第1期1964年~1968年

Hondaは初めて四輪車を発売した翌年、1964年8月のドイツグランプリにて、世界最高峰の四輪レースF1初参戦を果たした。無謀ともいえる挑戦だったが、参戦2年目の1965年、最終戦メキシコグランプリにて、エンジン、シャシーともに純粋なHonda製マシンで、初優勝を成し遂げた。レースでは量産車と比べて極めて短期間にマシン開発を行い、その技術の優劣がレース結果で誰の目にも明らかになることから、技術者を育てるのに最適な道場であるとHondaは考え、F1に参戦した。

F1ってなんだ?

「F1をやりたいんだよ。そのプロジェクトの面倒をみてもらいたい」。

1962年5月、埼玉製作所品質課長の杉浦英男に、研究所所長・工藤義人からの内示だった。

「F1って何ですか?写真で見たことはあるが、詳しいことは何も分かりません」。

「おれも知らない。君ね、だれでも最初は素人なんだよ」。

2人の間でそんなやり取りが交わされた。

それほど、当時のホンダにはF1に関する情報がなかったのだ。わずかな手掛かりは、この半年ほど前に、研究所が手に入れた1台のF1マシン、イギリスのクーパークライマックス1.5Lのみであった。

1964年1月、ホンダはF1レースへの出場を宣言。オートバイのマン島TTレースで完全優勝を成し遂げた時から、そろそろ次は四輪かなと、だれもが感じていた。そして、おれたちの技術をもってすれば必ず勝てる、という勢いが研究所にはあった。

その前年、軽トラック・T360と、小型スポーツカーS500を発売したとはいうものの、ホンダは四輪車の最後発メーカーである。にもかかわらず、国内のどのメーカーも参戦など考えもしなかったF1へのチャレンジを、あえて決断したのである。

1954年3月に出したTTレース出場宣言に謳われた本田宗一郎の熱き想い、「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった』を、四輪車でも実現すべく、第1歩が踏み出された。

当時、F1のために集められた技術者はごく少数だった。しかも、四輪車の経験がない、二輪車のレースを担当していた者がほとんど。四輪車の研究・開発を始めるために中途採用した技術者、そして、大学新卒者もメンバーに加わった。陣頭指揮を執ったのは、もちろん本田である。

「エンジンの馬力目標は宗一郎さんが決める。出るか出ないかの理論はない。とにかく勝つためにはこれだけ出せ。RA270というコードネームは、『270馬力出すんだよ』と言って付けられたくらいです」(当時のエンジン性能担当・奥平 明雄)。

クーパークライマックスをモデルにして、鋼管スペースフレームでまとめられたF1試作車と本田

フルカー体制でのチャレンジ

1962年8月から、プロトタイプエンジンRA270の本格的なレイアウト図面の作成に取り掛かり、1963年の6月にはエンジンの性能テストをするまでにこぎ着けた。

クーパークライマックスをモデルにして、鋼管スペースフレームでまとめられたF1試作車が、初めて荒川のテストコースを走ったのは1964年2月6日であった。本田と研究所所付の中村良夫(後のF1チーム初代監督)は、ゴールドメタリックの試作車でコースを2周。搭載されたエンジンRA270は、5速で8500回転、最高時速は175kmを記録した。

翌週の1月13日、RA270は初めて200馬力を突破し、210馬力、11800回転を記録。この時テストに立ち会っていたエンジン設計担当の丸野冨士也の手帳には、「オヤジヨロコブ」と記されている。

「オヤジさん(本田のこと)自身も一生懸命考えていましたね。夜、設計室に来て、「これはこうした方がいいんじゃないか。ああした方がいいんじゃないか」と言って帰る。そして明くる朝やってきて「どうなった?」と聞く。その時にはまた次の進んだ考えを持ってくる。オヤジさんも寝てないんですよ。そんな状態が続いていましたから、さすがに、この日1日だけはご機嫌でしたね」(丸野)。

テスト用のシャーシは研究所内でつくったものの、市販四輪車の開発にも力を注がなければならなかった。

そこで、中村は本田と相談し、エンジンだけをホンダでつくり、欧州のチームに使ってもらうことに決定。中村は1963年の夏にヨーロッパへ行き、いくつかのF1チームを回り、ホンダエンジンを売り込んだ。

