこもった。
「市田君から『こんなエンジンができましたから見てください』と言われた。見ると、僕が指示していたのと全然違ったものだった。とことん追求しないで違う方向へ行くのは良くないと、オヤジさん流の考え方で指示していたんだけれども、彼らはそれを無視してやった。これが、大正解だった」(川本)。
1985年は、6月の第5戦カナダGPから新エンジンを投入し、4勝を挙げることができた。
エンジン設計分野でも、マネジメント分野でも、徐々に世代交代が行われた。そして1986年には、若い世代の台頭により、これまでF1にかかわってきたすべての人が持ち続けてきた夢・コンストラクターズチャンピオンの獲得が実現したのである。
1986年シリーズ最終戦オーストラリアGPには、本田がさち夫人とともに訪れていた。
1965年のアメリカGP以来、2度目の現地入りだった。
「われわれの夢をつなげてくれてありがとう。今日のレースは残念だったけど、素晴らしいワールドチャンピオンを獲ってくれてありがとう。よくやってくれた」と言って、チームのみんなの前に正座した本田は、床に額がつくほどに頭を下げた。
ハイテクウォーで連戦連勝
第2世代のメンバーたちは、どうせやるなら圧倒的に勝つところまでもっていきたいと考えていた。そして、レースプロジェクトを徹底的に科学的なものにする道を選んだ。
原因解析のためにテレメーターシステムを開発し、経験や勘ではなく、データで物事を判断し、だれがやっても同じ答えが出るようにシステム化を図った。
その結果、1986年には9勝を挙げ、続く1987年は11勝、1988年は16戦中15勝という快挙を成し遂げた。さらに、1989年はターボ時代からNAエンジンへとレギュレーションが変更された最初のシーズンにもかかわらず、11勝を挙げ、ホンダの常勝時代が続いたのである。
F1レースに初めてコンピューターを採り入れたのはホンダで、それが主流となってきた。
ホンダF1のコンピューター技術の発達について市田は言う。
「レース現場においては、制御系の部分が非常に大事になってきた。アクセル、ブレーキ、ギアシフトのタイミングなど、全部コンピューターで制御できてしまう。それまでは車体、エンジン関係の技術屋が経験と勘で引っ張ってきたわけだけれども、今度はふたを開けてみると、実は電気屋がF1を大きく支えてくれていたんですね」。
ドライバーの要求に対して、セッティングはキーボードで変えるため、ほとんど数値用語になる。例えば、燃料が濃い、薄いというのも全部コンピューターの言葉になって打ち込まれる。何回かそれを繰り返していくうちに、ドライバーが要求を出すと、エンジン屋と協力しながら、電気屋がセッティングを決めてしまう。F1レースの中で、電子制御技術が占める割合が大きくなり、コンピューター化はすごい勢いで進んでいた。
「ところで君、今、一生懸命ドライバーと話して、全部レースセッティングを決めているんだけど、君はF1好きかい?って聞いたら、「好きでも嫌いでもないです」と言うんだね。
「私にとっては、コンピューターの先に付いているものは、F1であれ、電気洗濯機であれ、私のやる仕事に変わりはないです」と。そういう人がF1を支えていたというのも1つの事実なんですね」(市田)。
日本人へのF1の浸透
日本人にも、F1レースをもっと知ってもらいたい、もっと興味を持ってもらいたいという狙いの下、1986年11末、鈴鹿サーキットは、1987年から5年間、F1日本GPを開催すると発表した。
1987年、ホンダはナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケを擁するウィリアムズと、アイルトン・セナを擁するロータスの2社へエンジン供給を行うこととなった。ロータスのもう1人のドライバーには、日本人初のフル参戦ドライバーとして中嶋悟が起用された。中嶋にとって、F1ドライバーを夢見て10年目のことであった。
「あれから僕の人生はちょっと変わった。人間には、できることと、できないことがあるんだね。そこへ行くまでの10年って、そんなの考えてもいなかった。だけど、セナと1年間一緒にいて、自分の能力を、身の程を知った。分かった上で、じゃあ何ができるんだという考え方になった」(中嶋)。
1987年7月、イギリスGPでは、マンセル、ピケ、セナ、中嶋が、1-2-3-4フィニッシュで歴史的勝利を飾った。
その時から、16戦全戦がテレビ放映されたことも大きな力となり、F1が徐々に日本人にも認知され始めてきたのである。
1988年は、最強チームの1つであるマクラーレンと組み、ドライバーにはセナとアラン・プロストを擁し、ロータスはピケと中鳩という体制で挑んだ。マクラーレンは、16戦中15勝、10度にわたる1ー2フィニッシュなど、数々の記録を塗り替えた。
「世界一になるためには世界一のドライバーと組むこと。そうして挑んできたおかげで、彼らからマシン熟成のために貴重なアドバイスをたくさん受けてきました。彼らは人間的にも非常に豊かな感性を持っており、勝てないで落ち込んでいるメカニックたちをクルーザーに招待して、楽しませてくれたりしました。心のつながりも非常に大きかったですね。そうした彼らの人間性もマスコミを通じて日本人に浸透し、F1の人気も高まってきたんでしょうね」(市田)。
