第Ⅲ章
独創の技術・製品

第2節 四輪車 第4項 ナビゲーションをクルマにも

第2節 四輪車 
第4項 ナビゲーションを
クルマにも

未来を見据えた
カーエレクトロニクス戦略

1970年代、モータリゼーションの進展と同時に
日本社会は、大気汚染や交通渋滞などさまざまな問題に直面した。
こうした状況を危惧したホンダは、急速に進化するカーエレクトロニクスに着目し
「コース誘導装置」の開発をスタートさせる。
衛星利用測位システム(GPS)*1もインターネットも民間では利用できなかった時代に
開発者たちは試行錯誤とテストを繰り返し、ガスレートジャイロによる自車位置情報の取得を実現。
ついに、世界初*2のカーナビゲーションシステム「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」を完成させたのである。
注目すべきは、それが自動車の未来を見据えた戦略の一端であったことだ。
カーナビゲーションという言葉も、コネクテッドという概念もない時代に
それらの基幹となる技術を築いた先見性の源を探る。

  • :Global Positioning System(グローバル・ポジショニング・システム)の略で、人工衛星から送られてくる電波を受信して現在位置を算出する装置
  • :ホンダ調べ(1981年時点)

未来を見据えた電装戦略

 1976年、当時、本田技術研究所の汎用部門で発電機の開発を担当していた田上勝俊は、専務(当時)の久米是志(後の三代目社長)からこう告げられた。
 「四輪車の電装品をやってくれ」
 それまで四輪車のことなど考えたこともなかった田上の戸惑いをよそに、久米は言葉を続けた。
 「他社をキャッチアップして、一歩前へ出ること。それが君の役割だ」
 1970年代に入り、自動車業界ではエレクトロニクス技術が急速に発達したが、メカニカルな技術であるCVCCエンジンに精力を傾注していたホンダは、その分野で遅れを生んでいた。エレクトロニクス技術がエンジン開発の重要な要素になると予見していた久米は、その状況に危機感を抱き、ホンダ自身がエレクトロニクス技術を手中に収めるべく、田上に指示を出したのだ。
 ホンダエンジンの優位性を守るためにエレクトロニクス技術が必要だという考えは田上も同じだ。しかし、エレクトロニクス技術の進歩を考えればエンジンコントロールにとどまるはずがない。電装品研究室の責任者となった田上がまず手掛けたのは、ホンダがエレクトロニクス技術を習得するために取り組むべきテーマを洗い出し、全体像を「電装戦略」として構築することだった。
 エンジンコントロールの次にはトランスミッションコントロールが可能となり、オートクルーズ機能へと発展する。さらにステアリングも自動化する。いずれは、目的地を地図にインプットするだけで、自動的に道路を選択して目的地にたどり着けるようになる。
 「自動車の知能化」をキーワードに練り上げた戦略には、自動運転までが想定されていた。

クルマは自分の現在地を知らない

 田上が構築した戦略は、久米によってACE(Automatically adaptive & creative electronic controled)システムと名付けられ、電子制御燃料噴射装置(PGM-FI)やアンチロックブレーキシステム(ABS)など、さまざまなコントロール技術を生むことになるのだが、その研究テーマの1つに「コース誘導」という言葉があった。
 当時は、分厚い地図をドアポケットに常備し、目的地までの道順と目印を頭にたたき込むのがドライブ前の恒例であった。ひとたび道に迷えば、周囲の景色や町名表示板から現在地を推測し、地図と照らし合わせて再び道順と目印を覚えなければならない。自車の現在位置を知り、目的地まで誘導する機能があれば、どれだけ便利になることか。クルマの新しい使い方が創造できるのではないかとさえ思えた。
 しかしGPSの民間運用はまだ先のこと。当時のクルマは、コース誘導に絶対不可欠な自車位置の把握さえできなかったのだ。

