Honda NS500
1982-83 GP500ワークスロードレーサー

HY戦争の過熱により
とにかく勝つことが求められた

1979年6月に鈴鹿サーキットで行われたNR500の初めての走行テストでの写真。黄色いヘルメットを被っているのが片山敬済で、写真の左端に見えるツナギ姿は、もうひとりのライダーであったミック・グラント。彼らの間で思案顔を見せている写真中央の人物が、当時のホンダですべての二輪車開発の責任者であった入交昭一郎。 (Photo/Honda)

NR500の開発の中核を担ったのは、レーシングバイクを開発した経験を持たぬ30歳前後の技術者たちであった。問題点の究明や改良を素晴らしい早さで進めていった彼らは、長円形シリンダー/ピストンという新技術を物にし、4ストローク車のNRで2ストローク車を凌駕してみせる意欲に満ちあふれていた。それには、もう少しの時間と手間をかけてやる必要があった。

しかし、このときのホンダには、そのような猶予はなかった。1979年に勃発した「HY戦争」と呼ばれる二輪車市場の覇権争いが過熱していたからだ。1980年には、ヤマハが販売台数を猛烈に伸ばしていた。ホンダは、敢然と対抗した。負けることは許されなかった。それはレースにおいても同じ。とにかく、勝つことが求められた。

HY戦争においてホンダ側の司令官を務めたのは、当時は本田技術研究所の常務取締役で、ホンダのすべての二輪車開発の責任者であった入交昭一郎だ。ホンダの二輪レース活動の総大将でもあった彼は、1980年の暮れに、ひとつの提案を受けた。それは、本田技術研究所の主任研究員で、モトクロスにおける車両開発とレース活動のリーダーであった宮腰信一からのもので、2ストロークエンジンを搭載するGP500ロードレーサーについてのアイデアであった。

凡庸ならざる
2ストローク3気筒

1981年10月に完成したNS500のプロトタイプ。新規開発であった2ストロークV型3気筒エンジンを含むブランニューマシンを、ホンダはプロジェクトのスタートからわずか9カ月で形にしてみせた。(Photo/Honda)

NR500で4ストロークの道を選んだときに念頭にあった「革新的な技術の創出」を追う余裕がないことは、もう明らかであった。そして、2ストロークは、同じ排気量と同じ気筒数でより大きなパワーを得るには絶対的に有利。加えて、宮腰率いるモトクロス部隊がすでに深めていた2ストロークの知見を活かし、勝てる性能を迅速に実現することが期待できた。

もっとも、そうした理由だけのものであったなら、入交は提案に興味を示さなかっただろう。だが、宮腰のアイデアは凡庸ではなかった。それは、ヤマハやスズキと同じ4気筒ではなく、3気筒にするという案だったのだ。狙いは、ライバル車より軽量に仕上げること。そして、エンジンをコンパクトにまとめることにより、前面投影面積を抑えて空気抵抗を減らし、絶対的なパワーでは勝てぬ4気筒車と互角の最高速を稼ぎ出すことにあった。

また、2ストロークエンジンの吸気方式として、ヤマハもスズキもロータリーディスクバルブを採用していたが、宮腰案はピストンリードバルブを使うものだった。当時の世界グランプリロードレースは、出場全車が押し掛けでエンジンを始動させてスタートを切る仕組みだったが、エンジンの始動性で2ストロークに劣る4ストロークのNR500は、スタートで大きな後れを背負い込むことを繰り返していた。そこで、2ストロークを新たに選ぶにあたっては、ディスクバルブ方式より吸入抵抗が小さいリードバルブ方式を採用することで、エンジンの始動性で一気に逆転しよう、というわけである。ピストンリードバルブ方式は、モトクロッサーでホンダがすでに使いこなしていた技術、という裏打ちもあった。

総大将・入交は、2ストローク車の開発を決意した。彼は、NR500の最大の特徴である、各気筒に計8本の吸気/排気バルブを備えた長円形のピストン/シリンダーというエンジン仕様の発案者であった。つまり、2ストロークへ移行することは、4ストロークのNR500に、生みの親が自ら引導を渡すことに他ならなかった。

だが、入交に後退的な思考はなかった。彼の中では、目標は常に更新されていくものであり、そこへ最短距離で到達することを考えるのみ。この場合、目標は「できるだけ早く勝つこと」の一点に集約された。その手立てとして、2ストロークは合理的な選択。迷いはなかった。

かくして、1981年1月、2ストロークGP500ロードレーサーの開発プロジェクトがスタートした。当時のホンダでは、グランプリの類いのロードレースを「スプリント」と呼んでいたが、そこへ新たに投入しようという2ストロークレーサーには「ニュー・スプリント」、略して「NS」という車名が与えられた。