共に闘うチームをロータスに決めて、エンジンを送ろうとしたのであるが、1964年1月になってロータスの社内事情により、白紙に戻ってしまった。

結局、シャーシもホンダでつくることになった。とは言っても、四輪車づくりの経験が浅いこと、加えてレース用のマシンづくりは初めてのことであり、設計はもちろん、材料や部品に関しても問題は山積みであった。そして、毎日、本田に怒鳴られては設計変更を繰り返していた。

苦心惨憺の末、実戦用のF1マシン第1号・RA271が完成した。アイボリーホワイトにカラーリングされ、フロント・ノーズには鮮やかな日の丸が描かれた。

エンジン設計を担当していた丸野の手帳。1964年2月13日の欄には「オヤジヨロコブ」と記されている

エンジン設計を担当していた丸野の手帳。1964年2月13日の欄には「オヤジヨロコブ」と記されている

第1期 F1のデビュー戦となった1964年8月のドイツGP

第1期 F1のデビュー戦となった1964年8月のドイツGP

1964年8月、ドイツグランプリ。ドライバーはロニー・バックナム。記念すべき第1戦は、残りが3周というところで、クラッシュし、リタイアした。公式予選では1周もまともに走れなかったが、決勝で9位まで追い上げたことは、チームに大きな自信を与えてくれた。

この年、RA271は、3戦したものの、すべてリタイアであった。

しかし、チームのメンバーは悲観していなかった。この3戦で学んだことを来シーズンに活かすことだけを考えていたのである。

念願のメキシコGP初勝利

翌1965年には、F1に続きF2にも参戦することになった。F2は久米是志と川本信彦が中心となってエンジン設計をし、ジャック・ブラバムのチームへ供給することに決定。車体設計は、ロン・トーラナックが行った。

しかし、どちらも苦戦を強いられる。F2では、出ると負けのレースが続いた。

徹夜徹夜の中、エンジントラブルの原因を明確に説明できないと、本田からは、「ばかやろう」と怒鳴られた。開発チームのメンバーは、プレッシャーで精神的に追い詰められてしまい、食事がのどを通らない日も度々だった。

F1の方は、前年のRA271のボディー材料がジュラルミンであったものを、耐食アルミ合金に変えて、エンジンも含め、軽量化を図る方針を採った。そして、2人目のドライバー、リッチー・ギンサーを迎え入れ、マシン改良のためのアドバイスを受けていくのである。

しかし、5戦戦っても、ギンサーが2度完走を果たして、6位がやっとだった。研究所では留守部隊が2カ月間泊まり込みで、エンジンの冷却性の向上と重心の低下で、操縦性の向上を図る対策を講じた。にもかかわらず、次のイタリアGPでは、2台ともエンジントラブルでリタイア。珍しく本田が観戦に来たアメリカGPでも、ラジエーターに大きな柏の葉がべったりとはりついて、オーバーヒートに悩まされ、勝てなかった。

最終戦のメキシコGPは、標高2000mの高地にある、世界一空気の希薄なサーキットでの戦いである。ホンダで開発した燃料噴射装置が非常に有効に働いた。1965年10月24日、ギンサーの駆るホンダのRA272は、スタートからフィニッシュまで終始トップを走り続け、ついに念願の初勝利を挙げた。F1に参戦してから、わずか2年目での快挙であった。

ホンダの四輪車のエンジン技術も車体技術も、世界に通じたのである。

「キャリアは違っても技術は変わらない。そう思えてきたら自信が沸いてきてね。マシンがスターティング・グリッドに着いた時に、いつもなら、ボルトの締め忘れはないかとか不安があるんだけど、この時は、やり残したことは何もなかった。最終コーナーをトップで抜けてきた時は、震えました」
(当時のメカニック・小池真一)。

本田は、メキシコGP初優勝の報を受け、記者会見で次のように語った。

「我々は、自動車をやる以上、1番困難な道を歩くんだということをモットーでやってきた。勝っても負けてもその原因を追求し、品質を高めて、より安全なクルマをユーザーに提供する義務がある。そして、やる以上、1番困難な道を敢えて選び、グランプリレースに出場したわけです。

勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい」。

念願の初優勝を喜び合うリッチー・ギンサー(中央)と中村。1965年10月のメキシコGP

念願の初優勝を喜び合うリッチー・ギンサー(中央)と中村。1965年10月のメキシコGP

3.0ℓの工ンジンを調整するメカニック。1966年9月のイタリアGP [写真提供 萩田貞二郎氏〕

3.0ℓの工ンジンを調整するメカニック。1966年9月のイタリアGP [写真提供 萩田貞二郎氏〕

重すぎた3リッター

1966年からF1エンジンの排気量規定が3.0Lに変更になる。ホンダでは1965年秋にようやく新エンジンの構想が固まり、具体的なエンジンレイアウトに着手した。

このころ設計室の忙しさも極みに達していた。副社長・藤澤武夫からの強い要請もあり、エンジン設計の優先順位が通達された。1番が1966年10月発表の軽自動車・N360、F2が4番で、F1は6番目だった。

1966年、F2の第1戦は土砂降りの雨で中止となった。その後ホンダは、第2戦の1‐2フィニッシュを皮切りに、驚異の11連勝を成し遂げていくのである。

このF2エンジンを手本として、1966年シーズンを戦うF1新エンジンの製作に着手した。

しかし、初めて手掛ける3.0Lエンジンは、ゼロスタートに等しく、実戦用のマシン・RA273が完成したのはシーズン半ばの夏になった。エンジンパワーは400馬力を超えたが、シャーン、エンジンの出力が倍増するから頑丈につくらなければという意識が強く働き、結果的に重量は700kgを超え、ライバルたちには遅れを取ったのである。

デビュー戦は9月4日のイタリアGPとなり、スタートラインに並べる瞬間まで、全員の力を結集してマシンのセッティングを行った。

「モンツァでの1週間、ホテルに泊まったのはトランクだけ。われわれはガレージで徹夜の連続ですよ。だからみんな立ったまま寝ているんです。人につつかれて、初めて寝ていたことに気が付く」(奥平)。

結果17周目で、車重と四百馬力のパワーに耐えられなくなったタイヤがバーストし、ガードレールを飛び越えて立木に激突。マシンは大破し、リタイアしてしまった。この後のアメリカGPでは、少しでも軽量化に役立てようと、エキゾーストパイプを肉薄のステンレスパイプでつくった。しかしパイプにクラックが入り、バックナムはリタイア。ギンサーも完走できなかった。

重量の問題はその後も大きな課題として残っていくのである。

1967年9月のイタリアGP でチェッカーフラッグを受ける ジョン・サーティース{左)。車体は口ーラ社との共同開発で軽量化が図られ、2度目の勝利を挙げた

1967年9月のイタリアGPでチェッカーフラッグを受ける ジョン・サーティース{左)。車体は口ーラ社との共同開発で軽量化が図られ、2度目の勝利を挙げた

長かったモンツァまでの道

オートバイレース、F2レースは1966年を最後に休止が決定。レーサー設計を担当していた設計者たちは、市販の軽自動車の設計に移り、1967年の研究所内は一段と忙しくなっていた。

この年ホンダは、オートバイとF1でワールドチャンピオンになった世界でただ1人の男、ジョン・サーティースをF1ドライバーとして迎えたのである。

開幕戦の南アフリカGPでは3位に入ったものの、RA273は1967年前半で使われなくなった。

エンジンだけが出力増強の対策が採られ、RA300に搭載された。

戦闘力のあるクルマにするために、シーズン途中で中村とサーティースが相談。イタリアGPに向けて、全く新規の軽量化車体をローラ社でつくることを計画した。ホンダからは、車体設計担当の佐野彰一をローラ社に派遺。完成したRA300は、420馬力の高出力を達成する一方で、車重は610kgに抑えることができた。

9月10日、イタリアGPは歴史に残るレースとなった。最終ゴールラインでのサーティースとブラバムとの差は、わずか数メートル、0.2秒足らずで、サーティースの駆るホンダRA300がトップでゴールしたのである。2年前のメキシコで勝って以来、2度目の勝利であった。

