燃料タンクをエンジンの下に配置する車体レイアウトを採った初代NSR500(開発記号「NV0A」)は、1984年のFIMロードレース世界選手権における最速の一台ではあったが、様々な点で未熟だった。しかし、当時のHRCに、挑戦的な上下逆転レイアウトを熟成させていく余裕はなかった。そこで、NSR500の2代目モデル「NV0B」は正攻法で形作られた。そして、フレディ・スペンサーによって圧倒的な強さを見せ、栄冠を勝ち取ったのである――
空前絶後。だからこそ語り継がれる、ホンダらしいマシン
西ドイツGPをスペンサーがNS500で圧勝したことは、この3気筒の戦闘力の高さを再確認させるものだった。そして、続いて行われた第6戦フランスGPと第7戦ユーゴスラビアGPでは、今度はNV0Aが速さを見せた。スペンサーは上下逆転レイアウト車で、どちらのレースにおいてもポールポジション獲得と独走優勝を果たしたのだ。この年のフランスGPが行われたポールリカールとユーゴスラビアGPの舞台であったリエカは、ともに直線区間が長く、標高は高くなく、NV0Aの良さを出せるサーキットであった。
HRCとしては本命機であるNSR500で勝つというミッションを、ここまでの世界グランプリ7戦のうち3戦で果たせた格好となった。だが、第8戦ダッチTT(オランダGP)でのNV0Aは不振を極めた。前々戦、前戦と2連勝したマシンが、どうセッティングを変えても良好なハンドリングと出力特性にならず、スペンサーをもってしても予選5位に沈むしかなかった。おまけに、決勝ではプラグキャップの脱落に見舞われ、レース序盤でリタイアを余儀なくされた。
レイアウトの関係上、NV0Aは長さ49.6mmという非常に短いスパークプラグを採用していた。それにともなって、通常車両のものより断然短いターミナルでも十分な結合性を確保した専用のプラグキャップを使っていた。ところが、それが外れるトラブルが、このダッチTTに限って起こったのだった。
次戦はスパ・フランコルシャンでの第9戦ベルギーGP。その予選でのスペンサーは、NV0AとNS500を乗り換えながら走り、3気筒で最速タイムを叩き出した。そして決勝でもNS500を使い、圧勝した。つまり、NV0Aとしてはまたしても負けたレースとなったのだ。
スペンサーが予選においてNV0Aで記録したベストタイムは、同じくV4エンジン搭載のヤマハYZR500を駆るエディ・ローソンの自己ベストより0.85秒も速かった。しかし、パフォーマンスが安定しなかった。特に問題だったのはエンジンで、当時のHRCレポートには「メインジェットを絞っても、それなりの結果しか出ない」というコメントが残されていた。
ベルギーGPの翌々週、スペンサーはラグナセカにいた。アメリカの国内選手権レースの一戦ながら、前年で世界グランプリを引退したケニー・ロバーツをはじめとする大物アメリカ人ライダーが何人も出場した特別なレースに、スペンサーもNV0Aで出場した。ところが、その予選で転倒。鎖骨を折ってしまい、これで彼の1984年シーズンはあっけなく終了した。
結局、スペンサーが1984年に世界グランプリで決勝を走ったレースは7戦にとどまった。しかも、NV0Aに乗ったのは5戦にすぎなかったが、そのうち3戦で優勝した。また、鎖骨骨折によるスペンサーの戦線離脱後に行われた第10戦イギリスGPでは、マモラがNV0Aで決勝を走り、ヤマハのローソンとの接戦を制した。初代NSR500は世界グランプリで計4勝をマークしたわけである。
だが、HRCは、翌シーズンのマシンに上下逆転レイアウトを採用しなかった。その方針は、1984年シーズン序盤の段階ですでに固まっていた。NSRという称号を得たレーシングマシンは、研究車両ではなく、レースに勝つための実戦車であったからだ。
19年にわたってロードレースの最高峰クラスを戦い、その大半の期間において最強マシンとして君臨したNSR500だが、初代モデルNV0Aの技術仕様はかなり例外的である。燃料タンクをエンジン下に置いた車体構成の利点の追求をとことん行っていけば、可能性は開けたかもしれない。しかしながら、そのような研究開発を進める余裕は、このときのHRCにはなかったのだ。
結果的には空前絶後の上下逆転レイアウト車となったNV0A。しかし、だからこそと言うべきか、実にホンダらしいマシンとして、多くのファンに語り継がれるものとなっている。