第Ⅳ章
事業の基盤となる
取り組み

第4節 グローバル調達

第4節 グローバル調達

地域最適から
グローバル最適へ

材料と部品がなければものづくりは行えず
それらの品質は完成品の品質に直結し
また、その価格はものづくりメーカーの経営を左右する。
購買は、メーカーの成り立ちの根幹となるきわめて重要な業務である。
良い物を、適正な価格で、タイムリーにかつ永続的に調達するという
購買理念を守りながら、国内での調達に始まり
海外進出に伴う購買の地域最適からグローバル最適へ。
創業時から現在に至るまで
ホンダの成長を支えた購買部門の奮闘史を記す。

ホンダの黎明期・四輪進出を支えた購買機能

コスト算出の道具であった購買7つ道具(日付印・訂正印・重量計算機・コロ〈図面上を転がし寸法を測る道具〉・計算尺) コスト算出の道具であった購買7つ道具
(日付印・訂正印・重量計算機・コロ〈図面上を転がし寸法を測る
道具〉・計算尺)
1952年に開設された白子工場 1952年に開設された白子工場

 「コンベアを止めてはいけない」
 1948年、静岡県浜松市で産声を上げたホンダだが、創業当時の山下工場時代から、購買担当者はこの言葉を守るべく行動していた。購買部門の基本的な役割は、生産に必要とする一切の諸資材の仕入れをよどみなく行うことであり、決まった時間に、決まった量を必ず準備するために、購買業務を遂行している。
 創業当時は、ホンダの設計者も市場にある部品の有効活用を常に考慮し、製品の設計に当たっていた。市場にある部品といえばその最前線に立つのが購買部門。必要な部品や材料を何とか調達しようと、担当者がお取引先や市場を懸命に探し歩いていたのである。
 1950年、東京工場の開設当時は、内作機械もまだ整っていなかったために、購買担当者は、入社早々の従業員であっても2カ月から3カ月先輩の教えを頼りにお取引先の開拓に奔走する毎日が続いた。開拓するお取引先の多くは、既存のお取引先からの紹介か、もしくは、電話帳から拾い出して事前に連絡を入れ訪問するという手法であったが、町中で工場や看板広告を見かけるとその場で飛び込み、取引をお願いすることもしばしばであった。今のようにホンダの名前や業容が知られていたわけではない。そのために、まず会社やオートバイの説明から始めなければならなかった。
 1953年1月、ホンダは本格的に本社機能を浜松から東京に移し、購買・経理・営業を本社に集中する体制をとった。当時は自動車も少なく、リュックサックを担いで部品を納入するお取引先もあるような状態だった。管理体制も未発達であったため、本社で発注し、工場に納入するという方式では、生産現場で起きている突発的な計画変更などに対応することは不可能で、部品欠品が生じてラインが止まるなど、納品までの責任を果たすことができず、工場サイドから猛烈なコンプレインが発生した。
 現時点で購買部門がいるべき場所は本社ではない。
 そう結論づけた購買部門は、半年後の7月に本社から埼玉製作所白子工場に拠点を移した。マグネットやライトなどの大物は埼玉製作所で集中手配し、お取引先に対する部品納入の日常的な督促は埼玉・浜松の各製作所で行うという形に分離した。
 それから3年。経営近代化の一環として組織のあり方を検討した結果、本社機能としての購買部門が必要であるとの結論を受け、1956年3月、本社に資材部が発足した。購買管理システムの下地づくりとして、発注から納品までの事務管理の合理化と精度アップを目指し、1957年から1958年にかけて購買管理の仕組みづくりが行われた。
 価格と数量の分類(マスター概念の導入・調達基準表作成)・部品補償概念の導入・市況変動に関わらず支給価格を一定期間変化させないという有償支給材の予定価格制度など、この時期に導入されたものの多くは、現在の購買管理や原価管理システムの基礎となっている。
 1960年に鈴鹿製作所が稼働し、スーパーカブC100の大量生産が本格的に開始された。それまで関東周辺に集中していたお取引先を中部地区や関西地区に求め、開拓に乗り出した。これは、ホンダのポリシーである地域密着の事業展開によって地元の発展に寄与すると同時に、部品などの納入効率を考えてのことであった。取引希望業者はできるだけ広く募りたいという方針から、本社資材部が新聞広告を出したところ、大反響となり500社に近い応募があった。
 その後、ホンダは四輪に進出し1963年にT360とS500を発売。高度成長がますます進み、同業他社のほとんどが5割から10割の増産を計画していた。1967年に発売されたN360は、発売と同時に大ヒットし、当初計画の月産5,000台が立ち上がり後まもなく2万台に変更された。生産の上方修正は、うれしい限りであるが、その一方で購買部門としては困った状況が発生することになった。
 「5,000台までなら協力するが2万台となるととても対応できないからお断りしたい」と、生産能力の問題で辞退するお取引先が続出したのだ。約束が違う、と守衛所の前に金型を置いていってしまうお取引先もあった。相次ぐお取引先の辞退に、量を確保するために改めて別のお取引先にお願いしなければならない状況が数多く発生したのである。
 N360は、エントリーカーとして求めやすい価格でという大命題があり、製造原価目標も従来の機種にくらべて大変厳しいものになっていた。そのため、従来とは大きく異なるお取引先の選定(メーカーレイアウト)を行い、コストダウンを果たすことを目指した結果、新たなお取引先が急増した。
 1972年にマスキー法をクリアしたCVCCエンジンの量産化にあたっては、開発段階から量産段階に至るまで研究所・製作所・購買と一体となってメーカーレイアウトを行い、CVCCエンジンの要となる部品をホンダ内部で製造するのではなく、取引先へ委託することとなった。委託は決定したものの、お取引先の選定が難航。機密や技術力、試作などにおいて満足できる取引先を見つけるのに大変な苦労があった。
 いずれにしても新技術・新機構のメーカーレイアウトに際しては、購買方針と戦略を満たしつつ技術要件に応えるため、購買として大変な情熱と忍耐が必要であった。

