モータースポーツ・スポーツ 2023.09.22

佐藤琢磨選手に聞く「夢への原動力」。選手兼指導者として次世代に見せたい姿

佐藤琢磨選手に聞く「夢への原動力」。選手兼指導者として次世代に見せたい姿

今年4月、Hondaは「The Power of Dreams」を23年ぶりに再定義し、新たに副文「How we move you.」を発表。日本語に訳すと「夢の力であなたを動かす」です。この副文を具現化する存在が、観る人に夢と感動を与えてくれるレーシングドライバーたち。本特集では、日本人ドライバーへのインタビューをお届けします(全4回)。

2人目は、2017年、2020年と2度のINDY500制覇を達成した佐藤琢磨選手。現在はHonda Racing School Suzuka(HRS)のプリンシパルも務める琢磨選手のインタビューを2回にわたりお届けします。前編では、数々の夢をつかんできた琢磨選手が考える夢の原動力について話を伺いました。

佐藤琢磨

佐藤琢磨 (さとう たくま)

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「鈴鹿は自分にとってのF1のすべて」。日本グランプリへの想い

鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラの3期生で、卒業後はF1やインディカー・シリーズをはじめとするトップカテゴリーで結果を残してきた琢磨選手。2019年よりHonda Racing School Suzuka(当時、鈴鹿サーキットレーシングスクール)の四輪ドライバー育成のトップであるプリンシパルに就任しました。

そんな琢磨選手にとって、ここ鈴鹿は人一倍思い入れのある特別な場所です。

琢磨選手
琢磨選手

鈴鹿は自分にとってモータースポーツの原点。鈴鹿がF1の一部なのではなく、F1のすべてが鈴鹿、ずっとそんな風に感じてきました。

琢磨選手が最初にF1と出会ったのは1987年日本グランプリでのこと。当時10歳の琢磨選手は、ホンダのディーラーで入手したチケットを片手に、人生で初めて鈴鹿の地に足を踏み入れました。

当時はまだどこにでもいる車好きの少年でした。両親はレースの世界に詳しいわけではなかったので、実際にレースを見たことも、サーキットを訪れたこともありませんでした。F1の知識もほとんどないままに、最終コーナーあたりの客席に腰を下ろすと、マシンが最初に目の前を通り過ぎた瞬間、体中に響き渡る凄まじい轟音と振動に衝撃を受けたと語ります。

琢磨選手
琢磨選手

 

世の中にこんなものがあるんだと思いました。最終コーナーのスタンドから、まだ姿の見えぬマシンのエキゾーストノートだけが轟いているのが聞こえてゾクゾクしました。そして、その音が近づいてくるや否や、色鮮やかなF1マシンがシケインにフワッと現れるんです。その直後、猛烈な加速であっという間に5速までシフトして、目の前を過ぎ去っていく。あまりにも速くて、音とドライバーの動きがシンクロしないんですよ。当時は今のようにシームレスな変速が可能なトランスミッションではなく、マニュアル(※1)でやっていたので、シフトアップのたびに加速が途切れ、ドライバーの頭が揺れるんです。

 

でも加速がすごすぎて音が遅れてくる。それほどまでに加速する物体を見たことがなかったので、あまりのことに「はっ!」と思わず立ち上がって、そこから一度も座ることができなかった。それは感動というよりも衝撃という表現が近い、まったく未知の経験でした。

※1 変則操作を手動で行なう。シフトレバーを前後左右に動かすことからH型 /Hパターンと呼ばれた

生徒たちと話す琢磨選手

レース終了後、東京の自宅に帰りつくまで琢磨選手の頭の中ではあの轟音が響き渡っていました。その興奮は翌日学校へ登校した後も冷めやらず、夢心地のまま「あれは現実だったのだろうか」という思いが、心を埋め尽くしていったといいます。

琢磨選手
琢磨選手

この時点ではまだ、F1ドライバーになりたいという気持ちは湧いていなかったと思います。ほとんどの選手が英才教育を受けていると知ったのはもっと後になってからでしたし、そういう世界なのだとは知りませんでした。ただ、あの日の鈴鹿で、ひとりのドライバーに釘付けになっていたことは確かです。アイルトン・セナが駆る黄色いロータス・ホンダが、予選7位から2位まで追い上げていくその走りに魅せられ、憧れました。

