Me and Honda, Career Hondaの人=原動力を伝える

必ず全員を健康な状態で日本に帰す。武漢で危機的状況に立ち向かった人事責任者の想い

2020年初めに世界中で猛威を振るいだした新型コロナウイルス感染症。Hondaは中国にも拠点を持っていることから、多数の駐在員やその家族が武漢市にいました。絶対に全員を健康な状態で日本に帰すんだという強い気持ちを持って対応にあたった中島は、どのように危機を乗り越えたのでしょうか。当時を振り返りながら、中島の行動の根底にあった想いを紐解きます。

中島 秀明Hideaki Nakashima

東風本田汽車有限公司 総務部 副部長

1985年に新卒で入社し、浜松製作所にて生産現場のオペレーターを担当。1994年に異動し、人事領域の仕事に携わるようになる。その後熊本製作所や埼玉製作所、ホンダエンジニアリング(現在のものづくりセンター)など国内の事業所で働きながらキャリアを築く。2017年より中国に駐在し、コーポレート領域の業務に加えて、リスクマネージャー、コンプライアンスマネージャーを務める。

武漢市に残り、駐在員たちの帰国対応にあたった総務副部長

Hondaは世界中に現地法人や生産拠点を持っており、中国の東風本田汽車もそのひとつです。新型コロナウイルス感染症が猛威を振るいだした2020年初頭、多くの日本からの駐在員とその家族が中国の武漢市で過ごしていました。

武漢市にいた駐在員を無事に日本に帰すため奮闘したのは、中国に駐在し、東風本田汽車 総務部の副部長を務めている中島をはじめとした総務部のメンバーでした。当時、2019年12月末から2020年1月にかけては感染者が増えはじめていたのです。

中島 「2019年12月30日、武漢市当局から『原因不明の肺炎が発症している』という通達が発行され、『これはただごとではない』と思いました。SARSの再来が頭をよぎりましたね。その後2020年1月末の春節に近づくにつれて、感染者が増えていきました。春節で人の大移動が起こり、当時原因不明であった感染症はあっという間に中国全土に広がったのです」

2020年1月23日の春節初日、約半年振りに日本へ一時帰国する予定を立てていた中島。しかし、加速度的に感染者が拡大するだろうと察し、有事に備えるため帰国3日前にフライトをキャンセルし武漢市に残ることを決めました。

中島 「武漢市に残ることを総経理と副総経理*に申し出たところ、副総経理が自分も残ると言ってくれて、とても心強かったことを今でも覚えています。総経理には、有事に備えて一旦日本に帰国してもらいました」

*東風本田汽車の社長、副社長にあたるHonda社員

2020年1月23日午前5時頃、携帯電話のメールの着信音が何度も鳴りました。メールは武漢市にいた駐在員からで、『中国政府が23日午前10時に武漢空港と高速鉄道の駅を封鎖するそうだが、どうすればいいか』というもの。中島は慌てて飛び起き、対応にあたりました。

中島 「すぐに日系航空会社の武漢支店長へ連絡し、空港滑走路が午前10時に閉鎖されるのでその前にフライトできれば直行便で成田空港へ向かうことができることを確認しました。急いで駐在員に『この便を逃すと日本に帰れなくなるからとにかく空港に向かってくれ』と連絡したんです。

成田空港行きの便は9時40分頃無事にフライトしましたが、これは新型コロナウイルス感染症対応の序幕にすぎなかったのです。23日午前10時に武漢市が都市封鎖され、Hondaの駐在員とそのご家族、出張者の合計39名が取り残されてしまいました」

Honda(東風本田汽車)が単独で動いていては、武漢市に取り残されたメンバーの救出は困難な状況でした。中島は、水面下で中国にいる日本政府関係者と協議を進め、在中国領事館の植野公使が率いるチャーター機での邦人救出チーム(通称A チーム)とともに検討を重ねたのです。

