第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第3節 南米

第3節 南米

二輪車市場がないに等しい地に足を踏み入れて、50年以上が過ぎた。
それは、初めから苦労の連続だった。
難航する工場建設。度重なるインフレによる不況の波。
圧倒的なシェアを獲得しながら、存続さえ危ぶまれた時もあった。
しかし、市場から多くの企業が撤退する中で、ホンダは踏みとどまった。
ホンダが去ってしまったら、製品を使っているお客様や販売店はどうなる。
苦しい時でも逃げずに、地域のために尽くしたい。
時代の変化に翻弄されつつ、地域の発展とともに成長してきた南米地域のホンダ。
日本から遠く離れた地で奮闘を続けた者たちの言葉には
ホンダの精神が宿っていた。

種を蒔かなきゃ木は生えない
まずはブラジルに二輪車市場をつくろう

 海外における本格的な事業活動を、欧州・アジアへと広げたホンダは、1960年代終わりになると次なる地として、南米最大の国、ブラジルに目を向けた。軍事政権下ながら高度経済成長を加速させようとするブラジル政府によって、1968年に海外からの輸入が解禁されると、日本のさまざまな企業が進出を模索し始めた。
 「我々もさっそく市場調査を始めましたが、インフレは年率15%だし、通貨の単位切り下げもしばしばあり、インデクセーション(通貨価値修正)もある。これは一筋縄ではいかない、という感じでした」(元ホンダ・モトール・ド・ブラジル〈以下、HDB〉 支配人、元モトホンダ・ダ・アマゾニア・リミターダ〈以下、HDA〉 初代社長 飯田修)
 とはいえ、当時のブラジルは1億2,000万の人口を有し、天然資源も豊富、世界第8位の生産台数を誇る自動車工業国でもあった。市場としてのポテンシャルは高いと考えられた。
 「それなのに二輪車といえば、細々と現地生産されていた欧州のスクーターが全国で月200台から300台売れているだけ。二輪車の市場そのものがないに等しい状態でした。だから、まずは市場をつくらなきゃいけなかった。種を蒔かなきゃ木は生えませんから」(飯田)
 1971年、サンパウロ州サンパウロ市に現地法人としてHDB(後に二輪車生産会社HDAに統合)を設立。販売目標は年間3,600台という、ささやかながら南米での本格的な二輪車の輸入販売を開始した。
 市場を一から開拓するためにまず始めたのは、二輪車のイメージを一新することだった。
 「当時ブラジルで二輪車というと、低所得者層が乗る、汚くて危なくて壊れやすい乗り物とされていました。だからまず我々は、ホンダの二輪車はこれまでとは全然違う乗り物だと、強く印象付ける必要がありました」(元現地初採用アソシエイト*1 キイチロウ・スズキ)
 そこで、初期のターゲットを富裕層に絞り、CB750 FOURなどの上位機種を中心に販売し、テレビコマーシャルをはじめ広告によるイメージ戦略や、販売店主催によるユーザーへの安全運転講習会などを積極的に展開した。ブラジルの人々に、二輪車に対する好印象が徐々に定着し、販売は伸びていった。
 「イメージ戦略が功を奏したのは、販売店の方々が我々の考えを理解し、協力してくれたから。市場調査のころからよく話し合ってきたことが功を奏しました」(飯田)
 1974年には二輪車の輸入販売台数は1万2,000台に達した。ブラジル政府が輸入を解禁した1968年から始まった「ブラジルの奇跡」と呼ばれる経済発展が、後押しとなった。しかし、1973年の第一次石油危機(オイルショック)がブラジルにも影響を及ぼし、経済状況は一転する。インフレが進行し、対外債務の増加や外貨不足などから輸入に対する締め付けが厳しくなっていった。このままでは販売店に商品が供給できなくなる。輸入に頼らず商品を供給できる生産プロジェクトの推進が急務となった。
 「現地でつくって現地で売るのがホンダですから。初の海外生産工場であるベルギーから帰国したばかりの私に、ブラジル行きの命が下りました」(元ブラジル生産プロジェクト 初代コーディネーター 深津賢輔)
 販売を順調に伸ばしていたホンダは、次の策として、1974年初め、すでにサンパウロ州スマレ市に45万坪の工場用地を取得していた。そこで、この地を生かそうと、1974年の年末に、ブラジルの商工省に生産許可を申請した。だが、国内資本優先策をとる商工省は容易に生産許可を出さないばかりか、預託金制度を導入するなど輸入規制を一段と強化した。HDBは、一気に存亡の危機に立たされたのである。