 

その後、セナがホンダと共に、F1でチャンピオンを獲得していく姿を見て、次第に「あのF1マシンを操れるようになりたい」と思うようになり、いつしかレーシングドライバーを夢見るようになっていったんですね。

しかし、当時の琢磨選手はサーキットでカートを操ることのできる環境にはありませんでした。実現可能で最も身近にあったレースは、自転車競技。そこから自転車にのめり込んだ琢磨選手が、鈴鹿の地に再び足を踏み入れたのはそれから6年後、16歳の時のことでした。1993年8月、鈴鹿サーキットで開催された自転車レースに出場した琢磨選手は、夢の舞台に選手として戻ってきた感激を噛みしめながらペダルを漕いだそうです。

スタンバイする生徒たち

自身の競技用自転車には「Powered by Honda」のロゴ。自分で貼り付けたHondaのロゴに、F1への憧れを託しました。その翌年、高校で自ら自転車部を立ち上げ、全国高等学校総合体育大会(高校総体 / インターハイ)に初出場し、見事優勝。頂点まで上り詰めることができたのです。

琢磨選手
琢磨選手

そこで何かが変わったんでしょうね。学生時代は自転車競技に打ち込むなか、大学2年になるときに自動車専門誌で鈴鹿サーキットレーシングスクールの特集を見つけました。これしかない。そんな確信があったんです。

その後、鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ3期生として入校し、スカラシップを得て、1998年に渡欧。2002年にJordan Hondaのドライバーとして、念願のF1世界選手権デビューを飾ると、2004年のアメリカグランプリで日本人ドライバーとして歴代最高タイとなる3位入賞を果たし、2017年には日本人初となるINDY500を制覇。2020年には2度目のINDY500優勝を飾りました。

熱意こそが夢を引き寄せる。枠組みをも超える行動力

10歳でF1に魅了され、夢を引き寄せて夢をカタチにしてきた琢磨選手。その原動力はどこにあるのでしょうか。

琢磨選手
琢磨選手

熱意ですかね(笑)。どうしてもやりたかった。鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラの年齢制限は20歳。自分は年齢制限ギリギリで、しかもレース経験はありませんでした。倍率10倍を超える応募があるなかで、まだオーディション形式ではなかった当時、スクールに入ること自体が難関でした。

 

履歴書だけでは到底受からないと思い、募集要項にはなかった作文を書き、書類選考と告げられた説明会では、その場で面接を追加するよう直談判しました。20歳で後がなかったし、経験がないなかでこの席を勝ち取るには「なぜ自分にはこのスクールが必要なのか、チャンスが必要だと」その想いを伝えるしかないと考えたのです。そして幸運なことにそれを受け止めてくださった方がいた。だから今、僕はこの地に立つことができているんだろうと思います。

生徒の走りを見守る琢磨選手

たとえ実現しないかもしれないことであったとしても、自分自身が誰よりもその可能性を信じ、行動を起こさなければ絶対に望む場所に行くことはできない――。自身を「持たざる者」と評価する琢磨選手にとって、人の心を動かし、枠組みを変えることができるほどの熱意を持って行動していくことがどれほど重要なのか、身に染みてわかっていたのでした。

琢磨選手
琢磨選手

同期のほとんどは幼少期からレーシングカートに乗り、全日本カート選手権最高峰クラスの現役チャンピオンを含め、まだ10代なのに10年以上レース経験を積んでいるドライバーもいました。そういう選手たちと比べれば、自分なんてただの凡人です。でも英才教育を受けていなくてはダメなのかという部分で、それは違うと証明したかった。そういう境遇にいなくたって、やり方次第、頑張り次第では、同じようにチャンスをつかむことができるはずだと。だから今言えるのは、自分でさえここまで来ることができたのだから、もっと才能があり、もっと恵まれた環境にある若い子たちは、さらに上の高みを目指していけるのではないかという期待がありますね。

選手であり続けることの意味。生徒たちに見せたい姿

現在はプリンシパルとして後進の育成にも当たっている琢磨選手ですが、指導者でもありながら、現役選手として世界で闘い続けることにもこだわってきました。その理由は、現役選手だからこそ伝えられることがあるからだと語ります。