部品の現地化を目指して、海外進出

HAMメアリズビル二輪車工場 HAMメアリズビル二輪車工場

 良い物を、適正な価格で、タイムリーに購入できるならば、世界中のどこからでも自由に買ってこよう。
 日本の工業製品の輸出量が年々増大し、諸外国が貿易バランスの不均衡を指摘する声が一段と高まっていた1976年9月、本社購買部内に、海外調達グループが設置され、1978年には、海外調達課に発展した。海外調達課は、日本の自動車メーカー初の自動車部品の輸入を専門に扱う独立した部門であり、本格的輸入活動と現地調達のフォローの目的で活動を開始し、翌1979年には、ホンダの現地調達の進行とともに、海外調達部へと昇格していった。しかし、輸入拡大政策は必ずしも社内的に歓迎されたわけではなかった。日本の取引先にお願いすれば何の苦労もないものを、言葉の問題・地理的背景からの通信や物流事情の悪さ・商習慣の違いなど、必要以上の負担に対して消極的な姿勢になるのも当然であった。
 さらに、実施にあたっては図面・契約書・工場で使用するQC工程表や帳票類の英訳、煩雑な貿易実務の把握などさまざまな課題が伴った。今でこそ当たり前の商取引だが、海外調達の開始当初は何のノウハウもなく、さまざまな壁となって立ちはだかっていた。当時の購買担当者は、それを一歩一歩克服して今日の海外調達の基礎を築き上げたのである。
 北米においては、現地生産会社ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチュアリング(以下、HAM)が1978年2月に設立され、翌1979年には二輪車工場が稼働した。アメリカは自動車大国であったが、現地調達という点では当時は必ずしも恵まれた環境ではなかった。

