第Ⅰ章 経営

第4節

共生と変革の時代

多様化する社会とともに紡ぐ新たな夢

2009-2021(伊東孝紳・八郷隆弘)

2008年9月のリーマンショックを契機とした世界同時不況に追い打ちをかけるように
2011年に入ると、3月11日に東日本大震災、7月から年末まで続いたタイ洪水と、自然災害が重なった。
さらにフィット ハイブリッド、ヴェゼル ハイブリッドの複数回にわたるリコールや
グローバルでのエアバッグシステムのリコールが発生。
2020年には新型コロナウイルスのパンデミックなど、危機的な事態が立て続けに起きる中
モビリティ業界は電動化に代表される、100年に一度といわれる大変革期を迎えていた。
不確実性の高い社会状況の中、ホンダは自らのフィロソフィーに立ち返り
時代の変化を見据え、未来を切り拓くチャレンジを続けていく。

世界同時不況の危機的状況下、伊東が社長に就任

 2009年、リーマンショックを契機とする世界同時不況のただ中にあって、福井威夫から経営のバトンを託されたのは第七代社長となる伊東孝紳である。
 伊東はホンダ入社以来、車体設計を中心に四輪車の研究開発に取り組み、量産車世界初のオールアルミボディー*1を持つNSXの車体開発も担当している。それまで歴代社長が一貫してエンジン開発者であったのに対して、伊東は初めてエンジン開発を経験していない社長だった。ホンダはこれまで、市販車では世界で初めて米国マスキー法をクリアしたCVCCエンジンをはじめ、バルブタイミング制御技術VTECを採用した高出力エンジン、そしてモータースポーツの世界でも歴史に残るエンジンを開発・生産し続けている。これまでのホンダの躍進は、エンジン技術が文字通り原動力となっていた。一方、伊東は、車体設計に携わった後、本田技術研究所所長・鈴鹿製作所所長・四輪事業本部長を歴任。ホンダの特徴的な「販売(Sales)」「生産・生産技術(Engineering)」「量産開発(Development)」の一貫したフローであるSED体制を現場の責任者として経験したことで、ホンダの事業を俯瞰できていた。
 「エンジンが技術者の憧れ。エンジンがクルマの性能を決めていた時代は確かにあったと思います。けれどクルマには今、ただ速いだけでなく居住性や燃費のよさといったトータルの性能や商品価値が求められています。総合的な技術を磨いて、ホンダブランドの確固たる地位を築いていくことが私の使命だと考えています」*2この発言に伊東の基本的な姿勢が集約されている。

  • :1990年当時、ホンダ調べ
  • :『週刊ダイヤモンド』編集長インタビュー 2009年10月10日号

「ホンダは救われた」逆境こそ変革の好機

 社長就任後、世界同時不況がホンダの各事業に甚大な影響を与える中、伊東は、こんな言葉を残している。
 「ホンダは救われた」
 川本・吉野、そして福井の時代にかけては、日米貿易摩擦や、かつてないほどの円高、自動車業界再編の波など、さまざまな試練に直面していたが、総じてホンダの事業は順調に推移していた。リーマンショック以前には、V8エンジンにFRレイアウトのレジェンドや、NSXの後継車、ACURAチャンネルの日本導入計画が進展していた。ところが、そのころ四輪事業本部長を務める伊東は、ホンダが推し進めようとしていた高級化・大型化路線に違和感を抱いていた。伊東は後にこう話している。「今から(他社が先行する)高級化・大型化路線を追いかけても間に合わない。時代も変わる。大多数の生活者のニーズに密着しないと、日本の現場と雇用が危ない。それで軽に力を入れましょうと進言しました」
 もちろんすでに多くの資金をつぎ込んだ大型プロジェクトを中止することは難しく、路線変更は容易ではない。伊東はそれでも新しい軽自動車にこだわり続けた。その後に起こったのがリーマンショックであり、世界同時不況である。ホンダはこれまでにない大きな経営危機に直面した。経営の健全性確保を最優先した当時の社長である福井威夫は、内々に次期社長就任を打診していた伊東とともに、NSXやACURA導入計画の中止、埼玉製作所寄居工場・さくら研究所の稼働延期などを矢継ぎ早に決定したのである。
 「あの時、高級路線をそのまま継続し、先行すべき体質改革が遅れていたら、ホンダは瀕死の重傷を負っていたかもしれない」と伊東は述懐する。「ホンダは救われた」という言葉には、そのような伊東の気持ちが表れている。
 リーマンショック以前から、免許を取得できる年齢になったらクルマを買うという風潮が薄れ、若者を中心にクルマに無関心な層が広がり始めていた。また、車格や装備を重んじる高級志向も崩れ始め、クルマの位置付けはぜいたく品から生活必需品へ移行するようになってきた。こうした価値観の変化を、伊東は読み取っていた。
 逆境が、組織を、経営を変える。もとよりホンダの創業は、日本が敗戦した直後の大混乱期であり、国中が逆境という中で産声を上げ、急成長を遂げてきた。
 2009年6月の社長就任後、伊東はなおも続く円高に対して、安易に海外生産にシフトすることはしなかった。円高に耐える事業体質をつくりあげるべく、生産の合理化・国内販売の強化に力を注ぐ。その施策の一つとして改めて打ち出したのが、軽自動車への注力だった。

