初めて尽くしでスタートした海外生産
1959年、ホンダは販売会社であるアメリカン・ホンダ・モーター(AH)に続き、1961年にはヨーロッパ・ホンダ・モーター(EH)を西ドイツ(当時)に設立。「世界一でなければ日本一じゃない」という創業者・本田宗一郎の言葉通りに、年間需要200万台以上の需要が見込まれているオートバイの本場・ヨーロッパ市場へ進出した。
しかし、当時のEEC(欧州経済共同体、後の欧州連合 EU)では国内産業保護のため厳しい輸入規制を実施していた。このため、1962年に欧州における日本企業初の生産工場となるホンダ・モーター(後のベルギー・ホンダ・モーター BH)を設立し、翌1963年より日本からエンジンや一部の部品を輸入し、他の部品を現地調達するノックダウン生産をスタートさせた。当初は生産機種をモペッドC310とスーパーカブ(C100・C110)の3機種に絞り、生産能力は1直体制で月産1万台だった。
年間200万台以上の市場に対して小規模のスタートとしたのは、初めての海外での試みゆえ、実績を築いてから規模を拡張し、生産能力を上げていくという考えに基づくものである。この、「小さく始めて大きく育てる」という考え方は、その後の現地生産の基本方針となった。だが、そのスタートは苦労の連続だった。
厳冬による工場建設の遅延で、1963年5月にようやく工場が完成しスーパーカブC100の1号機をラインオフするも、部品メーカーの高いコストや不統一な工業規格、ベルギー国内を二分する言語や文化の違う現地スタッフとの意思疎通など、難問が続出。やがてC310の販売不振と資金不足で工場閉鎖の危機にひんする。現地従業員と一丸となって取り組んだ工場再建を実現するには、数年の時間を要したのである。
初の海外現地生産は1963年ベルギーの工場から。ノックダウン生産でのスタートだった
欧米に続いてホンダが目を向けたのはアジアである。公共交通インフラが未発達だった東南アジア諸国を将来性のある二輪車市場として有望視し、1964年にはタイに販売会社アジア・ホンダ・モーター(ASH)、翌1965年には、二輪車生産工場タイ・ホンダ・マニュファクチュアリング(以下、TH)を設立。さらに、1970年代に入ると南米にも進出。1975年に二輪車生産工場モトホンダ・ダ・アマゾニア・リミターダ(HDA)を設立し、ブラジルでの市場開拓に着手。経済不況や政治情勢の変化に翻弄されながらも、今日までブラジルとともに発展している。
巨大市場アジア全土に生産拠点を拡大
ホンダがタイに進出した当時、タイの二輪車保有台数は約10万台であったが、スーパーカブC50の生産が始まった1967年には15万台まで伸長。増加した5万台のうち70%がホンダ製品であり、タイはその後アジアにおける重要拠点として急成長していく。
1960年代半ば以降はホンダをはじめ日本のメーカー3社がタイに進出し、市場は隆盛を見せるが、1970年代になるとタイ政府が国内二輪車産業の保護育成を打ち出した。組み立てライセンスの発給制限・部品の国産化規制・完成車の輸入禁止・部品関税の引き上げなどが、1980年代まで段階的に実施された。
このため、日系完成車メーカーは部品の現地調達率アップを迫られ、内製化。日系部品サプライヤーのタイ進出要請、あるいはタイ地場企業の育成を推進することになる。ホンダは日系サプライヤーの進出も含めた現調化と内製化の2方向で対応していった。
1980年半ば、タイでは小排気量で高出力が出せる2ストロークモデルが人気の中心となって、シェアの8割以上を占めていた。その中でホンダはスーパーカブタイプなどの4ストロークモデルが中心であり、2ストロークモデルを投入するも、現地の感覚・ニーズを考慮できていなかったため、シェア3位にまでなり撤退すら検討するほどの苦戦を続けていた。市場では1985年代半ばごろから、若者がスーパーカブのレッグシールドなどを外し、ファッショナブルなカラーリングを施すなどのカスタマイズがはやり始めていた。
こうした状況に対して意を決したホンダは1987年に、初の2ストローク・クラッチ付きのファミリースポーツタイプNOVA-Sを投入。このモデルは、当時シンガポールにあった東南アジアの研究・開発部門が、タイの若者における二輪車のカスタマイズ動向など現地調査した上で開発。これによってホンダは一気に販売台数を拡大し、1988年にタイの二輪車市場でシェアナンバーワンを獲得した。
いわゆるスーパーカブという独創によるプロダクトアウトから、ユーザーや市場の嗜好性に基づくマーケットインによる商品開発への転換であり、ここでタイの製品づくりは日本から完全に独立したといえるだろう。
伸長著しかったタイの経済状況も追い風となって、タイの二輪車市場は爆発的に拡大。1985年に45%だった現調率は、1995年には85%に達している。1997年にはホンダR&Dサウスイーストアジア(HRS)が設立され、DEB*2一体のユーザーニーズの調査や現調対応などの現地開発が本格化し、売れる製品づくりもさらに加速した。