中島 「Aチームの方々は自らの危険を顧みず、北京市から陸路で17時間かけて武漢に来てくれました。取り残された邦人を救うためにリスクを承知で駆けつけ、昼夜問わず全力で救出に取り組んでくれたAチームの皆さんの志と行動は、私の使命感をさらに高めるエネルギーになりましたね」

Hondaの行動が、他の日系企業の手本になる。適切な振る舞いが求められた脱出劇

▲無人となった武漢空港の様子

東風本田汽車は規模も大きく、武漢市でも地域に与える影響の大きい存在です。Hondaの行動は常に注目されることになり、適切な振る舞いが求められたのです。

中島 「Hondaの駐在員の行動は、武漢市に数百人いるほかの日本人に大きな影響を与えます。我々を参考にする企業が多く、行動ひとつで他の日本人を危険にさらすことになりかねない状況だったため、より慎重かつ安全な判断が求められました。

他社の日本人のなかには、個人で車を手配し封鎖されていない道路を使って武漢を脱出する方もいたそうです。しかし、私たちはそのような選択はしませんでした。他の日本人のお手本となるような行動を示すべきだと判断したのです」

邦人を救出するチャーター機の第1便は、2020年1月29日に飛び立ちました。空港までの高速道路が封鎖されていたので、検問を受けたり、空港にチェックインする前に体調を確認したりする必要があり、通常であれば1時間で空港に到着するところ3時間かかったのです。一行が検問を通過し検温をクリアするのを、中島は固唾を飲んで見守っていました。

中島 「第1便は1月29日の午前5時に日本へ出発し、午前8時半に羽田空港へ到着しました。終始後方支援にあたっていたため、無事日本へ到着したという連絡を受けたときは胸が熱くなりましたね。

翌日30日の午前には、チャーター機第2便も武漢市を出発し、副総経理と私以外の日本人社員やそのご家族は退避が完了しました。ほぼ徹夜で支援をしていましたが、第2便が成田に到着してからようやく安堵し、深い眠りにつきました」

中国にHondaの日本人社員が誰も残らないと、パートナー企業に不信感を持たせてしまう。中島はそう考え、ずっと武漢市に残るつもりでした。しかし、最終的には会社の判断により、2月17日に最後のチャーター機で日本に一時帰国することになりました。そして、3月8日に再び中国に戻ってくるまでは日本で過ごしました。

未知のウイルスが蔓延していることに対し、当初、武漢市に残された従業員は不安を感じていました。正しい情報が得られず、ある日突然規制が強まることもあり、中島も対応に苦労したといいます。しかし、中島は駐在員たちを安心させるためにとにかく情報共有を徹底しました。

中島 「パニックにならないよう、こちらで得ている情報をタイムリーにお伝えするようにしていました。そうすることで必要以上に不安を煽ることなく、皆さんの気持ちを少しでも落ち着かせることができたと思います。『全員を必ず健康な状態で日本に帰す』という使命感を持っていたので、徹底した予防措置で自己防衛に努めることも伝えていました」

副総経理と自分を除く37名を無事日本に帰国させることができたことを、中島はとても喜んでいます。

中島 「当時武漢市にいた駐在員やご家族、出張者は今も健康で生き生きと働いています。苦労しましたが、皆さんが元気で過ごしている姿を見られることが何よりも嬉しいです。全員元気に働いていることが一番の喜びですね」

“安全なくして生産なし”。全員健康なまま帰国させる強い意志の背景

中島は危機的状況でも強い使命感を持っており、不安な気持ちはありませんでした。とにかく駐在員やご家族の不安を和らげるために何ができるか、一刻も早く日本に帰すためにどうすればいいかということを常に考えていたのです。

中島 「私は、従業員の皆さんに幸せになってほしいというポリシーを持って仕事をしています。自分のことよりも人のことを優先し、そのために何ができるかを常に考えているんです。今回新型コロナウイルス感染症の対応により、その考えはさらに強くなりました」