SED体制を見直して
「お客様視点」と「創る喜び」を取り戻す

 社長就任時の挨拶で、伊東はこう述べている。「私たちの提供・提案する商品・技術は、これまでにも増して、時代やお客様の要請に先駆けたものでなければならない。常に先進的であり続けるためには、先進的なリサーチが求められる」と。
 厳しい経営環境の中で、即断即決の対応ができるよう、伊東は本田技術研究所(以下、研究所)の社長を1年間兼務することとなる。ホンダ本体と研究所のつながりがより密にならなければこの苦境を乗り切れない、そう考えたためだ。
 この時伊東が着手した改革の一つが、「SED体制」の見直しである。
 SED体制は、販売(S)、生産・生産技術(E)、量産開発(D)の各部門が有機的に結合しながら、売り上げ・業績向上、生産ラインの構築、新技術・新商品開発といった、それぞれの役割をブラッシュアップしていくホンダ独自の商品開発体制で、長い間製造業としてホンダが前進する原動力となってきた。もっとも、所帯が小さいころなら、互いのプロジェクトメンバーの顔が見えていて、コミュニケーションは良好だった。しかし、今や時代は変わり、会社の規模は格段に大きくなっていた。グローバル化も進展している。そのような中、S・E・Dの各部門が独自に仕事をしていると、それぞれが内向きになり、組織の間に見えない壁ができる。部分最適は可能であっても、全体最適を見失いかねない。部門間の調整にも時間がかかるようになってきていた。
 「新技術・新商品の開発や売上・業績の向上が、自己目的化しているのではないか」と伊東は危惧していた。社是にある「世界中の顧客の満足のため」という理念は、お客様視点に立ち、良いものをつくってお客様に喜んでいただくことを究極の目的としている。組織ごとの部分最適が進んでしまうと、得てして開発や営業の意向ばかりが強く全面に出る傾向があり、ものづくりの原点である生産の現場が、お客様の喜びを意識しづらくなってしまう。そうなってしまえば、「三つの喜び」の一つ「創る喜び」を失いかねず、結果として「買う喜び」も「売る喜び」も失ってしまうという危機感が伊東にはあった。ホンダのフィロソフィーに基づいた「創る喜び」を正しく実現するため、改革の手始めに、生産現場のホンダと開発現場の研究所との間の壁を取り払って、距離を近づけるべきである。そのような伊東の想いは後に結実する。