翌日、ミラノ空港からロンドンに帰る時、アリタリア航空の人たちがお祝いの言葉を掛けてくれ、特別にチームのメンバーを1番先に搭乗させてくれた。彼らは、この時になって初めて優勝の喜びが込み上げ、大きな仕事をやり遂げたことの実感を味わうことができたのである。

「ローラ社との共同開発によって成し遂げられたこの栄誉は、エンジン屋さんが受けるべきものであり、車体屋としては極めて残念でした。優勝直後、外部からはホンダではなく、ホンドーラ”だなどと皮肉られたが、第2期F1参戦のエンジンのみの供給体制に1歩近付いたと見ることもできます」
(佐野)。

勝利か技術かの葛藤

1968年はみんなが自信を持っていた。

血のにじむような5年間の技術の蓄積と、ホンダエンジンの長所・短所を熟知できたチームとして、どうすればグランプリに勝てるのかが、ようやく分かってきたのである。

しかし、ここに至って本田は、F1用空冷エンジンの開発命令を出してきた。

1967年3月に発売された空冷エンジンのN360は、ベストセラーカーとなっていた。それに確言を得た本田は、本格的な乗用車市場への参入を、空冷エンジン搭載のHONDA1300で果たすべく、開発を進めていたのだ。本田は、世界で通用するクルマは空冷エンジンでなければならないという強い信念を持っていた。それをF1で証明し、市販車へ展開しようと考えていたのである。

結局、1968年のF1では、水冷と空冷の両方を手掛けることになった。レースは“勝つこと”という中村と、レースは“走る実験室”という本田の考え方の違いは、やがて研究所を二分する、水冷・空冷論争へとつながっていくこととなる。

水冷F1・RA301はフル参戦したものの、フランスGPで2位になったのが最高で、続くイギリスGPで5位、アメリカGPで3位となった以外は、すべてリタイアであった。

「人と機械の組み合わせによる全体の競争力という観点からは、ベルギーGPとイタリアGPなど、いくつかのレースでは、ホンダは十分勝てる力を持っていた。しかし勝てなかったということは、単に運がなかったということだと思う」

と、サーティースが語っているほど、技術力とチームワークは高まっていたのである。

一方、空冷F1・RA302は、急きょデビュー戦となった7月のフランスGPで、ドライバーのジョー・シュレッサーが事故死するという最悪の事態を招いてしまった。当時、水冷エンジンを担当しながら空冷エンジンも手伝った川本は言う。

「戦いに挑む時に両面作戦というのは絶対に駄目ですね。一点集中で行かなきゃ勝てっこないわけです。レースをやる立場として、中村さんは正しいんですよ。だけど、『空冷の量産車をつくって空冷で商売するためには、空冷のF1が要るんだ』というオヤジさんの論理も、会社としては全く正しいんですよ」。

空冷エンジンの開発・設計を任されていた久米は、

「空冷エンジンは、半ば本田さんの想いが強くてやったというのもある。だけど、やった本人である私も多少、人のやっていないことをやってみたかったというのもある。後はあのような結果になって、大変辛いことになったけれど…・・。

あの時、空冷の追求というのをHONDA1300も含めて、徹底的にやらずにいたとしたら、次の水冷シビックなどへの展開は多分できなかったろう、と思いますね。

空冷では駄目だということが完全に証明できたかというと難しい話で、証明しようがないですね。やはりこういう時は、場を変える姿勢を持ち、考え方を、世界を変えなきゃいけない。

結局、四輪全体を考えた時、当時は企業の存亡がかかっていたと言っても過言ではない状況でした。はっきりした理由がないままに、なぜ場を変えることができたかというと、空冷のさんざんな苦労が、水冷に変えるしかないという結論になったということです」と語る。

1967年ホンダは軽四輪市場へと打って出、N360、LN360、TN360と軽自動車市場を席捲していった。しかし、1967年後半から1968年にかけて、N360に対するクレームが出てきた。

また、このころから、排出ガス対策としての低公害工ンジンの開発にも着手したのである。
本格的な乗用車市場への参入を狙うホンダにとって、台所事情は火の車であり、N360の後に売るべきクルマを早急につくらなければならない。レースに割いていた人と金を、市販車へと向けることになった。

F1参戦の所期の目標であった『四輪車の技術習得』は達成できたとの判断から、1968年のシーズンをもって、F1を撤退することを決定したのである。