第Ⅳ章 
事業の基盤となる
取り組み

第1節 SED開発システム

企業としての
成長とともに
常に
革新を進める
製品開発体制

大きな成果を生んだ、RAD主導型体制による
ミニバン開発

 1980年代後半、ホンダ四輪車の生産・販売台数は着実に増加し、各地域における現地化も進展するなど、SED開発システムは成果を挙げつつあった。しかし、自動車業界を取り巻く環境は、為替変動・貿易摩擦・競争激化のほか、人々の価値観の多様化や地球環境課題など、さまざまな対応が求められていた。そのため、さらなるステップアップとして、ニーズの正確な最新情報を分析し、それをベースにグローバルな視野で将来を見据えた、SED総合戦略が不可欠となった。すなわち、SEDがよりいっそう一体化した、スピーディーで強力な取り組みが必要となったのである。
 そこで1989年、SEDを横断して組織された四輪車推進チームは、機能強化として四輪事業全体の戦略策定とその推進執行の責任を負うこととし、商品化統括RAD(Representatives of Automotive Development)と、戦略諮問機関 HAST(Honda Automotive Strategy Team)を新設。これにより、SED各部門間の素早い連動と意思決定が期待された。
 その直後、1990年代に入るとバブル景気が崩壊し、自動車市場は一気に縮小した。しかし一方で、RV(レクリエーショナル・ビークル)やワンボックス車といったレジャー志向のクルマへの人気が高まっていた。これらのクルマは、トラックベースやキャブオーバー*3のプラットフォームが使われていた。ところがホンダは、軽自動車以外にこうしたプラットフォームを持っておらず、生産ラインもなかった。そこで、これまで培ってきたセダンづくりの技術を生かしながら、「クリエイティブムーバー(生活創造車)」というコンセプトのもと、お客様の視点に立ち、快適で扱いやすい多人数乗りFF乗用車、そして既存の工場での製造を可能にしたオデッセイを開発。1994年に発売されると大ヒットとなり、ミニバンブームの火付け役となった。SED連携による一体開発の成果であった。
 RAD主導型によるSED体制の効果は、1996年に発売されたステップ ワゴンの開発で大いに発揮された。開発はSEDをワンパックプロジェクトルー厶化して合体させたチーム体制で進められた。RAD主導によってSEDを串刺しにし、商品を一貫した視野で捉え、開発から生産・販売まで各部門と共同で進める戦略を実施。子育て世代を中心に多くの家族から支持され、ユーティリティーミニバンというカテゴリーを確立したのである。

  • :エンジンの上部に運転席がある車体構造
RAD主導によるSED体制で開発されたステップ ワゴン。アイデアスケッチ段階から1分の1スケールを制作し検証していった

RAD主導によるSED体制で開発されたステップ ワゴン。アイデアスケッチ段階から1分の1スケールを制作し検証していった

地域事業拡大がもたらした、SED自立化と新たな課題

各地域SED自立化のもとアジア専用車としてタイで開発されたシティ 各地域SED自立化のもとアジア専用車として
タイで開発されたシティ

 世界の各地域で経済環境や人々のニーズが大きく変化していく中で、いっそう強固な企業体質を目指すホンダは、1992年に米州・欧州・アジア大洋州・日本それぞれの地域に根ざした地域密着型のマーケットイン開発を強化するために、四輪四地域本部制を導入。1994年には、地域本部のオペレーションに重点をおいてマーケットイン開発を徹底する、地域本部と事業本部・機能本部によるマトリックス運営体制とした。
 これにより、アジア圏のお客様が求めているクルマはアジアでつくるべきという考えのもと、タイをリードカントリーとするアジアで自立化したSEDによる、アジア専用車シティを1996年に発売。グローバルモデルにおいても四地域それぞれのニーズを反映した地域専用モデルのアコードを発売するなど、各地域自立化に基づく商品展開が実践された。この経営体制は世界の需要拡大に伴い、2000年に南米本部、2003年に中国本部を加えた六地域展開体制へと発展。各地域の市場ニーズに合わせた事業運営を進めていった。
 しかし、こうしたきめ細かな展開は、新たな課題を生むことになった。地域の暮らしにより適した地域専用モデルが増加し、また、グローバルモデルにおいても地域の要望に基づく派生機種が増加したことで、身の丈を超えた開発工数とスピードでの対応に追われ、事業効率の低下が見られるようになった。さらに六地域それぞれに開発・生産体制を整えたことで、地域ごとに部分最適化してしまい、地域間の連携が薄れつつあったのである。