「世界六極体制」を強化し、新興国開拓に力を注ぐ

 国内基盤の強化に加えて、北米事業への依存度が高い企業体質からの脱却もまた、ホンダにとって喫緊の課題だった。北米マーケットは1960年代のスーパーカブでの開拓から始まり、シビック・アコードでその地位を盤石なものとし、さらにはアメリカ現地生産といったホンダの成長ストーリーとともに大きく発展を遂げた。まさに、ホンダの事業の根幹を支えてきた最重要マーケットだった。しかしそんな北米中心の状況に課題を感じていた伊東は、2004年に構築した、日本・北米・南米・欧州・アジア大洋州・中国の世界六極体制のさらなる整備を推進した。
 2008年のリーマンショック以来、販売台数は減少し、工場では稼働を停止して生産調整を迫られるなど、ホンダの経営は打撃を受けていた。ただし、日本や欧米先進諸国市場が低迷する中にあっても、経済成長著しい新興国、特にインドやインドネシアを含むアジア地域は、二輪車の販売台数において全世界の約7割を占め、四輪車生産台数では2009年度に過去最高を記録するなど、依然として拡大傾向が続いていた。
 ホンダが小型車や新興市場で出遅れた理由はさまざま考えられるが、その大きな要因の一つとして北米市場を中心に好調が続いてきた結果、時代の先を読むことも、チャレンジすることも怠っていたのではないかと伊東は考えていた。未曾有の危機的状況を迎えた今こそ、各地域の顧客ニーズに真摯に向き合い、それぞれの実情をより強く反映した世界六極体制へと整備する好機だと伊東は捉えた。各地域に自主自立を促し、「需要のあるところで生産する」という前提を堅持しながら、世界六極体制の立て直しに着手したのである。ホンダは、新興国の開拓にも力を注ぐこととなった。
 リーマンショックで経験した為替変動リスクを今後軽減するための施策も必要だった。そこで、日本・アメリカ・中国といった大きな生産能力を有する地域では、製品の7割から8割を為替リスクのない自国市場で消化し、残り2割から3割を世界で融通し合う効率的な体制の構築を目指す。併せて日本およびアジア地域では小型車、北米・中国地域では大型車というように、生産車種のセグメントを明確化し、車種の統廃合の検討も進めることになった。どちらかに偏ることなく、先進国・新興国を同時に攻めていく戦略にホンダは大きくシフトしたのである。

2011年10月中国で嘉陵ホンダの新工場が竣工

2011年10月中国で嘉陵ホンダの新工場が竣工

2012年6月インドネシアで新四輪車工場の建設開始

2012年6月インドネシアで新四輪車工場の建設開始

2012年7月中国で東風ホンダ第二工場の稼働開始

2012年7月中国で東風ホンダ第二工場の稼働開始

2012年7月マレーシアの四輪車工場で第二ライン建設開始

2012年7月マレーシアの四輪車工場で第二ライン建設開始

2013年7月タイで新四輪車工場の建設開始

2013年7月タイで新四輪車工場の建設開始

2013年11月ブラジルで新四輪車工場の建設開始

2013年11月ブラジルで新四輪車工場の建設開始

2014年1月インドネシアで新四輪車工場が稼働開始

2014年1月インドネシアで新四輪車工場が稼働開始

2014年2月メキシコで新四輪車工場が稼働開始

2014年2月メキシコで新四輪車工場が稼働開始

 ホンダは、創業者本田宗一郎が早くから「世界的視野」を唱え、その後、「世界にあるホンダ」を目指して現地生産・現地調達・現地雇用を推進、「社会が喜ぶ」という理念を着実に現実のものとしてきた。さらに川本・吉野の時代には社是の一部を変更し、「世界中の顧客の満足のために」という文言を付け加え、「世界的視野」を「地球的視野」へ改めている。伊東は「今まで以上に、『地域最適視点で、その地域の人々にどうやって貢献して、喜んでいただくか』ということにもっと真摯に取り組んでいかなければなりません」とアピールした。激変する時代の中、改めて「地球的視野」と「世界中の顧客の満足のために」というポリシーを、事業の実態として具現化させる決意の表明だったといえる。
 その後の2014年4月、ホンダは「2020年ビジョン(後述)」を実現するため、国内および海外の事業セグメントのさらなる見直しに着手した。これまでは日本を起点にグローバル展開を図ってきたホンダだったが、国内事業とグローバル機能の役割と責任をより明確にするため「日本本部」を立ち上げ、グローバル機能を有する組織と切り分けた。各地域がより一層の役割と責任を全うすると同時に、世界六極が有機的につながることでホンダの総合力を最大化させることを目指したのである。すべては顧客のニーズに迅速に応えていくための施策だった。

