グランプリ2戦目で初優勝。しかし、やがて暗雲が
デイトナから2週間後、1984年の世界グランプリが開幕した。初戦はキャラミ・サーキットでの南アフリカGPだったが、その予選1回目で、NV0Aのリアホイールが砕け散った。予想外の転倒を強いられたスペンサーは、右足首の靭帯を痛め、左足小指にひびを入れる怪我を負い、ディフェンディングチャンピオンとして戦うシーズンの1戦目を欠場せねばならぬ事態に追い込まれた。
当時のHRC製ロードレーサーは、ホンダ独自の組み立て式ホイールであったコムスターホイールを採用していたが、NV0AのものはホイールリムとスポークプレートがCFRP製の特別品だった。HRCではこのカーボンコムスターホイールを先代のNS500から使用していたが、それが「V4エンジンとなって増大したパワーに堪え切れず、壊れた」という憶測がささやかれた。だが、レーシングスピードとはいえ通常の走行でかかる範囲の荷重で破損するような部品の実戦投入をHRCが認めるはずがない。
破損したホイールは先のデイトナでも使われていた。そこでハイサイドに近い状態に陥って過度な荷重がかかった一瞬があったが、その後も使用され続けていた。そうしてダメージが進み、南アフリカまで来たところで壊れたのでないか、というのがHRCの分析であった。
南アフリカGPの次戦は3週間後のイタリアGPだったが、スペンサーは無事に出場した。マシンはもちろんNV0Aを使用した。しかも、ポール・トゥ・フィニッシュを決めて、NSR500の初優勝を飾った。予選では2番手に1.72秒も突き放すタイムを記録し、決勝でも2位を20秒近く引き離すという圧勝劇を決めてみせた。
この時点では、上下逆転レイアウトのポテンシャルに疑念を抱く者はほとんどいなかっただろう。だが、やがて暗雲が立ち込めてくる。
まず、スペンサーが両足の小指を骨折するというアクシデントがあった。イタリアGPの次にNV0Aで出場した英米対抗レース(トランスアトランティック・マッチレース)での転倒によるものだ。この負傷のため、世界グランプリ第3戦スペインGPの欠場をスペンサーは余儀なくされた。
彼はザルツブルクリンクで行われた第4戦オーストリアGPで復帰したが、今度はNV0Aが思うように走らなかった。主な問題はキャブレターセッティングにあった。NV0Aのキャブレターは、4気筒分が横一列に並んだ作りになっているが、それ全体がエンジンと4本のチャンバーに囲まれたところに位置している。そのため、吸入する空気の温度が高いものになる。つまり、酸素濃度がやや下がった状態で吸気することになる。また、横一列配置のキャブレターの外側2気筒分と内側2気筒分の吸気温度に違いが生じており、メインジェットにして2〜3ランクの差があった。そして標高が高く、酸素が薄いザルツブルクリンクへ来ると、NV0A生来のキャブレターセッティングの難しさに拍車がかかり、直線区間で3気筒のNS500に抜かれるほどのスピードしか出せなかった。
このオーストリアGPでのスペンサーは、ホンダの僚友であるマモラにポジションを譲られたことで2位を得た。だが、次の第5戦西ドイツGPの舞台ニュルブルクリンクも標高が高い。同所での金曜日の走行をNV0Aで行ったが、案の定、思うように走らなかった。そこでスペンサーは、NS500でこのレースを走らせてほしいと訴えた。難しい判断を迫られたHRCであったが、エースライダーの切なる要望を受け入れることとした。
ただし、そもそもはシーズンを通してNV0Aで戦う計画であったため、スペンサー用のNS500の用意が現場になかった。そこで金曜日の夜、ニュルブルクリンクからHRCのヨーロッパ拠点があるベルギーのアールストまで、HRCのスタッフがバンを走らせた。そして、ワークショップに眠っていたNS500をピックアップすると、土曜日の夜明けまでにはニュルブルクリンクへ戻り、同日の予選に間に合わせたのである。
このときスペンサーは、前年シーズンを終えた後では初めて3気筒車に乗った。それでも断トツのタイムを叩き出してポールポジションを奪い、明くる日の決勝もNS500で独走優勝した。
レースには勝った。だが、エンジニアリングとしては勝ったとは言えない。それがHRCスタッフの心境であった。