第Ⅳ章
事業の基盤となる
取り組み

第2節 グローバル生産体制 第2項 四輪車生産体制

第2節
グローバル生産体制 
第2項 四輪車生産体制

確かなホンダ車を
世界中のお客様に

ホンダは創業以来、「需要のあるところで生産する」という理念のもと
さまざまな地域に生産拠点を展開した。
やがてその理念は、時代の変化に伴い、最適な地域で生産し、最適な市場へ提供する
「Made by Global Honda」へと発展し、世界の多様なニーズに応えられるよう取り組んできた。
しかし、世界中で販売するグローバルモデルについてどの地域でも同じ品質を維持し
地域に特化した専用モデルにも世界共通のホンダ品質に裏付けされたブランド価値を持たせ
適正な価格で提供し続けていくことは、決して容易ではない。
世界中のお客様に、信頼できる品質のホンダ車をお届けするためには
生産活動に関わる品質・効率・コストなどを常に見直していく必要がある。
日本がリードするグローバル生産を支える仕組み・体制・オペレーションは進化を続けている。
重要なのは、時には大胆に変えていくこと。生産体質の改革に挑み続けることである。

日本の自動車メーカー初となる四輪車現地生産へのチャレンジ

 ホンダの四輪車の現地生産は、米国から始まった。 1978年、オハイオ州メアリズビルにホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチュアリング(以下、HAM)が設立され、翌1979年にまずは二輪車の生産が開始されたが、その時すでに四輪車生産の構想は動き出していた。
 当時のホンダにとって米国は最大の市場であった。1960年代半ばに始まったナイセスト・ピープル・キャンペーンが二輪車の販売台数を右肩上がりに押し上げ、四輪車でも1975年から販売開始したCVCCエンジン搭載のシビックが大ヒットを飛ばすなど、快進撃を続けていた。こうした流れの中で、米国での現地生産に踏み出すことは、まさにホンダの海外展開の飛躍的な一歩を意味していたのである。
 しかしドルに対して円が弱かった当時、一般的な経営判断として見れば、日本国内で増産して輸出を増やす方が妥当といえた。進出を検討する際に行われた市場調査の結果も、工場は赤字になるとの予測が出た。
 それでもホンダは、「需要のあるところで生産する」という理念のもと、このようなリスクを背負った上で、当時日本のどの自動車メーカーもやっていない米国での現地生産に挑戦すると決断した。こうして設立されたHAMは、二輪車工場の敷地を取得する際に四輪車工場用の敷地も取得。二輪車工場が稼働を開始した翌年には四輪車工場の建設に着工し、1982年にホンダ初の海外現地法人による四輪車生産がスタートしたのである。
 また、HAMの設立は、ホンダが提唱する「4つの現地化」を徹底させる狙いがあった。4つの現地化とは、
 「人の現地化」ホンダの駐在員が現地社会に溶け込むと同時に、現地の人々を雇用し、重要な職務への登用を積極的に行い、マネジメント自体を現地化する。
 「製品の現地化」現地のお客様や社会のニーズを十分に満たすことのできる商品を供給する。
 「金の現地化」現地で得た利益を現地に最大限再投資し、これによって現地の活動をより一層拡大していく。
 「部品の現地化」現地調達や海外生産工場のコスト競争力を高め、現地産業の育成に協力するとともに、雇用機会を増やすことによって地域社会に貢献する。
 これらの「現地主義」を推進することで地域とともに発展していく共存共栄こそが、ホンダの未来につながると考えたのである。

初の現地生産による四輪車・アコードがラインオフ

 HAMにおけるホンダ初の海外現地法人による四輪車現地生産を実施するにあたって、ホンダは一つの懸念を抱いていた。米国で果たして日本と同等の品質の製品をつくれるのか、という未知の領域に対する不安であった。
 二輪車の生産については、稼働開始から1年で大型バイクCBX1000やゴールドウイングGL1100の生産も加わるなど順調に進み、日本で製造したものと比べ品質に何の遜色もない、との評価を得るに至っていた。しかし、四輪車の生産となると部品の数や構成、製造工程など勝手がまるで違う。果たしてうまくいくのだろうか。
 そこで、HAMでの生産を想定したシミュレーションを日本で行うことになった。鈴鹿製作所に米国製の部品を持ち込み、厳しいチェックのもと、アコードが試作された。その感触は十分であった。これならば、現地で研修を受けて習熟度を高めたHAMのアソシエイト*1たちによって、必ず品質は維持できると確信。四輪車工場が完成した1982年、記念すべき米国生産アコードの1号車がラインオフした。