中島が自分よりも周囲の人を優先し動いていたことは、2019年1月から2021年4月まで中島の通訳を務めた李 逸雯も実感しています。

李 「新型コロナウイルス感染症が武漢市から広がったことで、中国人の私たちですらパニックになってしまいました。しかし、外国人の中島さんが駐在員やご家族の皆さんだけでなく、私たち現地スタッフの安全確認も頻繁にしてくれたんです。

物資が限られていて1枚のマスクすら買えないときも『消毒剤やマスクは持っていますか?』と連絡をくれました。私の分を残してくれているとメールを見て知り、優しさに涙が出ましたね」

当時の危機的状況を乗り越えるうえで中島が念頭に置いていたのは、「安全なくして生産なし」というHonda創業者の本田宗一郎の言葉でした。

中島 「“安全なくして生産なし”。つまり、安全第一。この言葉を拠り所として、私は判断と行動をしてきました。この言葉をHondaに入社した35年前から意識していました。従業員の安全がない限り、企業活動はあり得ないと思っています」

その考えをより強くする出来事が、あるとき起こりました。

中島 「十数年前、私は不慮の事故でお亡くなりになられた方の告別式に参加したのですが、奥様は棺の横で泣き崩れ、父親の死を理解できないお子様たちは棺の周りで無邪気に遊んでいたのです。

それを目の当たりにして、夫と父親がいない辛い人生を歩むことになったご遺族の様子を見て胸が締め付けられる思いでした。同時に、二度と同じことを繰り返してはならないと強く胸に刻んだのです。

それ以来、『会社で働く従業員を、家から出たときと同じ状態でご家族のもとにお返ししなければならない』と肝に銘じています。当たり前のことですが、この当たり前ができないと誰も幸せにならないんです。だからこそ、新型コロナウイルス感染症の対応時も、駐在員を健康な状態で日本に帰さなければならないと強く思って行動していました」

人を大切にするHondaの魂が、この先もずっと受け継がれていくように

▲通訳を務めていた李さんと共に

新型コロナウイルス感染症の対応に苦戦しているとき、中島は世界各国にいるHondaの仲間たちから連絡をもらいました。それが、危機を乗り越えるための原動力となったのです。

中島 「これまでのキャリアのなかで関わってきた多くの方から励ましの言葉をもらって非常に嬉しかったです。

人事部門の役割として“経営の参謀と従業員の守護神”という考え方があるんですが、駐在先の北米から連絡をくれた先輩が『中島さんはまさしく従業員の守護神として、現場の第一線で従業員を守っている』と言ってくださり、励みになりましたね。大変多くの方が自分を気にかけてくれました。そういった思いやりを持つ方が多いのはHondaの素晴らしいところだと思います」

Hondaの生産販売活動を支えていくために、総務として、従業員が本業に打ち込める環境を作っていきたいと考えている中島。Hondaに入社してから培ってきた会社愛は、どこに行っても変わらないと断言します。

中島 「私は工業高校を卒業して現場で働きはじめ、その後総務に異動してこれまでの業務とは180度違う仕事をすることになりました。当時の上司には相当迷惑をかけましたが、周りのサポートがあり協力してもらいながら仕事を全うし、今に至ります。

Hondaは努力している人をちゃんと見てくれていて、チャンスを与えてくれる会社です。基本理念である人間尊重の自立、平等、信頼の考え方が脈々と受け継がれ、実践されている会社だと思いますね。

私は、このHondaの考え方と企業文化がとても好きです。人を大切にするHondaという会社をさらに良くして、次世代に残していきたいと考えています。これからHondaを目指す方は、安心してHondaに入社して自分の力を存分に発揮してほしいですね」

未曾有の事態でも信念を貫き、従業員やご家族を健康な状態で帰国させるという重大な任務をやり遂げた中島。これからも自身の信念を持って、Hondaへの貢献を続けます。

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