モータースポーツ・スポーツ 2024.01.10

控えめで病気がちの少年が、なぜチャンピオンに?
国内最高峰レースSF 野尻選手の歩み

控えめで病気がちの少年が、なぜチャンピオンに? 国内最高峰レースSF 野尻選手の歩み

“日本一速いドライバーを決める”全日本スーパーフォーミュラ選手権。コックピット(運転席)とタイヤがボディーに覆われていないといった特徴を持つフォーミュラカーのレースカテゴリーで、日本のみならずアジア圏最高峰に位置するシリーズです。最高速度は300km/hを超え、“F1に次ぐ速さ”とも言われています。

現在、採用されているエンジンはHonda、TOYOTAの2社製。ドライバーの特徴に合わせたセッティングを施すなどチームごとに多少の差異はありますが、基本的に同条件のエンジン・タイヤ・車体が使用されているため、ドライバーの実力やチーム戦略が直接勝敗につながり、毎レース白熱したバトルが生まれています。

そのシリーズで2021年より2連覇を果たし、2023年シーズンも最終戦まで王座を争った野尻智紀選手(TEAM MUGEN)。Hondaのレーシングスクールを首席で卒業し、スーパーフォーミュラ1年目に優勝を果たすなど輝かしいデビューを飾りながら、ここまでの道のりには数多くの苦難があったといいます。どのように乗り越えて、頂点にたどり着いたのでしょうか。

野尻智紀(のじり ともき)

レーシングドライバー
野尻智紀(のじり ともき)

1989年、茨城県生まれ。1995年にレーシングカートで初走行を経験し、2006年に全日本カート選手権でチャンピオンに。その後、海外挑戦を経て2008年にSRS-F(鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラ)を首席卒業。2014年からスーパーフォーミュラへステップアップし、2021~2022年に2年連続王座に輝く。SUPER GT(GT500クラス)でも9勝を挙げる日本のトップドライバー。

欧州での苦悩を経て、内気な少年がプロドライバーに

――野尻選手がドライバーとして第一歩を踏み出したのは、レーシングカートでした。当時はどのようなきっかけで始めたのでしょうか。

実はカートを自らやりたいといって始めたわけではないです。もともと喘息を患っていて、少しでも体を強くするようにという両親の意向で水泳や柔道を経験していましたが、自分としてはしっくりきておらず…。そんなとき、キッズカート体験に連れて行ってもらい「衝撃」を覚えたのがカートを始める大きなきっかけでした。

幼稚園児だった自分にとって、ペダルがあって、エンジンがあって、ペダルを踏むと自分の力で力強く進んでいくカートはとても魅力的な乗り物でした。それまで経験してきたスポーツは自身の筋力が必要だったり恐怖が伴いましたが、カートはそれらとは明らかに違う。自分だけの世界に入り込んだ気持ちで、夢中になって楽しんでいましたね。

トップドライバーとして日本のレース界を引っ張る姿とは対照的に、幼少時代は病弱な面もあったと振り返るトップドライバーとして日本のレース界を引っ張る姿とは対照的に、幼少時代は病弱な面もあったと振り返る

――その後、2002年に全日本ジュニアカート選手権へ出場するなど、徐々に大きなレースへと参戦されるようになっていきました。2007年には海外レースにも挑戦されています。

同世代には自分よりも速いドライバーもいましたし、常に追いかける立場だったと思います。その中でも続けられたのは、何よりもカートに乗ることが楽しかったのが大きいですね。徐々にただ走るだけでなく、より速く走るにはどうすればいいかを自ら考え工夫するようになったことで、結果にもつながっていきました。

そうして、全日本カート選手権のFAクラス(マシンの制限が少ない最高峰クラス)でチャンピオンになり、2007年には欧州のレースにチャレンジすることになりました。

ただ、欧州にいた頃は毎日「日本に早く帰りたい」と思っていました(笑)。当時は高校生でしたが、海外での一人暮らしという環境、そして何より結果が出ないことが苦しかったんです。激しく競う欧州のレーススタイルが自分には合わず、受け身になっているとさらに標的になってしまう。控えめな性格もあり、本当に苦しかったですね。

 帰国後もなかなか結果が出ず苦しい期間が続きましたが、プロになりたいという漠然とした想いは持っていて、カートの先輩たちが通っていたこともあって鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS、現在のホンダ・レーシング・スクール・鈴鹿)に進みました。どん底の状態で入ったため、正直に言って入学した頃の記憶はほとんどありません。