 アメリカの二輪車メーカーはハーレー・ダビッドソン1社であるが、ダンパー・メーター・キャブレターなどの主要部品は日本製を使っているという状況だった。つまりは、部品産業の地盤がほとんどなかった。また、日本は材料や部品をお取引先に依存する割合が高かったが、アメリカでは自社内での調達割合が圧倒的に高かった。四輪車では、ビッグ3(GM・クライスラー・フォードの3社)でも社内でプレスの小物部品まで製造するというほどであった。
 ホンダは、海外進出においても、企業自体が地域社会の一員として溶け込むことが大切である、との考えから、4つの現地化を基本とした。その1つである部品の現地化についても、購買部門は現地調達率の目標をもってメーカーレイアウトを行っていたが、アメリカの部品産業の状況から、少しずつ現地調達率を上げていくようにした。
 欧州においては、第1回日英自動車会談が1975年12月にロンドンで開かれた際に、イギリス側からヨーロッパの自動車部品購入拡大を含む申し入れがあった。その要求に応え、日本の自動車メーカー5社がおのおのヨーロッパに駐在員を置くこととし、ホンダはベルギーの認証、型式認定等の法規に関する業務やサービスを中心とした駐在員事務所(HELO)に、現地調達の観点で購買部門から担当者を駐在させることとした。しかし、当時のヨーロッパでは、標準部品以外にホンダのスペックや品質に見合う部品がなかなか見つからず、部品の購入は困難な状況だった。忍耐強く調査を重ね、購買部門は、ヨーロッパにおけるホンダの流通基地計画に現地調達・現地装着の可能性を見つけ経営陣に提案。その提案が形となり、ベルギー・ゲント市ホンダ・ヨーロッパN.V.に、日本の自動車メーカー初(ホンダ調べ)の本格的部品装着工場が誕生した。そして1979年4月末、プレリュード・アコード・シビックなどへの部品装着を開始したゲント工場が立ち上がり、当初の現地装着部品は、ヘッドライトをはじめ、リアフォグライト・ラジオなど13品目を数え、現地駐在員や海外調達部担当者の調査が日の目を見ることとなった。
 ゲント部品装着工場は、来たるべき四輪車生産のスタディーとしての意味もあり、ホンダにとっても購買にとっても、ヨーロッパにおける四輪車現地生産の先駆けとなる重要な工場となった。
 海外生産における調達方法には、部品のセットを送るノックダウンと、現地調達があった。ノックダウンはさらに2つに大別され、生産拠点から部品を送る方法でそれが日本からであれば「日供」と言い、お取引先が現地工場に直接部品を送る方法を「パススルー」と言った。いずれの方法をとるかの判断は、常にQCDD(品質 Quality・コスト Cost・調達 Delivery・開発 Development)のバランスを考えて決定される。
 HAMでの現地生産初期段階においては、日供部品の割合が多かったが、円高が進行すると、コスト面で日本から部品を供給する優位性がなくなってしまう。また、生産拡大傾向の中、HAMとして、お取引先との協力体制を構築する北米オペレーション構想が重要な課題として浮上してきていた。さらに以前から懸念されてきた日米貿易摩擦も悪化。日本車ばかりが売れてアメリカのメーカーでは失業者が増加していると、日本の自動車メーカーが批判の的となっていった。
 こうした状況を受け、1987年に社長(当時)の久米是志は、北米事業の円滑化を図るべく5パートストラテジーを発表。その中で、部品の現地調達拡大を目指すことを宣言した。北米のみならず、自動車産業の基盤が成長していない国々でもそれぞれのホンダが自立して、お互いに補完し合うネットワークをつくっていけば、その国の自動車産業の発展を妨げることにはならないし、自由な競争につながる、として、単なる円高・日米貿易摩擦に対処するだけではなく、社会の喜びを中心に据えた部品調達の現地化の指針を示した。この方針は、生産拠点を全世界へ展開していく上での基本的な考え方となるMade by Global Hondaへとつながっていった。
 1986年、北米生産の現地調達率アップを推進するNAPプロジェクト(North America Procurement Project)が発足した。部品の現地化はホンダのポリシーであり、できることなら現地調達率アップを図りたかったが、ホンダ独自の仕様や品質水準などを満たせないケースがあり、結果的には技術支援や現地部品メーカーとの合弁を含み、日本のお取引先30社余りがこの時期北米に進出することとなった。
 NAPプロジェクトは、日本のお取引先と米国メーカーとの仲介を担い、日米取引先の融合・現地調達率アップを推進した。お取引先の海外進出についての決定は自社で行うものの、海外生産増量傾向の中、日供部品のラインに設備投資をするならば、海外に進出してほしいと、将来を見越してお願いするというスタンスを政策的に貫き、お取引先のグローバル展開のきっかけをつくったこともNAPプロジェクトの大きな成果であった。
 1989年秋、ホンダはフルモデルチェンジした主力車種アコード(以下、90アコード)を発売した。一部のグレードのエンジンはF1TM世界選手権のエンジンの技術要素を採り入れ、床には航空機ボーイング767の翼に使われている構造を使い、馬力があり、走りに優れたクルマが誕生したのである。
 90アコードの企画段階から発売に至る間にも、景気はさらに上向き、より良いものをお客様に届けたいとの思惑から、仕様装備のさらなる高級化・性能向上のための設計変更が相次いだ。しかも設計変更は大幅で緊急のものが多く、ラインを守るため、その対応を設備投資や人海戦術・補償処理など、お取引先を巻き込んだ緊急対応で乗り越えざるを得なかった。このため、実際のコストは企画コストを大幅に上回った。