  • :世界中のホンダで働く従業員一人ひとりを、ホンダではアソシエイト(仲間)と呼ぶ
当初日本からの駐在員は12名 設備担当のホンダエンジニアリング(株)出張者、ブラジル人アソシエイトを加えた約50名で工場建設に着手

当初日本からの駐在員は12名
設備担当のホンダエンジニアリング(株)出張者、ブラジル人アソシエイトを加えた約50名で工場建設に着手

アマゾンを選んだ理由は、そこに歓迎してくれる人がいたから
マナウス二輪車工場建設

 生産ができなければ南米でのホンダの将来はない。スマレの用地の代替となる工場立地を探るうちに急浮上したのが、アマゾン川流域最大の都市、アマゾナス州マナウス市だった。
 大西洋の河口から赤道直下を西にさかのぼること約1,500km。当時、ブラジル政府はアマゾン地域の開発のために、経済・流通の要所であるマナウスにフリーゾーン(関税優遇策などを付与する経済特区)を設け、商工業誘致を行っていた。ここなら関税が低いうえ、ブラジルの国策に協力することもできる。
 「でも、マナウスを選んだ最大の理由は、現地の人たちが歓迎してくれたことです。住民は働く場所を必要としているし、アマゾナス州やスフラマ(マナウス自由貿易特区管理庁)、日系人会の皆さんも、ホンダにおいでよと言ってくれる。やっぱり望まれる場所に行くのがホンダじゃないか、と思いました」(深津)
 しかし当時、ホンダの役員にマナウスに行ったことのある者など一人もおらず、専務会では当初、無謀という意見が出ていた。が、現地を調査したスタッフの熱い説得に、役員の雰囲気も変わっていく。
 「当時、ホンダでマナウスに行ったのは、私と飯田さん、マナウスの初代工場長になる加藤さんの3人だけ。全員まだ30代前半です。そんな若い連中の提案を、最終的に受け入れてくれた当時の役員はすごかった。単に『有望な市場だから』ではなく、『夢のある場所なら行ってみよう』という感じでした。やっぱり経営陣もロマンがあるのだと嬉しく思いました」(深津)
 こうして1975年7月、ホンダと現地販売代理店モト・インポルタドーラ社の共同出資により、アマゾナス州マナウス市に二輪車生産会社、HDAマナウス二輪車工場が誕生。翌年8月、生産プロジェクトが認可された。

現地の人々の協力により、難工事も異例の速さで完成

 1975年10月に始まったマナウス二輪車工場の建設は難工事となった。気温40℃を超える暑さ、湿度80%、ワニやアナコンダ・毒蛇・ジャガーにも遭遇する。だがそれ以上に困ったのは、建設機器が手に入らないことだった。プレス機械の据え付けは、本来なら地下に基礎を築いてクレーンで設置するのだが、300tの機械を吊り上げる大型クレーンがない。
 「みんなで知恵を絞って出たのが、基礎を砂に埋め、その上にプレス機を置き、人海戦術で砂をかき出しながらジャッキで下ろすという方法。ピラミッドと同じ工法です」(元マナウス二輪車工場 初代工場長 加藤和平)
 だが、最終段階だけは人力ではできず、スフラマの長官らの口利きで、発電所のクレーンを夜間だけ借りることができた。
 「巨大なクレーンや機械を運ぶには、道路を封鎖しなきゃならないし、道路を横切る垂れ下がった電線や信号機を持ち上げたり、一度切ってつないだりしなくてはならない。でも、自治体も警察も電力会社も、ホンダのためなら、と協力してくれた。歓迎される場所を選んでよかったと、つくづく思いました」(深津)
 こうした地域の協力が得られたのは、現地の人々の温かい人柄に加え、ホンダの地域に対する誠実な姿勢があったからではないだろうか。ホンダは、地域の人々や社会との共生を重視し、マナウス工場でも浄水施設をつくり、安全についても日本と同等の設備を備えた。
 「共同経営者も工業省やスフラマの人たちも、みんな自分のことのように自慢していました」(加藤)
 こうしてマナウス二輪車工場は、10カ月という異例の速さで完成した。