ただ、欧州で厳しさを知ってから帰国したことで「ここでは絶対に負けられないぞ」という思いがあったのも事実です。振り返れば、極限状態だったときでもプライドが自分に残っていたことで、踏ん張れたのだと思います。

そこからHondaのドライバーとなってここまでやってこられたので、今振り返ると、SRSに入ったことは必然というか、何かに導かれていたかのようにも感じますね。

スーパーフォーミュラ1年目で掴んだ勝利とその後の苦難

――SRSを卒業後、全日本F3選手権を経て、2014年にはスーパーフォーミュラで初優勝を経験されました。華々しい結果の一方で、なかなか結果が出ない時期もあり、どのように過ごされていたのでしょうか。

全日本F3からスーパーフォーミュラにステップアップして、1年目はHonda製エンジン搭載のDOCOMO TEAM DANDELION RACINGに所属。「スーパーフォーミュラなどの華々しい世界で活躍するのは難しいのでは?」と思っていましたが、チームのポテンシャルが高かったこともあり、早々に結果を出すことができました。前年まではテレビなどで見ていた海外の有名選手たちと戦って、結果を出せたことは素直にうれしかったですね。

2014年、デビューからわずか6戦目にして初勝利を飾るも、その後は約4年にわたって苦しい時期を過ごす2014年、デビューからわずか6戦目にして初勝利を飾るも、その後は約4年にわたって苦しい時期を過ごす

ただ、その後はやればやるほど迷路に入り込むような時期が続きました。調子が良かった頃の再現性を見いだせず「あの優勝したレースは、なぜ調子が良かったのだろう」と悩んでいましたね。予選では速く走れているが、決勝では結果が出ない。そんな時期が3~4年ほど続きました。

2022年、TEAM MUGENで前年に続く2連覇。2023年は欠場がありながらも最終戦まで王座を争った2022年、TEAM MUGENで前年に続く2連覇。2023年は欠場がありながらも最終戦まで王座を争った

――その後、2019年にTEAM MUGEN(Hondaエンジン搭載)へ移籍。その年の最終戦で優勝を果たし、2021年、2022年はチャンピオンに。今季も最終戦までチャンピオン争いに加わるなど、日本のトップドライバーへと駆け上がりました。

TEAM MUGENは勝利志向が強く、チーム内の競争も活発です。当時はチャンピオンチームでもあり、結果を出さないと後がないと覚悟を決めていました。

もともと自分は控えめな性格で、積極的に意見することにためらいがあったのですが、レースをこなすうちに「もっとリクエストを伝えてくれ」とチームから伝えられ、強い衝撃を受けたのを覚えています。その言葉によって“自分の意見を積極的に伝えていいんだ“とマインドが変わり、自分からコミュニケーションできるようになりました。この成長が大きなターニングポイントでした。ドライバーやメカニックも含めて、限界を設けずに議論しながらベストを目指すカラーがあるこのチームが自分にも合っていたし、成長させてくれたと思っています。

チームで議論していると、自分の知識、理解も深まっていきます。すると、一つひとつの取り組みが楽しくなり、過去に調子が良かった理由なども分析できるようになっていくんです。最近は過去の点と点が線でつながるような発見をすることも多く、非常に成長を感じています。

取材時はスーパーフォーミュラのテスト前日。ガレージでスタッフとコミュニケーションを取る姿も印象的だった取材時はスーパーフォーミュラのテスト前日。ガレージでスタッフとコミュニケーションを取る姿も印象的だった

モータースポーツの将来を想う気持ちと様々な取り組み

――現在は、HRSで講師を務められています。生徒から講師へと立場が変わった今、ご自身の役割についてはどう考えられていますか。

今の生徒たちはスクール入学前にフォーミュラカーのレースで結果を出すなど、経験を積んでいますし、とにかくレベルが高いと感じます。一方で、何か指標がないと自分がどのくらいの位置にいるのか、分からないと思うんです。そこで、あえて乗り越えるべき壁として立ちふさがることが自分の役割だと考えています。とにかく自分で試さないと体得できませんし、今すぐにできるようになるわけでもありません。「今伝えていることが、いつかコツを掴むきっかけになれば良いな」というスタンスで指導しています。