お取引先の協力をもとに緊急対応で生産を乗り切った90アコード

お取引先の協力をもとに緊急対応で生産を乗り切った90アコード

 こうした事態を引き起こした原因は、アコードの生産拠点である狭山工場で、ほぼ同時期に4つの新機種が立ち上がり、しかも初の日米同時立ち上げという状況でありながら、実力以上の計画を半ば強引に進めてしまったことにあり、早急に対応策が検討された。
 90アコードの緊急対応は、単にお取引先の体質疲弊や立ち上がりの混乱といった現象ばかりではなく、もっと根本的なところに原因があると考えられた。
 自分本位になってはいないか?お客様が本当に望んでいるのか?自分たちの強みは何か?そして弱点は何か?部分最適(MEイズム)を捨て去り、全体最適(YOUイズム)を貫くことにより、オールホンダの総合力を発揮できるようにしなくてはならない。購買理念である、良い物を・適正な価格で・タイムリーにかつ、永続的に調達する、購買3原則である、自由な取引・対等な取引・お取引先の尊重、という原点に立ち返って、あるべき姿を描きながらもろもろの問題点を整理し、改善策を施すことになった。

購買理念と購買3原則(2015年改定版)

購買理念と購買3原則(2015年改定版)

事業拡大と現地調達

 1990年代前半における為替の大幅な変動(1992年1ドル132円から1993年1ドル83円)や、欧米メーカーとの競争激化により、ホンダのものづくりは再び大きな転換点を迎えつつあった。2000年前後においては、中国のWTO(世界貿易機関)加盟、自動車各メーカー間の合従連衡が相次ぎ、企業の製品品質に関する不祥事が多発した時期であった。また、インターネットが急速に普及し、瞬時に情報が世界を駆け巡る情報化社会が到来し、消費者のニーズもますます高まった。
 四輪事業を取り巻く環境は製造拠点が海外へ移転する産業の空洞化、複数の自動車メーカーで構成される新たな企業グループの誕生による競争激化など、変化の大きい、混沌とした時代を迎えた。
 ホンダは、変動に強い企業構造への変革、飛躍のための仕込みを実現する、といった目標を掲げ、他社との競争に打ち勝ち、確かな収益基盤を確立することを狙い、日本・北米・欧州にアジア大洋州を加えた四極の自立化を推し進めることとなる。購買としても各地域の購買機能の自立化を支援し、部品の地域間最適補完の実現に取り組んだ。
 お取引先との連携においては、現地に根付いた事業基盤の確立を目指し、マザー工場の支援による生産・部品・人におけるマネジメントの現地化をスピーディーに実施。各極にともに進出したお取引先の拠点が世界規模で競争力を発揮できるよう、体質の強化を図った。
 具体的な活動としては、日本のQD部隊(Quality Delivery)が各国を巡回し、高次元の品質・安定した部品供給を目指す「ツバメ作戦」を展開した。また、中国・アジアなどの地域で生産された四輪車の部品を、日本のフィットや軽自動車に活用。特に中国では早くから四輪車部品メーカーを開拓してきたことが功を奏し、後の広州本田汽車有限公司(広州ホンダ 後の広汽ホンダ)における四輪車現地生産時の迅速な立ち上がり、そして高い現調率の実現につながった。
 二輪車においては、中国・東南アジアの部品メーカーからのグローバル調達が本格的に進展。コミューターの約8割の部品をグローバルで見てベストと判断した3社から調達するメーカーレイアウトを行う「C8G3戦略」へとつながった。機種コンポーネント*1の共通化を合わせて進めることにより、機種のコスト競争力が飛躍的に高まり、ASEAN*2諸国・インドにおける二輪車の高シェア獲得に大きく貢献した。
 こうした一連の購買における取り組みは、全世界の生産拠点への部品供給のQCDを高位安定化させることにつながり、海外のどの工場で生産した製品であっても、同一の品質をお客様へ届けるというMade by Global Hondaの理念を具現化することに大きく寄与することとなった。