プレス機械を設置する大型クレーンは、地域の協力も得て、水力発電所から夜間だけ借り受けた

プレス機械を設置する大型クレーンは、地域の協力も得て、水力発電所から夜間だけ借り受けた

マナウス二輪車工場

マナウス二輪車工場

品質は人を育てることから
初の生産機種は国民車CG125

 工場建設の一方で、現地での従業員募集も進められていた。採用されたアソシエイトたちは生産トレーニングを受ける。しかし、当時マナウスではさまざまな工場誘致が始まったばかりで、住民たちは工場で働くとはどんな仕事なのか分からない。しかも、日本からの駐在員にポルトガル語を流ちょうに話せる者など一人もいない。日系の人たちに助けられることもあったが、すべて通訳できるわけではないのは無理もないことであった。
 そこで加藤たちは、作業標準を絵に描いて説明することもよくあった。
 「でも、ブラジルの人たちはとにかく真面目で一所懸命」(加藤)
 ただし、慣習や国民性の違いがあった。
 「日本の人たちは計画を立てて時間通りにやる。ブラジル人は大まかに決めて、どうにかなるさという感じ。最初はギャップもありましたが、きちんと説明を受けて納得すれば、何の問題もありませんでした」(元マナウス二輪車工場立ち上げメンバー、後にスマレ四輪車工場 シニアダイレクター オラシオ・ナツメダ)
 駐在員とアソシエイトたちは、食事やサッカーを通じてさらに交友を深めていった。
 「ランチの時に話すと、現地には裕福でない家も多くて『このご飯を家族に食べさせたい』という人がいる。そこで時々、奥さんや子どもを招いて、職場を見てもらうことにしました。一緒に食事をして、お土産に文房具を渡したりして。そういうことでお父さんの仕事を理解し、工場を誇りに思うようになってくれました」(加藤)
 人材育成を進めながら、工場の稼働に合わせてどんな機種を生産するかが検討された。アソシエイトのほとんどが初心者であるため、最初は1機種に絞ったほうが望ましいと考えられた。富裕層向けの高級車ではマーケットに限りがある。将来を考えたら大衆向けの機種を生産して二輪車の大衆化を図るべきとの結論になった。
 しかし、世界的な大衆車スーパーカブは、ブラジルでは人気がなかった。
 「広大で起伏の多いブラジルでは50ccはパワー不足。そのため125ccをシビルミニマム(生活水準車)にしようと決めました」(飯田)
 最初の生産機種となったのは、CG125。高品質・低価格を訴求し、イメージキャラクターにサッカーの国民的英雄を起用するなど販促展開も功を奏し、1976年の生産開始とともに大ヒット。国民的ビジネスバイクとして定着していく。翌年にはホンダは二輪車市場で75%のシェアを獲得。販売店からは増産の要請が相次いだ。
 しかしマナウス工場では、立ち上げから数年間は設備の増設や増産には慎重だった。まずは品質を第一に考え、アソシエイトたちの技術向上に努めた。小さくはじめて、大きく育てる、というホンダの方針を守り、堅実に進んでいった。