HAMで生産されたアコード第1号車のラインオフ

HAMで生産されたアコード第1号車のラインオフ

 その後、HAMでは1985年から稼働を開始したアンナ工場で二輪車用エンジンの生産を開始、1986年にはメアリズビル工場でのシビックの生産とアンナ工場で四輪車エンジンの生産も開始した。また、同年にはカナダに設立された生産拠点、ホンダ・オブ・カナダ・マニュファクチュアリング(HCM)でもアコードの生産を開始。1989年にはHAMの四輪完成車第2工場となるイーストリバティ工場を建設するなど、北米地域での生産体制は飛躍的に拡充されていった。

  • :海外のホンダでは、ワーカー(労働者)といった呼び方ではなく、共通の目的を達成するために活動する仲間という意味のアソシエイトを名称として採用している
メアリズビル工場の四輪車生産ライン(HAM)

メアリズビル工場の四輪車生産ライン(HAM)

アンナ工場の四輪車エンジン生産ライン(HAM)

アンナ工場の四輪車エンジン生産ライン(HAM)

協業からスタートし
欧州のグローバルネットワーク拠点へ

 1992年に英国ウィルトシャー州スウィンドンにある四輪完成車工場のホンダ・オブ・UKマニュファクチュアリング(以下、HUM)で、アコードの欧州仕様車がラインオフした。
これがホンダとして欧州における自前の工場での初の四輪車生産となるのだが、HUMの設立や完成車生産に至るまでの道のりは、その10年以上も前に予期せぬ形で始まった。
 1980年、ホンダはイギリスの自動車メーカーのブリティッシュ レイランド(以下、BL)からの提案により、ライセンス生産技術供与の調印を行った。これは、BLの工場にホンダの生産設備を提供し、BLがホンダの小型車バラードを自社ブランドのトライアンフ・アクレイムとして生産・販売するというものであった。
 そのころ、BLは欧州における激しいシェア争いの真っただ中で苦戦しており、小型車開発の技術力を持つ日本メーカーとの提携を模索していた。BLの民営化を公約に掲げるサッチャー首相(当時)の代理として駐日英国大使が提携を持ちかけてきたのである。日本の自動車メーカーが次々と辞退する中で、ホンダはこれをチャンスととらえた。欧州の小型車市場は、イギリス・ドイツ・フランスなど欧州の強力なメーカー勢による熾烈な競争が繰り広げられる厳しい市場であった。しかも、輸入規制によって限られた台数しか輸出できずシェアの獲得に苦戦していたため、BLとの提携を機に、欧州でのビジネスにおける長期的な布石を打つことができると考えたのである。
 その後もホンダとBLは協力関係を深めていく。1983年にホンダレジェンド・BLローバー800の共同開発契約を結び、1984年にはローバー800および欧州向けレジェンドをBLの工場で、日本向けローバー800(ローバースターリング)を埼玉製作所狭山工場で生産する共同製造契約に調印した。こうした経緯を経て、1985年にHUMが設立されると、ホンダコンチェルト・ローバー200の共同開発へと進展。HUMは1989年にエンジン工場を建設し、ローバー200用ホンダエンジンの生産・供給を行うこととなった。
 そして、オースチン・ローバー・グループ(BLから社名変更以下、ARG)社との提携がさらに強化され、1989年にHUMでの四輪車工場建設についての覚書に調印。これにより、ホンダによるイギリス国内での完成車の生産体制が整い、1992年にアコードの欧州仕様車の生産が開始された。

HUMにおいて欧州初の四輪車生産となったアコードのラインオフ

HUMにおいて欧州初の四輪車生産となったアコードのラインオフ

スウィンドン工場の四輪車生産ライン(HUM) スウィンドン工場の四輪車生産ライン(HUM)