鈴鹿サテライトでのN-BOX開発を機に
「SKIプロジェクト」発足

 2010年代に入ると、二輪事業ではデータを活用して仕様・性能を決定する開発プロセスを導入するとともに、量産準備段階において生産部門と一体となった取り組みとして、2010年10月、熊本製作所内に二輪R&Dセンター熊本分室(HGA-K)が設立され、2011年4月には熊本製作所購買部を設立。DEB(開発〈Development〉・生産〈Engineering〉・購買〈Buying〉)連携による取り組みが始まった。
 そのころ四輪事業においては、低迷する日本市場での再生を目指し、お客様のニーズを捉えた革新のプラットフォームによる軽自動車、N-BOXの開発に着手していた。
 そうした中の2011年3月11日、東日本大震災が発生した。
 この災害により、四輪車の研究開発の中枢である栃木研究所(以下、HGT)が甚大な被害を受けたため、一時的に国内にある3カ所の事業所内に開発機能を移管するサテライトオフィスを立ち上げた。HGTのN-BOX開発メンバーは、鈴鹿製作所内に設けられた鈴鹿サテライトオフィスへ移動することになった。
 開発メンバーは、栃木のような設計部署ごとに分かれた大きな組織とは違い、サテライトの少人数体制でいかに効率良く開発を進めていくかという課題に直面した。そこで各部署の情報を逐次オープンすることにした。チームで議論された情報までもデータベースにアップし、全員で共有できる環境をつくった。しかも、工場のメンバーもすぐ近くにいるため、開発と生産現場の関係者がすぐに集まって即断即決でき、仕事が早く進んだ。結果として、N-BOXは開発日程の短縮を実現したのである。N-BOXは2011年12月の発売直後から大ヒットとなった。
 2012年4月、鈴鹿製作所内にHGTの一つの組織として四輪R&Dセンター鈴鹿分室(HGT-S)が改めて新設されると、軽自動車の上屋開発*4機能と生産および購買機能を一体化(ワンフロア化)し、企画の源流から量産まで一貫して推進する体制「軽QCDD展開」を構築した。
 これは生産領域のQCD(品質 Quality・コスト Cost・調達 Delivery)とD(開発 Development)が共創し、軽自動車のスピーディーな製品開発から生産までを展開する体制を目指すもので、通称「SKI(鈴鹿・軽・イノベーション)プロジェクト」と呼ばれた。SKIプロジェクトは、N-BOXに続くN-ONE、N-WGN、N-BOX SLASHに段階的に導入され、シリーズを通じて開発効率を高め、大きな効果を発揮した。従来の開発よりも日程が短縮でき、開発費のコストダウンにも貢献したのである。

  • :プラットフォーム、パワープラントを除く車体の開発
鈴鹿製作所、軽QCDD展開のメンバー

鈴鹿製作所、軽QCDD展開のメンバー

N-BOXの開発ではHGT開発メンバーが鈴鹿製作所内のサテライトオフィスへ移動したことにより、開発と生産が一体となった体制が確立した

N-BOXの開発ではHGT開発メンバーが鈴鹿製作所内のサテライトオフィスへ移動したことにより、
開発と生産が一体となった体制が確立した

SED体制のあり方を組織的に刷新する大改革

 二輪事業では、2019年2月、開発部門の二輪R&Dセンターと生産技術部門であるホンダエンジニアリング(株)(EG)の二輪車開発機能を二輪事業本部に移管し、二輪事業本部内の熊本製作所および生産企画部、購買企画部内の二輪車新機種開発機能と統合して、ものづくりセンターを新設した。
 一方、四輪事業ではSEDBの連携をさらに高めるために、全社的に体制を刷新。まず、研究所の組織運営について、最高効率の製品・技術開発力を志向し、競争力の高い製品開発を実現する、オートモービルセンターを2019年4月に設置し、RとDの両機能の強化に向けた最適なオペレーションを追求する体制とするとともに、従来の製品・事業を軸とした体制をベースに、これからの先進技術への取り組みを加速できる体制へと変更。新機種開発において一括企画を軸に競争力ある製品と原価の実現を担う、ものづくりセンターを四輪事業本部にも設置した。企画から開発・量産までの一貫したオペレーションで開発力向上と安定生産実現を目指す体制となった。
 また、量産車の開発効率や部品の共有化を高めるホンダ・アーキテクチャーを導入。クルマを構成する基本骨格を、エンジンルーム・コックピット・リア周りの3領域に分け、モデル同士で主要諸元や構造・部品を共有することで開発コストを低減。生産ラインでも、部品や装備の変更ごとに必要となる治具の組み換え作業が減り、地域間でのスピーディーでフレキシブルな生産補完が可能となった。
 この新たな開発フローは、開発を進めていたシビック(2021年発売)・アコード(2023年米国発売)に段階的に導入された。