ガスレートジャイロが拓いた「コース誘導」の可能性

 そのころ、自衛隊の訓練を見学する機会を得た久米は、戦車を見てあることに気付いた。凹凸の激しい不整地を走りながらも、砲身は車体の傾きに影響されることなく常に目標をとらえている。それがジャイロスコープ(ものの向きや角速度を検出する装置)によって制御されていることを知ると、クルマに使えないだろうかと考え、研究所にもどって即座に2つの指示を出した。1つはジャイロに関する技術調査であり、もう1つはジャイロを応用した車載システムの提案の要請である。
 ジャイロを使ってクルマ用の「何か」を提案するということだ。何を実現できるかわからない研究開発などあっていいのだろうかと思えるが、ホンダでは「良し」とされる。
 久米の話を聞いた田上は初め、サスペンションになら使えるかもしれないと思い、早速ジャイロを購入し分解してみた。ところが部品点数は200を超え、そのうえ非常に精密である。到底、量産車に載せられるとは考えられなかった。
 しかし、電装戦略の実現のためには、これまでにない新しい何かが必要だ。そう考える田上は、クルマに適したジャイロを必死で探し、ついに「ガスレートジャイロ」にたどり着く。
 ガスレートジャイロとは、ノズルから噴出させたヘリウムガスが直進しようとする慣性力を利用し、方向の変化を感知するものだ。部品はわずか8点と少なく、シンプルさにおいて非常に魅力的であった。精度の低さが課題となったが、常に補正することで応用の可能性が見いだされていった。問題は、このガスレートジャイロを使って何を実現するかである。
 すると、研究メンバーから、「コース誘導に使えるのではないか」というアイデアがもたらされた。ジャイロセンサーが検出した方向の変化と距離センサーの情報を合わせれば、起点からどう移動したかがわかる。その軌跡を地図に重ね合わせれば自車の位置が把握でき、目的地までのコースも知ることができるのではないかというものだった。
 電波などの外部情報に頼らず位置を算出する技術は航空機や船舶で実用化されていたが、大きく高額でクルマには使えなかった。シンプルなガスレートジャイロを使えば、クルマでも完全自立航法が実現できる。目標は決まった。

世界初のカーナビゲーションシステムを実現したガスレートジャイロ
世界初のカーナビゲーションシステムを実現したガスレートジャイロ

世界初のカーナビゲーションシステムを実現したガスレートジャイロ

意志あるところに道は開ける

 構想はまとまったものの、解決しなければならない問題がいくつもあった。最も重要かつ最も悩まされたのがガスレートジャイロの精度である。研究チームは試行錯誤を重ねながら、わずか8点の部品に対してさまざまな改良を加えていった。例えば、周囲の温度の影響で性能にばらつきが出ることがわかると、ジャイロを一定温度に保つ容器を追加するなどの工夫を施した。
 こうした改良を進める一方で、田上はガスレートジャイロを量産してくれるメーカーを探した。ポイントは真空技術にある。ガスレートジャイロの性能を安定的に引き出すには、ヘリウムガスの純度を高める必要があり、そのためには高い真空技術が必要なのだ。
 しかし、商品化できるかどうかわからない新技術の量産を引き受けてくれるメーカーは、なかなか現れなかった。困り果てた田上は、ヘッドライトの製造で優れた真空技術を持つスタンレー電気(株)の研究所に日参し、所長に引き受けてくれるようひたすら頼み込むことで、ようやく協力を得ることができた。
 「私たちの新しいものを創り出そうという気持ちに、技術屋として共鳴されたんでしょうね。社内の反対の声を押し切って協力していただいた。まさに命の恩人です」(田上)
 「意志あるところに道は開ける」という言葉がある。田上は控えめに振り返るが、技術屋としての共鳴以上に、人間・田上の熱意が所長の心を動かしたのではなかったか。

地図の精度

 ガスレートジャイロの精度も向上し、ようやくシステムとしての形をなしてきた。
 地図の表示にはグリーンのCRT(ブラウン管と呼ばれるディスプレーの一種)を用い、片持ちで支持する操作部との間に透明の地図シートを滑りこませる構造とした。
 起点からの走行軌跡を車載コンピューターに記憶させCRTに表示させる。その軌跡を地図シートに重ね合わせて自車の位置を知るという仕組みだ。一度マーキングした地図が次も使えるように、地図上に書いたものが消せる専用のペンで目的地を地図上にマーキングして使用する。軌跡の先端に方位を示すマークを表示することで、自車の現在位置と方位が容易に把握できるよう工夫した。
 軌跡と地図の重ね合わせ、すなわち「マップマッチング」は人間が行う必要があったが、地図を開かずとも自車の位置と方位がわかる利便性は絶大なものだった。
 研究は路上での評価会を行うまでに進んだが、そこで思いもよらぬ壁に突き当たる。
 評価会では、久米と、当時、担当所付であった川本信彦(後の四代目社長)がテスト車に乗り込み、田上が運転を担当して、毎回、同じコースを試乗した。ところが、いつも同じ場所で予定のコースから外れてしまうのだ。原因が分からない。計器に影響を与える施設が付近にあるのではないかと思い、電界強度計を持ち出して調査を行ったが、それでも原因を突き止めることはできなかった。あらゆる可能性をつぶして、ようやく田上が思い当たった。
 「ひょっとしたら、地図が違っているのかもしれない」
 地図の販売会社に問い合わせて、初めて、地図の世界では簡略化された表示が常識であることを知った。
 例えば、縮尺10万分の1の地図上では、10m幅の道路はわずか0.1mmの線となる。道路が混み合っている地域では線が重なってしまうため、正確性をある程度犠牲にしてシンプルに道路が描かれていたのである。
 しかし、コース誘導で正確性を犠牲にすることはできない。システムに合わせた専用地図シートを、地図メーカーと共同で新たに製作することとした。

ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータと地図シート。CRTの前に地図シートをセットして使用した
ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータと地図シート。CRTの前に地図シートをセットして使用した

ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータと地図シート。CRTの前に地図シートをセットして使用した

世界初のカーナビゲーションシステム誕生

 1981年初め、いよいよ「コース誘導装置」の最終評価会が行われることになった。鈴鹿で四輪車の販売店大会に出席した久米を、コース誘導装置を使って東京の自宅に送ることが要件であった。
 ドライバーを務める田上は久米の自宅を知らない。地図シートに久米が記した○印を頼りに、朝の6時に鈴鹿を出発した。途中、久米の指示に従って高速道路に乗ったり降りたりを何度も繰り返し、東京に着いた時には午後7時を回っていた。
 CRTの現在位置表示が○印に近付いていくのを、田上は確信と不安の入り交った気持ちで見つめ、そして意を決したようにクルマを止めた。
 「このあたりだと思うのですが」
 一瞬の間を置いて、久米の声が聞こえた。
 「よし、合格だ。おれの家はあそこだよ」
 その言葉は、長い道のりの疲れを癒やすかのように、田上の胸に心地よく響いた。
 完成したコース誘導装置は、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ(以下、ジャイロケータ)」と名付けられ、同年8月、2代目アコードのディーラーオプションとして発表された。世界初のカーナビゲーションシステムは、こうして誕生したのである。
 未来を見据えた電装戦略の構築、そして、ジャイロケータと地図に徹底的にこだわったことが、クルマに新しい価値をもたらした瞬間であった。

全自動ナビの開発

 ジャイロケータはクルマに革新的な価値をもたらしたが、課題は多く残されていた。
 コールドスタート*3ではガスレートジャイロのウォームアップが必要で、しばらく走ってから一時停止し、走行軌跡と地図シートとを合わせるマップマッチングが必要であった。
 地図シート1枚に表示できる範囲は限られるため、走行するにつれ紙芝居のように手動で地図シートを差し替え、さらに軌跡と合わせる必要もあった。
 お客様の望みは、楽に、確実に、目的地まで誘導してもらうことにある。まして、ジャイロケータ発表後の東京モーターショー(1981年10月)には、各社からナビゲーション装置搭載のコンセプトカーが出展されている。追従する他社を振り切り、圧倒的な技術的優位を確立するためには、お客様をウォームアップやマップマッチングから解放する全自動ナビの開発が急務であった。そして、1982年1月、次世代ナビの開発がスタートした。
 構想は、開発チームメンバーの一員、中村之信の中にあった。
 本田技術研究所から電総研(通商産業省*4工業技術院電子総合研究所、筑波)へ国内留学していた中村は、ガスレートジャイロの後継技術として、ウォームアップ不要で精度の高い光ファイバージャイロの研究を進めていた。和光研究所(HGW)と筑波との移動にジャイロケータを使っていたが、軌跡を従えて延びていく現在位置マークを見ているうちに、突然ひらめいた。
 「デジタルマップを光ディスクに入れる、コンピューターで常に軌跡を道路に合わせていく、光ファイバージャイロを使えばウォームアップは不要」。いくつかのアイデアが湧き起こり、一瞬のうちに1つになった。1980年の暮れのことだ。
 次世代ナビの開発は、中村が温めていた構想を基に以下の3つのプロジェクトでスタートし、中村は開発責任者(以下、LPL)に就任した。
①ジャイロケータを発展させたアナログマップナビ
②デジタルマップの採用によってコンピューターによる自動マップマッチングを目標とした全自動ナビ
③光ファイバージャイロの研究