HDA最初の生産機種CG125

HDA最初の生産機種CG125

品質を第一に考えアソシエイトの技術向上に努め生産を進めたCG125

品質を第一に考えアソシエイトの技術向上に努め生産を進めたCG125
日本と同等の品質を目指した

度重なるインフレ。それでもホンダは逃げない

 マナウス二輪車工場は1980年代に入ると、一転積極的な事業拡大を開始した。隣接地の買収など大規模な設備投資を行い、海外への輸出もスタート。新市場を狙い、CB400などの上位機種の生産も始めた。事業拡大に伴い、従業員も最大時はサンパウロの販売会社とマナウスの生産会社合わせて、3千数百名まで増員された。
 ところが、ここで思わぬ事態が起こる。第二次オイルショックによる国際収支の悪化や、メキシコに端を発する累積債務問題がブラジルの不安定な経済を直撃。インフレが高進し、経済不況に陥った。ホンダも1983年から1984年、多額の赤字を抱えることとなった。
 「1980年代初めの事業拡大が性急すぎました。結局、輸入販売会社と生産会社を一体化するなどして総資産を圧縮し、事業規模を身の丈にあったものに戻すことで、なんとか赤字を解消することができましたが、大変でした」(飯田)
 この事業縮小に伴い、約700名のアソシエイトが、一時的ではあるが職を失うことになってしまった。
 「仕事のない人は掃除に回ってもらったり、芝生を植えてもらったりしましたが、それでも余った人には辞めてもらわなければならなかった。幸い2年で回復したので、多くはまた呼び戻すことができましたが」(ナツメダ)
 1985年にブラジルの軍事政権は終わりを告げたが、翌年に3桁の通貨の単位切り下げ、物価・貸金・為替の凍結、インデクセーション廃止が施行されると、ブラジル経済は大混乱に陥り、ハイパーインフレの時代に突入した。
 「100レアルの給料が、使う時には50レアルの価値しかない。給料をもらったら、みんなその日に1カ月分の買い物をする、そんな状況でした」(元マナウス二輪車工場 シニアダイレクター イサオ・ミゾグチ*2
 こうした異常事態を、ホンダはさまざまなアイデアで乗り切ろうと苦心した。
 「駐在員の上司が完成車を飛行機で運ぶと言うのです。マナウスからトラックで都会まで運ぶと15日かかって、金利で15%も食われてしまう。飛行機代をかけても明日売った方が安く上がる、とね」(ナツメダ)
 だが、こうした苦心にもかかわらず、1991年から1992年ごろになるとホンダの赤字は深刻さを増し、再び要員の削減を余儀なくされた。
 「本当にたくさんの人が仕事をなくした。せっかく育った人たちにやめてもらわなければならないのは辛い、二度とあってはならないと思います」(ナツメダ)
 現場の第一線で働くアソシエイトだけではなく、管理職も含めて均等に30%の割合で削減が行われた。
 「自分が辞めるからスタッフを一人でも多くの残してくれと、言ったこともあります。でも、上司に言われました。『辞めた人が戻ってくる工場は誰が立て直す?』と。戻ってもらえるようになった時は、こちらから迎えに行きました」(ミゾグチ)
 1994年、カルドーゾ大蔵大臣(後の大統領)がレアルプラン(価格安定化政策)を施行すると、インフレはようやく沈静化した。この機を待ち続けたホンダは直ちに本格的な活動を再開。1997年には二輪車販売で90%を超えるシェアを獲得した。ホンダは一体いつの間にこの圧倒的シェアを勝ち得たのか。
 「ハイパーインフレの時、ブラジルを見捨てた企業はたくさんあります。でも我々は、ホンダは絶対なくしちゃいけないと頑張った。つぶれたらこれまで買ってくれたお客様のアフターケアができなくなりますから。そういうホンダの姿をお客様は見ていてくれたのだと思います」(ミゾグチ)
 「経済が最悪の時も、我々は最低限の商品だけは販売店さんに供給し続けました。販売店をつぶすわけにはいかないから、損を承知で供給した。苦しい時もホンダは逃げない。それを知っているから、販売店の皆さんも付いてきてくれたのでしょう。もちろん、お客様も」(飯田)
 「インフレ抑制のため価格統制され、大蔵大臣に値上げの陳情をした時、大臣が『どうせマナウスで儲けた金を日本に送金するのでしょ』と言うので、『我々は設立以来、全収益をこの国に再投資しています』と答えました。すると大臣は工場まで来て『私の責任で値上げを許可する』と言ってくれた。やはり本気で地元のためになろうとするホンダの真面目な姿勢は、どの国でも必ず信頼を得られるのだと思います」(深津)
 ブラジル経済がようやく安定化した1994年以降、ホンダの二輪車販売は毎年約80%のシェアを維持していった。
 「ブラジルでは『二輪車=ホンダ』というくらいに、ホンダブランドへの信頼は高いです。ただそれだけに、お客様の目は厳しい。ちょっとした不具合で『ホンダがなぜこんなものを…』と苦情がきます。そういった声に応えていくのが我々の使命だと思っています」(元HDA マナウス二輪車工場 副社長 鶴西幸博)
 1998年には後に南米のスタンダードモデルへと成長するブラジル版スーパーカブ C100 Bizの生産を開始。その後も販売台数を順調に伸ばし、2006年にはブラジルの年間販売台数が100万台を突破。加えて、世界75カ国に向け、年間10万台以上の輸出も行うようになった。
 「1980年代に経営が悪化した時、生産会社と販売会社を一体化したこともあって、ブラジルでは工場と営業部門の連携が極めて良い。ブラジルの二輪車がここまで成長できたのは、お互いに協力し、叱咤激励し合ったおかげだと思います」(鶴西)

  • :イサオ・ミゾグチ=2014年4月〜2021年3月 本田技研工業株式会社 本部執行役員(2020年4月から執行職)、南米本部 本部長、ホンダ・サウスアメリカ・リミターダ 取締役社長、モトホンダ・ダ・アマゾニア・リミターダ 取締役社長、ホンダ・オートモーベイス・ド・ブラジル・リミターダ 取締役社長を兼任
C100 Biz

C100 Biz

ブラジルならではの環境対応車

アルコール燃料二輪車、CG125ALを発売

サトウキビ由来のアルコールをガソリンの代替燃料として生産しているブラジル。
1981年、二輪車では他社に先駆けてガソリンと遜色のない運転のしやすさを確保したCG125ALを発売。

フレキシブルに燃料選択が可能な二輪車(FFM)を世界で初めて発売

新開発の燃料供給・噴射制御システムの採用により、バイオエタノールとガソリンをフレキシブルに混合し使用可能なCG150 TITAN MIXを2009年にブラジルにて発売。続いてNXR150 MIX、Biz125Flexと機種を拡大。市場では環境・安全に対するホンダの積極的な取り組みに関心が高まっている。