「良いものを早く、安く、低炭素で」
2020年ビジョンを発表

 2010年の新年、伊東はホンダの取り組むべき課題を大きく2つ挙げた。
 「一つはどのような時代であっても生き残り続けられる企業体質を作りあげること、もう一つはお客様に選ばれ、買っていただける商品と、それを具現化するものづくりを進化させることだ」こうした課題を踏まえたうえで同年6月、社長就任1年を迎えた伊東は、10年後の未来を見据え、「お客様視点で、良いものを早く、安く、低炭素でお届けすることに全力で取り組む」という「2020年ビジョン」を打ち出した。
 この時伊東は、創業時から続くホンダのフィロソフィーは変わることはないが、「時代は大きく変化している」と語っている。中でも特に「リーマンショックを契機とした世界経済の構造変化」と「環境意識の高まり」を重要課題として挙げている。これまでのように先進諸国が主導するものづくりやビジネス・サービスの体制は通用しにくくなり始めていた。早急に、新興国を含めたすべての国や地域の顧客のニーズを捉え、世界全体を視野に入れた企業活動の再構築を図らなければ、ホンダはこれからの時代を生き残れない。「2020年ビジョン」の背景にはこうした切実な危機感があった。これからのモビリティメーカーに期待されるのは、最高水準のエネルギー効率技術の確立と、CO2削減への取り組みだと判断した伊東は、こうした「時代の変化」を捉えながら、ホンダフィロソフィーに基づくものづくりの再強化を目指したのである。
 伊東は2020年ビジョンの意図するところを、こう説明している。
 「『良いもの』とはお客様が必要なものをホンダ独自の技術や知恵・工夫で魅力的な商品として具現化したものです。その『良いもの』を、お待たせすることなく『早く』、そしてお客様に『買って良かった』と喜んでいただける価格でご提供することが、今後のホンダの進むべき道と認識しています。また、CO2排出量を大幅に低減しなければ、パーソナルモビリティメーカーとしてのホンダの将来はないという強い危機感をもっており、その想いを『低炭素』という言葉に込めました」
 「これからの10年が勝負」「(ビジョンを)実現できなければ次の10年はない」という強い決意も併せて表明していた。そして、この長期戦略の展開にあたって、7月末から2カ月をかけて全国の事業所を行脚し、全従業員の3割にあたる約1万4,000人とダイレクトコミュニケーション(直接対話集会)を行ったのである。
 伊東が対話を通じて最も訴えたかったことは、「お客様をしっかり見よう、お客様の立場に立って、良いものを早く、安く、低炭素でお届けすることに全員で集中していこう」というメッセージだった。ともにホンダで働く仲間として、立場を超えて危機感を共有し、全社一丸となって取り組むことが、2020年ビジョンの実現に必要不可欠だとの想いだった。

成長路線を掲げて反転攻勢を図る

 ホンダはリーマンショック後の2009年3月期も、赤字転落を回避し、その後も順調に回復基調を堅持してきた。2011年1月31日に発表した、2010年4月から12月期の連結営業利益は5,236億円と、前年同期比約2倍に達し、売上高営業利益率は7.8%と業界最高水準となった。F1™世界選手権からの撤退、固定費の大幅な削減、設備・開発投資の抑制といった痛みを伴う改革が奏功した。
 世界同時不況への対応に終始した第10次中期計画(2008年から2010年)に対して、第11次中期計画(2011年から2013年)は反転攻勢に舵を切り、一気に成長路線への転換を目指す方針となった。「積極的な攻めの姿勢で変革を成し遂げ、ホンダの存在感を強めていく」ことを中期計画のスローガンに掲げ、世界各地域における開発・購買・生産の現地化をさらに強く推し進めることとした。
 四輪事業については、先進国での盤石化と新興国での飛躍的な成長により、全世界で600万台以上の販売を目指すと発信した。伊東はこの600万台という数字について、社長を退いた後、こう説明している。「この数字を達成したから、またはできなかったからどうだ、ということではない。600万台という数字でイメージを共有しないと具体的な行動にはならないし、お客様に喜んでもらえる商品を究めることができれば、結果として台数はついてくるという考えでした」
 2020年ビジョンで定めたように、各地域がそれぞれに目指す計画を立案して、「良いものを早く、安く、低炭素で提供する」ことができれば、各地域での販売力は自ずと強化される。世界各地域でホンダが一層の存在感を増し、さらに確固たる地位を築いていくことこそが、四輪事業の継続的な成長へとつながり、その結果として数字は積み上げられるはずである。それが「600万台」という数字に込めた想いであった。