- :D開発、E生産、B購買
ホンダ品質の高効率な大量生産を可能にした
人材の育成と生産方式の構築
タイは地理的にも東南アジアの中央部に位置することから、地域生産量の大幅な増加を見越し、ホンダはASEAN地域の拠点として積極的にタイをバックアップした。そこでは現地従業員の育成はもちろん、学校建設への協力・スカラーシップ(奨学金)の設立といった地域に対する奉仕・還元も行っている。
「タイにはタンブン(仏教信仰に基づく施し)という文化があり、これを積極的に行ってきた。ホンダグループとして、あるいはTHが関連企業から寄付を募るチャリティーラリーで集めた資金など、その形はさまざまだが、集まった寄付を小学校の建設事業やスカラーシップに運用している」と、語るのは当時のTH社長、河津敏夫。在任中は信頼の醸成と人材確保に注力してきた。
1997年の通貨危機でタイ経済が大きなダメージを受けた際にも、例えば他社では合弁を解消し一時期は工場閉鎖まで及んだが、THは前年度100万台から40万台にまで実績が落ちたにも関わらず、正規従業員の解雇は行わなかった。代わりに日本での研修や、工場のメンテナンスを行うことなどで人材をローテーションさせて危機をしのいだ。
非正規従業員に対してはレイオフが避けられなかったが「戻れる時には真っ先に声をかける」と約束し、それを実行した。また、それまで正規従業員だけで行っていた年末のパーティーに非正規従業員も参加可能とし、1万人規模のパーティーを開くようになった。
「危機の時もホンダは逃げ出さず、従業員を大事にしてくれたという想いが彼らのモチベーションにつながっている。商品の信頼性はもちろんだが、それ以上に各国の進出地域からの期待に対して応えられるかどうか、少なくとも裏切らないという姿勢は大切である。それが、後々のタイにおけるシェア80%へのきっかけになったと思っている。駐在する日本人にとって、その国や地域の人や文化を受け入れられるかどうかが試金石となる。それがダメなようでは、十中八九、うまくいかないものだ」(河津)
当時ASEAN地域向けコミューターの新機種は、まずタイで立ち上げ、その派生としてインドネシアやベトナムに広げる戦略だった。従って、タイにおける現地開発を強化して各国をバックアップすることが必須だったが、言語や風習の違いが各国間のコミュニケーションを妨げる要因でもあった。
「THの試作部門にベトナムやインドネシアの人たちを呼んで、一緒に物を見ながら、技術的熟成を図る方法を実行した。タイ人がインドネシアやベトナムに行って指導することは難しいなら、逆にタイに来てもらい一緒にやる。この仕組みで、技術や製造システムの伝達はうまく機能するようになった」(河津)
もちろん、一筋縄では行かず、新工場をつくる上での苦労は多かった。そこで、合理的で均一な生産現場を各国で構築し、高効率な生産形態をグローバルスタンダード化すべく採用したのが、「50万台1パック」の手法だった。
最適なところで生産し最適なところへ供給する、
Made by Global Hondaの確立
各地で大増産を可能にした「50万台1パック」とは、年間50万台を生産するために必要な工程数・設備・建屋面積・要員・厚生施設・物流施設を標準化し、1ライン単位にパッケージにした物理的な基準である。
「この方式の特徴は、最短時間で新工場・新ラインを構築できること、タイムリーな新機種投入と短期間でフル生産に導けることだ。大まかにいえば、素材から完成車までを包括した工場であり、1本1勤で1,000台、2勤で2,000台、それが250日稼働で50万台という計算になる」と言うのは、当時の生産本部二輪生産企画室に所属していた関口文男である。
これを1事業所あたり2本設ければ、工場ごとのライン構築に悩むことなくスムーズに年間100万台の生産が行える。また、その導入によって、分散していた部品製造を統一したことなどでスペースは20%削減、ライン要員は30%の削減を実現した。これは劇的な改善であると同時に、品質管理の面でも大きな効果があった。
「あるラインで40人から50人のチームがあるとすると、その管理は非常に大変。それが3割減れば30人前後になるので管理の効率は向上し、人をしっかり見られるようになり、新人の教育もよりやりやすくなる」(関口)
「50万台1パック」の導入はピー・ティ・アストラ・ホンダ・モーター(AHJ)のインドネシア第3工場を皮切りに、フィリピンやパキスタン・中国・ベトナム、さらに拡大する市場に合わせてインドなどのアジア諸国に順次導入されてきた。
「50万台1パック」を最初に導入したAHJ第3工場