セナは、1988年には鈴鹿サーキットで初のワールドチャンピオンを決め、ポールポジション最多獲得回数をはじめとする、さまざまな記録を更新。1990年、1991年と2年連続でワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレン・ホンダで獲得した通算3度の総合優勝回数は歴代3位の記録である。
また、ホンダは1964年のF1参戦開始から1992年での休止に至るまでの間に、71勝を挙げているが、そのうち32勝はセナによってもたらされたものである。
強敵ウィリアムズ・ルノー
1991年、セナが開幕4連するものの、マシンの挙動は精彩を欠き、第5戦あたりからウィリアムズ・ルノーに一歩遅れを取るようになった。この年は、苦戦を続けながらもチームを挙げての努力により、8勝を挙げ、コンストラクターズチャンピオン通算6回目、ドライバーズチャンピオン通算5回目を達成した。
しかし、ホンダのV10エンジンとウィリアムズ・ルノーV10エンジンとを比較すると、出力では差がなくなりつつあった。また、コーナリングではシャーシとエンジンのバランスが悪く、旋回速度の低下は避けられなかった。加えて、F1での技術競争は、コンピユーターの制御技術のみならず、燃料の調合比の研究という、化学分野にも及んできていたのだ。
1992年は数々の基礎研究の成果をすべて投入。
新型V12気筒を製作し戦ったが、第1戦から第5戦まで、ウィリアムズに各サーキットで先行される状態が続いた。
結局、1992年は5勝にとどまったが、そのうちの1勝はオーストラリアでの最終戦であった。
10年間戦い続けてきたホンダチームにとっても、このレースは最後の戦いの場となる。
チームメンバーたちは、これまでのすべての力をエンジンに、そしてドライバーたちに託した。マクラーレン・ホンダのセナとウィリアムズ・ルノーのマンセルは、途中までトップで接戦を繰り広げたが、19周目で追突し、両者ともリタイア。
この痛手をカバーするかのように、終盤、ゲルハルト・ベルガーがトップに躍り出た。後続車に0.74秒差まで追撃されたが、これを振り切ってチェッカーフラッグを受け、有終の美を飾ったのである。
第2期F1休止
「本田技研がF1撤退へ」
1992年7月18日、朝日新聞の一面トップの見出しには、この文字が大きく刷られていた。
記者にそれとなく話した川本は、ホンダのF1休止が、朝日のトップニュースとして扱われるとは思ってもみなかった。それだけホンダのF1活動がレース運営だけでなく、広報活動も含めて、10年間で日本に深く根付いてきた証だった。
第2期のF1休止について、川本は次のように語る。
「本来のレースの意義がなくなってきたんだよね。人気が出てきたものだから、世間はF1でホンダが勝つものだという期待を、常にかけてくる。だから、技術的に冒険はしなくなった。チームメンバーにも疲れが出てきた。
もう1つは、人気だけ上がったけれど、主にヨーロッパの商売は全然進まない。それに、会社全体としても、体力が弱ってきた。バブルがはじけて、ホンダを取り巻く環境から言っても、一度、見直す時期を迎えたということですね」。
1992年9月、F1休止に当たっての社長メッセージが、全事業所で放送された。
第2期F1再開の原動力となり、レースにかける情熱では、ホンダの中では人後に落ちない川本が、自らの肉声で、F1休止の決断を従業員に伝えたのである。
川本はF1へのチャレンジの意義と次世代を担う人々への期待について、次のように語る。
「ホンダはF1屋じゃないんだよね。最高峰のものに、無手勝流で挑む。猛烈に厳しいんだけども、それこそ岸壁の垂直登繋みたいに、一歩誤れば落っこちるような状態で、それを成し遂げていくことに意義がある。
『F1を私にどうしてもやらせてください』という人が出てくることが望ましいですね。技術や商品で引っ張っていく会社ですから、それらを生み出す人たちがそういうスピリットを持ち続けていく、自己研鑽を重ねるという伝統をつくることは、会社の百年の計のためにはすごく大事なことですよ」。
新たなチャレンジへ
1998年3月9日、ホンダはF1レース活動復帰に向けて、具体的検討に入ったことを公表した。川本が望んでいた、若い技術者たちの熱い意志表示があったのだ。
今度は第2期のエンジン開発・供給に加えて、新たに車体の開発・製造、およびチーム運営までを含めた『ホンダのF1レーシングチーム』としての、総合的なレース活動を行うことを目指し、厳しい極限へのチャレンジを通じた若い技術者の育成、最先端技術の蓄積を狙いとしている。
川本は公表の際に、
「F1復帰検討は、創立50周年を機にした、新世代ホンダの新たなチャレンジと考えている。
現在参戦中のインディカー・レースに加え、より多くのモータースポーツファンの皆様の期待にお応えしたい」とコメント。
『ホンダのF1レースチーム』としての新たなチャレンジに、強い意欲を示した。