 しかし、良好な協力関係が続いていた1994年、突然、ARGがドイツのBMWに買収されたのである。そのころHUMではARGの四輪駆動車をベースとしたホンダブランド車を生産し、日本へ輸出・販売することが予定されていたが、計画は宙に浮いてしまった。ホンダは独力で欧州市場に立ち向かうことを決断する。
 2000年ごろから、欧州での生産体制と販売網を一新。HUMでは第2工場を増設し、生産体制を大幅に増強した。第1工場では2000年から始まった欧州向けCR-Vの生産に加えて、北米向けCR-Vも生産。第2ラインでは2001年から欧州向けシビックの生産が始まった。当時のユーロ安を逆に利用すると同時に、HUMを欧州の拠点としてホンダのグローバルネットワークに組み込んだのである。

生産拠点をアジアへ拡大し
さらなるグローバル化を推進

 アジアにおけるホンダの四輪車生産は、1969年に台湾の現地企業と技術提携を結び初の海外生産を開始。その後1983年にタイに四輪車の販売会社、ホンダ・カーズ・タイランド(以下、HCT)を設立し、生産については現地のバンチャン・ゼネラル・アッセンブリー(以下、BGAC)に委託。1984年にアコードのノックダウン生産が開始された。タイではすでに日・豪・欧の自動車メーカー各社が10年を超える活動を続けており、ホンダの参入は決して早いものではなかった。
 当時はタイ政府による自動車産業に対する規制が多く、新たな自動車製造工場の設立は認められないうえに、組み立てモデルの総数も規制されていた。自動車市場全体の規模は年間約9万台であったが、市場のほとんどを商用車が占めており、ホンダが参入した乗用車市場はわずか年間2万台という、現在とは比較にならないほど小さかった。
 ホンダは四輪車後発メーカーゆえに知名度も低く、商用車も持っていない。そこでHCT設立時のメンバーは、こうした「弱み」を「強み」に転換することを基本戦略とした。乗用車しかないのなら、乗用車のお客様に絞った販売環境を整え、タイで最もお客様視点に立った会社を目指そうと、活動を開始。1980年代後半になると、タイの経済発展に伴い市場が拡大し、ホンダも順調に販売を伸ばしていった。
 1990年代に入り、政府からようやく乗用車生産の許可が下りると、1992年、BGACと同じミンブリ地区に、フィアットが撤退し休眠状態となっていた工場を買い取り、ホンダ・カーズ・マニュファクチュアリング・タイランド(以下、HCMT)*2を設立。これにより、タイにおける自社の生産体制が整い、同時にアジアの地域戦略における重要拠点ができたのである。
 HCMTのミンブリ工場は、規模が小さいことからシビックの生産を行い、アコードの生産はBGACで継続された。ところが、その小さな工場に、アジア専用モデルとして開発中であるシティの生産立ち上げ計画が持ち上がった。
 当初は鈴鹿で立ち上げ、半年後にタイ生産に移行する計画だったが、日本で立ち上げた場合、ASEAN*3での部品相互補完による税制の恩恵が受けられないことや、徹底した現地化によってコストダウンが図れることを考慮し、タイで立ち上げる決定が下された。しかしながら、当時のミンブリ工場は日産60台が限度と手狭過ぎたため、立ち上げに必要なライン開発・テスト・品質管理・高現調化*4などに対応するのは困難であり、その後のアジア市場の進展を見通すと、新工場建設は必然であった。

HCMT(2000年12月よりHATC)アユタヤ工場

HCMT(2000年12月よりHATC)アユタヤ工場

HATCアユタヤ工場の四輪車生産ライン HATCアユタヤ工場の四輪車生産ライン

 日本企業の工場も多いタイの古都アユタヤ地区にHCMTの新工場が建設され、1996年にシティの生産が開始された。生産能力は年間6万台。ミンブリ工場とBGACを合わせた生産量の倍以上のポテンシャルを有していた。当初はそんなに生産して売れるのかと心配する声も少なくなかったが、シティは爆発的なヒットを記録し、生産が追いつかないほどであった。アユタヤ工場は、その後、マレーシア・インドネシア・フィリピン他、シティを生産する数カ国に構成部品を輸出するなど、アジアの生産拠点として大きな役割を担っていった。
 こうして、ホンダ四輪車のグローバル生産体制は、日本を中心に、北米・欧州・アジアの四地域体制が整い、世界規模で地域のお客様に最適なクルマづくりへとまい進していくことになる。

  • :2000年12月、販売会社のホンダ・カーズ・タイランド(HCT)と統合され、ホンダオートモービル(タイランド)カンパニー・リミテッド(HATC)へ
  • :Association of South-East Asian Nations  東南アジア諸国連合
  • :部品の現地調達率を高めること