一方課題もあった。1パックで50万台なので、2パックで100万台、3パックで150万台となる。1工場あたりどこまで増やせるのか?各工場で限界を探っていった結果、物流、人員の確保の観点で見ると1工場では3パック、すなわち150万台が限界であることが分かってきた。このためこの方式は3パックが限界であり、4パック目はほかの地区に設けないといけない。また、増産計画があり4パック目が必要な場合、次の候補地を探すスピードも重要であった。
このようにして、タイがリードした地域内供給を拡大した結果、世界のどこで生産してもホンダ品質を実現し、タイ・インド・インドネシア・中国から完成車や部品を、日本も含めた各国に輸出するようになる。しかし、ここまでの道のりには他にも大きな課題があった。
ベトナムでは所得の増加に伴い二輪車市場が急伸し、1990年代前半には50万台規模の市場に成長。ホンダは1997年に現地生産を開始し、110ccのスーパーカブタイプのSUPER DREAMが耐久性の高さで人気を集めたが、その価格は現地の庶民には高根の花であった。そこに、SUPER DREAMの4分の1から5分の1の価格で中国製のコピー車が出回り、市場は一気に200万台まで拡大。ホンダのベトナム二輪車市場シェア率は10%以下に低下する。
そもそも1980年代に中国に進出したホンダはモーターサイクル系のCG125やスーパーカブタイプで人気を博したが、1990年代半ばの二輪車登録制度などによって中国市場は低迷。余剰部品が市場に流通し、それを組み立てて完成車として売るコピーメーカーが出現したのである。当時、中国市場は年間600万台規模で、商品の価格帯3,500元から5,500元、そのほとんどがコピーメーカー製であり、それらと比べて価格が倍以上だったホンダのシェアはわずかに0.3%ほどという危機的状況だった。
そこで天津本田摩托有限公司(天津ホンダ)は、あえてコピーメーカーの最大手である海南新大洲摩托車股份有限公司(以下、新大洲)の二輪事業部門と提携。圧倒的に低コストで二輪車をつくるノウハウを取り入れ、高品質でありながらかつてない廉価なモデルによってコピー車を駆逐する方策を採ったのである。新大洲側もグローバル市場での生き残りをかけるべく合意、2001年に新大洲本田摩托有限公司(以下、新大洲ホンダ)が設立された。
「当時の目的は2つあり、1つはコピー部品をつくるサプライヤーをホンダの正規部品として使用できるように育成すること。もう1つは、その彼らのコスト競争力を極力維持することだったが、この点では苦労した。それまで、ホンダは原価と売価設定の実態も把握しておらず、『日本の購買は中国の相場が分かっていない。アウトプットもない』とあきれていた」
こう語るのは、二輪開発センターの2ストロークエンジン技術統括だった山本 均だ。
山本は当時の中国を巡ってホンダに適したサプライヤーを探した。コピーメーカーの部品を調査し、コストと品質に優れた部品はその製造元を調べて調達したのだが、約600社ある中でホンダ基準をクリアできたのは、たった6社だった。それも、多くは工場の環境や工程管理など、基本的な部分から指導する必要があった。
「当時は5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)もできていないから、例えば切削部品などは切粉だらけだし、何かおかしいと思って見るとラインを逆行させていたりと、基本の『いろは』が分かっていないので、不良品も平気で流していた。これらの修正・改善は苦労した部分であり約4年の時間を費やした」(山本)
これは、程度の差こそあるが現調化を進める上で、必ず通る道といってもいい。前述の河津の言葉のように、文化や民族性の差異が如実に現れる部分でもあった。
「当たり前だが、大事なのは上から目線で考えないこと。そして、これも当たり前だが、商品にはリピートのあるような適正な価格帯が必ずあるということ。当時のホンダは中国における一連の流れの中で、その感覚や考え方を学んだと思う」(山本)
そして、コピー車への対抗策として2002年にベトナムへ廉価なスーパーカブタイプのWave αを上市。中国の部品を使って徹底的にコストダウンを行い、従来モデルより約4割低い価格を実現していた。さらにタイにおいてもコピー車流入時の予防策として同年にWave110の廉価版Wave100を発売。これらは新たな購買層を獲得して爆発的にヒットした。それまでホンダがターゲットにしていたユーザー層の外に、さらに大きな需要があったのである。
こうして、現地調達・現地生産に加え、生産国にこだわらない部品の「グローバル調達」のネットワークは時代とともに発展し、国を越えて通用する価格の商品が次々に誕生していく。
徹底的な現地調達化により低価格を実現し
ベトナムで上市されたWave α
二輪車のグローバルモデル専用工場としての役割を担う
THの組立ライン