琢磨選手
琢磨選手

選手としての活動があることで、完全には生徒に目が行き届かなくなるという側面もありますが、そこは信頼できる講師陣やスタッフ、携わってくださるすべての方々のご理解とご支援があるからこそ実現できていることでもあります。もちろんプリンシパル就任とともに指導者一本にシフトしていく選択肢もあったでしょう。でも、Hondaとともにこれまで成し遂げてきたことの先に、今この指導者という立場があるんだとしたら、選手として存在している自分だからこそ見せられる姿があると思っているんですよ。

生徒に声をかける琢磨選手

2017年の苦しいシーズンにINDY 500で日本人初の優勝を飾った琢磨選手。世界的なパンデミックとなった2020年には、INDY 500で2勝目を飾る姿を見せてくれました。2021年、2022年は再び苦しいシーズンとなりましたが、2023年シーズンも果敢に戦い続ける姿を見せてくれています。

琢磨選手
琢磨選手

世界で戦うとはどういうことなのかを、HRSの生徒たちに感じてほしいと思っています。「INDY500を2度制覇した」ことだけではなく、今の自分が持っている喜びも厳しさも苦しみも共有していきたい。生徒たちは今、ステップアップ先であるF4のことで頭がいっぱいです。

 

F1の舞台、インディカーの世界はまだまだ遠すぎて見えません。でも彼らが今目指そうとしているジュニアカテゴリーを制した先に、トップドライバーの世界があるんです。そのすべてを感じてもらうために、自分は可能な限り、選手兼指導者としてあり続けたいと思っています。

角田裕毅選手への期待。Hondaのグランプリ復帰にも注目

いよいよF1日本グランプリ開幕を目前に控える鈴鹿サーキット。今シーズンはHondaがチームパートナーを務めるオラクル・レッドブル・レーシングが第15戦イタリアグランプリ時点、前人未到の開幕以降全勝という状況であるが、群雄割拠のF1の世界、当然ライバル勢からの追撃に予断は許されない。そんな中注目したい、HRSの卒業生でスクーデリア・アルファタウリからF1、3シーズン目を戦っている角田裕毅選手への期待とは。

琢磨選手
琢磨選手

裕毅は自分がスクールを見る前の卒業生なので指導した経験はありませんが、「とてつもなく速いやつがいる」というのは当然見聞きして知っていましたし、注目もしていました。直接接点を持ったのは彼がF1ドライバーに昇格する直前のこと。厳しいF1の世界で生きていくための向き合い方のような話をしました。ここ3年の成長は本当に素晴らしいですよね。チャンスをしっかりモノにしている姿は頼もしいなと感じます。日本GPでの走りが楽しみですね。

佐藤琢磨選手

また、今年5月にはHondaが2026年にF1復帰することがニュースとなり、話題を呼びました。

琢磨選手
琢磨選手

本当に嬉しいです。初めて鈴鹿を訪れたあの日のまま、自分にとって鈴鹿がF1の一部ではなく、F1のすべてが鈴鹿でしたから。同じように、HondaがF1の一部なのではなくて、F1はHondaそのものなんだと。Hondaが挑戦し続けることはモータースポーツ全体を日本で盛り上げていくにあたって必要なことですし、若いドライバーたちにとっても明確な目標になる。

 

かつて自分がイギリスF3に参戦していた頃、現地ではメインイベントとして地上波で放送され、雑誌ではカラー見開き4ページで毎週のように特集されていた。そして何万人もの人が集まってきます。次世代のF1ドライバーは誰なのかという観点だけでなく、レースそのものが面白いと思って観戦に来ている。そういう文化が成り立っていたんです。F1が1950年に初開催されたのはイギリスのシルバーストーン。そういう歴史背景もありますね。

 

日本でもF1ブームで育った自分たち、その我々世代の子供たちがいまレースデビューし、モータースポーツに深く興味を持ってくれている。この先も続けていかねばならない。そういう文化が広まっていけばいいなと思いますね。

さまざまな思いを乗せ、いよいよ開幕する日本グランプリ。今年も鈴鹿での開催。1987年、日本グランプリの会場で激動を覚えモータースポーツの虜になった琢磨選手のように、「次代を担う誰か」の心に火を灯す、そんな2023年の鈴鹿になるかもしれません。

 

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