講師として若いドライバーに手本を示す場面では、常に全力で走り、日本のトップドライバーの速さを見せている講師として若いドライバーに手本を示す場面では、常に全力で走り、日本のトップドライバーの速さを見せている

僕自身も、カートを10年以上やってスクールに入学しているように、スクールにたどり着くまでには長い時間がかかります。HRSのようなレーシングスクールというのは、その努力を無駄にしない場所という意味があるんじゃないかな。カートで身に付けた技術をさらに伸ばして、レーシングマシンの走らせ方を網羅的に学ぶ場所がスクール。技術だけではなく、マシンについての知識も深まっていくので、ドライバーとしての力が総合的に鍛えられると思います。

――モータースポーツ界の未来を巡って、様々な取り組みや発信をされています。例えば、観客の立場でスーパーフォーミュラを観戦した際には、「『暇そうにしているお客さん』にショックを受けた」という発言が話題になりました。

今季、肺気胸という病気でレースを休むことになったのですが、それにも必然性があるのではないかと感じて、一人の観客としてサーキットでレースを見てみたんです。そこで目にした風景というのは、一日を通してお客さんがずっと楽しめるようなイベントではなかったんですね。そういう危機感を持ったこともあり、やや生意気ではありましたが、現状に対してコメントしました。炎上しないかヒヤヒヤしていた部分もあったんですよ(笑)。

ドライバーの立場から申し上げると、スーパーフォーミュラはSUPER GTと比較しても負けない要素はたくさんあります。多くの方が応援のコメントをくださったり、サーキット関係者から「あのニュースを見て、運営を変えたんだよ」と言ってもらえたり、発言して良かったなと感じました。まだまだこれからスーパーフォーミュラは変わっていけるという手応えも掴めましたね。

――また、来季からの参戦については、複数年契約であることを公表したことも大きく報じられました。

複数年契約に関しては、モータースポーツ界を目指す人たちに、僕たちの実像を見せる必要があると感じて公表に踏み切りました。人気のプロスポーツでは、選手の契約内容も話題の一つだし、それを知ってプロを目指す子どもたちも多くいます。モータースポーツ界は表に出ている情報が少なく、岐路に立った時にどのような選択をすれば良いか迷うこともあると思います。それを解消するための第一歩として、契約の公表に至りました。少しずつクリアにしていければと思います。

――コロナ禍の時期では、YouTubeを始めたり、ファンとゲームで対戦したりといった取り組みも始められました。

当時は外出できず、何もできない日々が続いていました。考え事をしていて「当たり前にレースをしてきたけど、そもそもレースって、本当に必要なの?」と思ったんですよね。このままいくと、レースがいらない世界もあり得るのではないかと危機感を覚えたんです。そこで、自分は今何をすべきなんだろうと考えて、取り組みを始めました。

少しでもモータースポーツが楽しいものだと思ってもらえるようになれば良いなと思います。ちょうど同世代には、前向きに変わっていけるマインドを持って動いている人が多いのも、チャンスですよね。もっと明るく刺激的で、楽しいモータースポーツ界はすぐそこにあると確信しています。

――Hondaには、「The Power of Dreams」「How we move you.(夢の力で、あなたを動かす)」というスローガンがあります。。野尻選手にとっての「夢」やこれからについて、お聞かせください。

これまでの自分にとって、1つ年上の山本尚貴さんという存在が身近にいたのが大きかったと思います。山本さんのどんな状況でもあきらめない、強い想いと姿勢を見て、何か落ち込んだときでも「ああいう風になりたい」と思い何度でも立ち上がることができました。その強さが、自分と周囲を変える力になりますし、最後の最後でチャンピオンの座を掴み取ることにもつながったのだと思います。

山本尚貴選手(中央)は、スーパーフォーミュラ・SUPER GTでチャンピオン獲得経験を誇る日本のトップドライバーの一人山本尚貴選手(中央)は、スーパーフォーミュラ・SUPER GTでチャンピオン獲得経験を誇る日本のトップドライバーの一人

2年連続でチャンピオンになった経験を経て、次世代に向けてより良いモータースポーツをつくることが夢であり、挑戦です。微力ではありますが、レースやHRSの講師だけでなく、様々な取り組みを通じて次世代に何かを残せたらと思います。

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