東日本大震災発生も被害を最小限に抑え込み
SED体制の改革を進める

 こうした成長路線がスタートした直後の、2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震に端を発する東日本大震災が発生。グローバル四輪の研究開発拠点である栃木県の本田技術研究所四輪R&Dセンターは甚大な被害を受ける。また、埼玉製作所・鈴鹿製作所も一時生産中止に追い込まれた。
 ホンダは地震発生直後、青山ビルに「全社対策本部」を設置し、各領域の被災状況や販売会社・取引先・従業員の安否確認を急いだ。併せて開発・購買・品質・管理・組合一丸となったオールホンダ体制で早期復興に取り組んでいく。伊東自身、第1報に本社で接するや、オートバイで被災地に出向いてその目で状況を確認した。栃木研究所の被災状況は深刻で、設計ルームの天井が崩落するなど、予想を超えた被害を目の当たりにする。機能回復までには相当の時間を要すると判断した伊東は、その場で同研究所のサテライトオフィスを鈴鹿製作所に設置することを決断する。
 緊急事態に伴う措置ではあったが、同研究所のサテライトオフィスを鈴鹿に設置したことにより、開発・設計スタッフと生産現場の距離が近くなり、結果として双方に多くの学びをもたらした。実は震災が起きる前から、研究所の一部機能を生産現場近くに移転する構想はあった。ものづくりの根幹をなす生産現場と研究開発部門のより良好な関係が不可欠であると考えていた伊東は腹案を練っていたのである。ものづくりのメーカーとして発展し続けるためには避けて通れない、SED体制の抜本的な改革の一環としてであった。くしくもこの時期、伊東が国内市場の起爆剤として注力していた新しい軽自動車の開発が佳境を迎えており、その生産拠点である鈴鹿製作所と研究所のスタッフが密に交流できる環境の構築を急いでいたことも追い風となった。
 研究所機能の生産現場への一部移転は、人の異動が伴い、本人の納得や組合との折衝、社内調整などが不可欠だ。しかし、大震災という非常事態にあっては、「誰もが納得してくれ、迅速に改革を遂行することが可能となった」と、後に伊東は語っている。ピンチでも後退せず、自らを前進させる機会に転じたのだった。
 その後も、度重なる災害に、ホンダは悩まされ続けることになる。大震災の半年後の10月には、タイ北中部における断続的な降雨により大規模な水害が発生した。タイ政府の協力を得ながら、全社を挙げて急ピッチで復旧に取り組み、2012年3月26日にホンダオートモービル(タイランド)カンパニー・リミテッド(HATC)で四輪車の生産を再開することができた。しかし、水害の影響により、二輪車・四輪車・汎用製品の調達部品の供給が遅れ、生産台数は大きく下回った。日本でも大震災直後の原発事故による電力使用制限や部品調達の遅れなどにより、幾度となく生産調整が実施される。四輪車販売世界600万台への挑戦は逆風にさらされることとなった。

新時代のホンダを代表する軽自動車
N-BOX誕生

新型軽乗用車「Nシリーズ」第1弾となるN-BOXを発売(2011年)

   新型軽乗用車「Nシリーズ」第1弾となるN-BOXを発売(2011年)

 リーマンショックからの世界同時不況、東日本大震災、タイの水害と、立て続けに危機的状況に直面したホンダは、2011年12月、低迷していた日本市場に起死回生のニューモデルを送り出す。「New Next Nippon Norimono(ニュー ネクスト ニッポン ノリモノ)」のキャッチコピーで登場した、スーパーハイトワゴン型の軽自動車、N-BOXである。
 「N」には「人が乗るノリモノ」という意味が込められ、同時に1967年に登場したベストセラーカーの軽自動車N360からその名を戴いている。N-BOXの発売には、「これからの新しい日本の『乗り物』を創造する」というホンダの力強いメッセージが込められていた。
 N-BOXは、周囲を見渡せる140cm前後に目線の高さを設定し、安心感あるワイドな視界を実現。自動車アセスメントで最高評価を獲得した登録車並みの頑強なボディと、ホンダの基本思想、「M・M(マン・マキシマム メカ・ミニマム)」を色濃く反映したゆとりある空間が市場で高く評価され、登録車を含む新車販売台数で4年連続、軽四輪車販売台数では6年連続で1位を獲得する。その後も、N360の意匠をほうふつさせるN-ONEや、N-WGN・N-VANが続々と投入され、「Nシリーズ」は、軽自動車市場におけるホンダの存在を強くアピールし続けることとなった。
 一方で、N-BOXを生産する鈴鹿製作所では、その後、「SKI(鈴鹿・軽・イノベーション)プロジェクト」が始動する。開発・購買・生産・営業のメンバーで構成され、軽自動車の開発から生産・販売までをトータルで考えるチームである。SKIにより、メンバー間の意思疎通が活発化し、機種の企画・開発スピードが向上。Nシリーズというヒット商品が生み出され、ホンダの軽は快進撃を続けることとなった。スーパーカブの生産工場として誕生した鈴鹿製作所は、初期のホンダの急成長を支え、時を経て度重なる苦境からホンダを前進させる駆動力の役を担ったのである。

