NS500誕生の背景
text=KIYOKAZU IMAI
初めに「NR」ありき
ホンダ初の2ストロークGP500ロードレーサー誕生の背景
2023年は、ホンダが創立から75年を数える年である。そして前年の2022年には、モータースポーツ専門の関連会社ホンダ・レーシング(HRC)が40周年を迎えている。
HRCは、1982年の設立時から2021年までは二輪に特化した活動を行ってきた。その間に同社が送り出してきたレーシングバイクは数知れない。それらの中でも、特にエポックメイキングな存在として人々の記憶に残されているマシンを取り上げ、その開発やレース活動に傾けられたホンダマンたちの情熱に触れていく。1台目のマシンは、ロードレース世界選手権(世界グランプリロードレース)の最高峰クラスでホンダに初めてのライダーズタイトルをもたらした「NS500」である。
なお、このコンテンツ『RACERS -Honda二輪レーシングマシン列伝-』は、雑誌『RACERS』Vol.01「’83NS500」を元に改編。創刊後十数年が経った編集部が、その後の取材で得た情報を加筆訂正し制作した。
「革新的な技術」のための4ストローク
しかし、NR500は思うように走らず
1983年9月、イタリアのイモラ・サーキットで行われたサンマリノGPで、ホンダNS500を操るフレディ・スペンサーがチャンピオンに輝いた。ホンダ車に乗るライダーがロードレース世界選手権の最高峰クラスでシリーズタイトルを獲得したのは、これが初めてのことであった。
ホンダが、1967年を最後に遠ざかっていた世界グランプリでの活動を再開したのは1979年8月のこと。トップカテゴリーであった500ccクラスは、2ストロークエンジン車の独壇場となっていたが、復帰にあたってホンダが投じたマシンは、4ストロークエンジン車のNR500だった。
「革新的な技術を創出し、3年以内に世界チャンピオンを獲得する」。これが、グランプリ復帰時にホンダが掲げた目標であった。4ストロークという選択は、「革新的な技術の創出」のためのもの。同じエンジン回転数であれば点火(爆発)の機会が2ストロークの半分である4ストロークを使いながら、同じ排気量と同じ気筒数という条件のもとで2ストロークに勝つためには、革新的な技術が必然的に求められた。そこで捻り出されたのが、各気筒の吸気バルブと排気バルブをともに4本ずつ、合計8本として、バルブ開口面積を最大限に確保でき、そして吸気バルブ4本と排気バルブ4本をそれぞれ1列に並べられる長円形のピストン/シリンダーを採用することだった。
エンジンのみならず、車体も新機軸の塊のような技術仕様とされたNR500は、招集された若手技術者たちによって懸命に開発された。だが、迎えた実戦は散々な内容となった。デビュー年となった1979年におけるレース出場はグランプリ2戦のみで、初戦のイギリスGPは出場2台がそろってリタイア。2戦目のフランスGPにいたっては、2台とも予選落ちの憂き目を見た。そこで、1980年のマシンについてホンダは、車体を極めてコンサバティブな仕様に一新。エンジンも、バルブ駆動系などの設計を大幅に変更したものとした。おかげで、耐久性はずいぶん向上した2年目のNR500だったが、エンジン重量がさらに増えたことなどから、2ストローク車に対する競争力はまだまだ低く、同年の世界グランプリでの最上位は西ドイツGPでの12位にとどまるレベルであった。