アコード(米国仕様)

アコード(米国仕様)

時代とともに進化を続けるSED開発システム
その本質は不変の「A00」

 SED開発システムは発足からおよそ50年がたち、今もなお進化を続けている。100年に一度の大変革期といわれるほど世界の自動車産業が大きく変わっていくこれからの時代に、ホンダはどのような開発体制で対応していくのか。
 本田技研工業専務執行役員四輪事業本部 ものづくりセンター所長を務める高橋尚男(2023年3月当時)は、今後のあり方を次のように語った。
 「SED開発システムは、販売・生産・開発の部門が徹底的に議論し、お客様を第一に考えた製品の開発を行う仕組みです。製品の仕様をD任せにするのではなく、SやEの知を結集して仕様を決定する。結果として、関連するメンバー全員が製品に責任を持つというのがシステムの変わらぬ本質であり、その形は時代とともに進化してきました。
 今、私たちを取り巻く環境は大きく変化しています。地球温暖化などの社会課題への対応、それと連鎖して拡大する電動化製品の価値創造、さらにはこれらの取り組みを反映した事業性の成立など、大きな課題が山積みです。しかしこうした課題を解決していかなければ、ホンダの未来はありません。
 そのために私たちは、『A00』であるお客様のための価値とは何かを部門を超えて議論し、明確な目的と高い目標を掲げ、既存のルールや仕組みにとらわれず自由な発想で挑み続けなければならない。その想いと行動が、新しいSED開発システムを形づくっていくと思います」
 1970年代初頭、初代シビックの開発時に生まれた「A00」。この「A00」というホンダ用語は、製品開発における目的・目標を設定する際に用いられ、いつの日かホンダのあらゆるプロジェクトで使われるようになった、いわば、ホンダの全活動における源泉となるものである。
 かつて全従業員に向けて、ホンダにとっての「A00」を説いた、七代目社長を務めた伊東孝紳のメッセージを振り返りたい。
 「ホンダでさまざまな事業やプロジェクトが立ち上げられる際に、最初に問われるのは『A00は何か?』である。『A00』とは、チームの誰もが共有すべき、最終目的を言葉にしたもので、『究極の目的』や『本質』を意味する。決して軽量・低燃費・高出力の実現だとか、年間〇〇万台売れること、といった活動自体の達成要件ではない。『A00』とは個々の事業を超え、基盤であるホンダの理念そのものに関わるものである。
 ホンダにとって技術や商品の完成は過程に過ぎず、本当のゴールは、お客様に使っていただき、その結果として暮らしや世の中がより良く変化すること。つまり『物』の完成ではなく、『理想』や『夢』『社会正義』を成就することを指す。(中略)これほどまでに『A00』が浸透したのは、ホンダがもともと持っていた思想の中に、相通じるものがあるからである。そう考えると、仕事の目的を製造・販売など自分たちのフィールドのみにとどめず、お客様や社会の幸福にまで広げる発想は、創業者、本田宗一郎が企業理念として掲げた、『三つの喜び』と見事に重なり合う。買ったお客様に喜んでいただくことで、営業やマーケティングの担当者が売る喜びを、開発·生産部門が創る喜びを感じる。それこそがホンダの真の、「A00」といえる。
 人々の生活を便利にするため宗一郎が自転車用補助エンジンを開発した創業時から時代が大きく変遷し、当時と同じ土俵で『夢』や『理想』を語ることは難しいかも知れない。だからこそ、お客様や世の中のために何ができるかを必死に考えることが求められている時代なのではないか。今こそ自分が『どうあるべきか』、そしてホンダは『何をなすべきか』、一人ひとりが改めて『A00』を考える時ではないだろうか」
(2015年 年頭所感より 一部編集)