初代N-BOXを発売して以来、9年6カ月(115カ月目)で「Nシリーズ」の累計販売台数が300万台を突破

初代N-BOXを発売して以来、9年6カ月(115カ月目)で「Nシリーズ」の累計販売台数が300万台を突破

ハイブリッド車やエアバッグの品質問題に対応する

 日本をターゲットに大成功を収めたNシリーズに続いて、2013年、ホンダはグローバル戦略車として、3代目フィットを世界市場に投入する。3代目フィットは、徹底した現地化を推進しながら、同時に全世界的に最適な生産・調達をすることで大幅なコストダウンを図る「世界六極同時開発」の第1弾である。まさしく世界六極体制進化の試金石となるモデルとして大きな期待が寄せられていた。
 3代目フィットに搭載されたハイブリッドシステムは、これまでにない革新的なものであった。モーターとエンジンが一体であった従来の「IMAシステム(Honda Integrated Motor Assist System)」と異なり、モーターとエンジンを高効率でつなぎ、統合的に最適な制御を行う、「i-DCD(Intelligent Dual Clutch Drive)」と呼ばれる極めて緻密なシステムを新規に開発。新しい技術への果敢なチャレンジだったが、3代目フィットは、この制御プログラムの不具合により、短期間で5回のリコール(回収・無償修理)を余儀なくされる深刻な事態を迎える。さらにヴェゼル ハイブリッドでも、3度のリコールを出した。
 伊東は、極めて複雑な制御を要する新システムの実用化にあたっては、エンジン部隊・トランスミッション部隊・シャーシ部隊が一体になって最適化を図る必要があったが、それが完璧でなかったことが、本質的な原因だと考えた。「現場の技術者は、『もっとほかのやり方がある』と思っていたに違いないが、結果としてマネジメントサイドが、その想いをくみ取れなかった結果ではないか」*3と、分析し、自戒する。
 相次ぐ不具合を受け、ホンダはこれまで以上に徹底して品質管理に取り組むことになる。しかしその影響を受けて、他の新車投入のスケジュールに遅れが生じることとなった。
 さらに追い打ちをかけるようにホンダを大きなトラブルが襲う。この時期にタカタ(株)(以下、タカタ)製エアバッグの不具合問題が顕在化したのである。
 ホンダ四輪車の約5割はタカタ製エアバッグを搭載していたが、2004年、北米においてホンダ車の交通事故時に、エアバッグの不具合が発生した。当初、原因は「ガス発生剤(インフレーター)」以外にあるとされていたが、明確な原因は不明のまま時間が流れた。ところが2007年ごろから再び、事故時のエアバッグの不具合が複数回続いた。
 ついに、2014年、アメリカ子会社(ホンダ米国法人)が米国運輸省道路交通安全局(NHTSA)の特別命令を受けて調査をした結果、タカタがエアバッグインフレーターのテストデータを誤って伝えた、または不適切な報告を行っていたと思われる情報を認識した。
 海外の自主・自立を尊重する世界六極体制ではあるが、半面、各地域で進めている対応の詳細までを本社が完全に把握できていたとは言い切れず、日本とアメリカという物理的・心理的距離が意思疎通の障壁になっていたことは否めない。
 タカタによる原因の究明が進まない中、ホンダは根本原因の究明を継続的に行いつつ、タカタ製エアバッグを搭載するホンダ車の大量リコールに踏み切った。「顧客の安全第一」を最大限尊重した経営陣の判断だった。

  • :『週刊東洋経済』独占インタビュー 2015年1月17日号
3代目フィット

3代目フィット