  • :エンジンが冷えた状態で通常6時間以上放置し、冷却水、オイルなどが周辺温度と同じ温度になってからの始動をいう
  • :後の経済産業省

精度の壁

 プロジェクトの最大の狙いは、デジタルマップによって自動でマップマッチングを実現することにあった。
 しかし、時代はオーディオ用のCD(コンパクトディスク)がようやく標準化されようとしていたころで、デジタルマップのデータを記憶させる記憶媒体は、世の中にまだ存在しなかった。暫定的に8インチのフロッピーディスク(FD)を使用してテストを行い、並行して地図データを記憶させるCD-ROMを開発することとした。
 1982年9月に完成した初号機は、自動マップマッチングは実現したがミスマッチすることがあり、十分な機能を有しているとは言えなかった。地図データのデジタル化も地図製造装置を準備して本格的に進めたが、CD-ROMの開発は遅れ気味であった。また、当時、本田技術研究所の副社長になっていた川本からは、より精度の高いシステムにしてほしいと期待されていた。
 この時期、中村は評価会の夢をよく見たという。川本の目の前で現在位置が道路からずれてしまう夢だ。ハッとして目が覚める、そんな日が何日も続いた。

回り道の財産

 先行するアナログマップナビの分野でも苦戦が続いていた。LD(レーザーディスク)に地図を記憶させる構想であったが、共同開発先の事情が許さず、次善の策であるマイクロフィルムを使用していた。それが地図の自動切り替えを難しくしていたのである。
 1984年になってLDの共同開発が可能となったが、開発の遅れを取り戻すためにはデジタルマップナビとの同時開発は不可能であった。開発の精力はアナログマップナビに傾けられ、中村自身がそのLPLになることで、デジタルマップナビの開発は事実上、凍結された。
 ところが1985年、米国のETAK社が、地域限定ではあったがデジタルマップナビを発表し、デジタルマップとマップマッチングによってナビの自動化が可能なことが証明されてしまった。
 中村たちのアナログマップナビは1986年にR2(総合的な商品性・生産性・信頼性の確認)を完了したが、手動マップマッチングのシステムに、もはや出番はなかった。アナログマップナビの商品化は中止され、デジタルマップナビの開発が再開されたのである。
 複雑な思いを抱えながらも、中村たちには一刻の猶予もなかった。
 早期に商品化するため、高精度ジャイロケータと高度なマップマッチングの組み合わせで、地図にない道を走った後もマップマッチングが可能なようにし、主要道路だけで成立するシステムを目指すこととした。アナログマップナビでの経験が短期間での開発を可能とし、1990年、2代目レジェンドにデジタルマップナビは搭載されたのである。
 結果的に回り道となった開発ではあったが、積み重ねたノウハウはうそをつかない。デジタルマップ作成技術やマップマッチング技術などの基本特許を独占し、次世代ナビにおいてもホンダが先駆的役割を果たすこととなったのである。

2代目レジェンド

2代目レジェンド

ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータの意義

 ガスレートジャイロによる世界初のカーナビゲーションシステムは、市場で広く受け入れられることはなく、GPSナビの登場によって幕を下ろした。
 しかし、コース誘導を完全自立で実現した発想と技術は、カーエレクトロニクスの方向性を示す道しるべとなり、高度道路交通システム(ITS)技術の発展にも寄与している。
 その功績は、2017年、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会、IEEE(アイトリプルイー)*5によって、自動車産業界で初めて歴史的業績に認定され、改めて世界が知ることとなった。
 無から有は生じる。
 藤澤武夫が後進に残した言葉を思い出す*6

  • :IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers)は、米国に本部を置く、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会。世界190カ国以上に42万人を超える会員を擁し、コンピューター、バイオ、通信、電力、航空、電子などの技術分野で指導的な役割を担っている。地域社会や産業の発展に多大な貢献をしたとされる歴史的業績を「IEEEマイルストーン」として認定する制度を1983年に制定し運用している。過去の主な認定実績は以下の通り
    ・東海道新幹線(2000年 東海旅客鉄道(株))
    ・黒部川第四発電所(2010年 関西電力(株))
    ・アポロ月着陸船(2011年 ノースロップ・グラマン社)
  • :本田宗一郎とともにホンダを躍進させた藤澤武夫は、1955年のホンダ社報で農業用エンジン事業への参入に触れ、企業活動における「無から有をうむこと」の重要性を説くとともに、従来の殻を破ろうとする悩みこそが創造の母体であるとした。この考え方は「ないものをつくれ」と意訳され、ホンダのものづくりの精神として脈々と受け継がれている
ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータとIEEE受賞盾(ホンダコレクションホールにて2023年撮影)

ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータとIEEE受賞盾(ホンダコレクションホールにて2023年撮影)