  • :機能単位に複数の部品をまとめたもの
  • :Association of South-East Asian Nations 東南アジア諸国連合

真のグローバル調達を目指して

地域専用車、上からブリオ・アメイズ・WR-V 地域専用車、上からブリオ・アメイズ・WR-V

 2010年代に入ると、従来のようにシビック・アコード・CR-Vなどの先進国モデルを各地域で生産・販売するという事業から、各国・各地域で市場ニーズを反映したモデルをそれぞれ開発・生産し、販売するという方向性がより鮮明になった。
 具体的には、ASEAN諸国のブリオやインドのアメイズ、ブラジルのWR-Vなど、地域専用車が増加し、それに伴い、各国仕様の部品も拡大した。調達施策としては各極の購買機能を強化し、地域ごとに最も廉価な部品やお取引先を探していく「最廉価戦略」を開始。タイや中国で競争力がある部品・ローカルメーカーを発掘し、地域で活用するだけでなく日本や北米でも活用する取り組みを行った。結果として、極間(地域間)の部品の輸出入を活発化させることとなった。

 「最廉価戦略」は、確かに廉価な部品や新たなお取引先の発掘につながり、地域への収益貢献ができた一方で、同じ部品をグローバルで複数のお取引先へ依頼する必要が生じ、お取引先とホンダ双方の設計工数の逼迫が顕著になった。事業規模の拡大、社会環境や顧客の価値観の変化に追従するスピードを上げる必要がある中、部品をグローバルに調達する上で設計工数とコストのバランスをいかに見極め、実現するかがますます重要となってきた。
 このような四輪領域におけるゆがみを是正し、既存事業を盤石にし、次の時代への足掛かりをつくるために、ホンダは長い間続けてきたSEDB(販売 Sales・生産 Engineering・開発 Development・購買 Buying)それぞれの部門が自立した「協調運営体制」から二輪・四輪それぞれの事業部の管轄下にSEDB部門を配置する「一体運営体制」への転換を図った。
 この全社の組織改編に合わせ、購買も大改革を行う。それはメーカーレイアウトを主導する購買コスト部門と設計部門との融合であった。購買と設計が融合することで、お取引先の生産現場の声を機種開発の早い段階で図面に反映でき、お取引先側での開発効率を最大化できると考えた。つまり、開発活動のフロントローディング化*3を目指したのである。お取引先の現場を知る購買が設計と協調して仕事をすることで、お取引先の効率的な開発を阻むような商品性や要件を見直す取り組みを展開した。
 具体的には、今後のグローバルモデルに向けて、数量を背景としたモデル横断開発による部品共通化の拡大、製品多様性と部品共用性の両立を目指した「一括企画」をスタートさせた。
 「一括企画」は既存プラットフォームの長期活用、最小限の変更で高い商品性の造り込み、量を束ねられる仕様構築とグローバル4機種の車両パッケージング・部品仕様・部品コストを一括で企画するというこれまでにない大きな方向転換であった。
 さらに「一括企画」と連動して、最源流であるお取引先の現場で継続的なつくりの改善活動を実施。ホンダ起因による開発を阻む要因の排除、ホンダ・お取引先起因によるムダの排除、仕様・つくりの刷新のために、お取引先とともに質の高い図面を造り上げる「ものづくり改革活動」に取り組んだ。これにより、お取引先も含めたサプライチェーン、開発から量産までのエンジニアリングチェーンをも合わせた全体オペレーションにおけるものづくりの進化と安定生産の実現を図ったのである。
 こうした大変革を推し進める一方、さまざまな「部品供給リスク」についても対策を講じる必要があった。少しさかのぼり、2004年の新潟県中越地震の際には、アナログメーターの指針の供給が止まるという事態に直面。指針は、きわめて精密な精度が要求される部品で、全世界のアナログメーターの指針の大半を新潟周辺で生産していた。当時、部品供給リスクを回避するための取り組みとしては一極で集中生産されている部品を洗い出し、在庫積み増しを行うという対応にとどまっていた。
 また、2007年には新潟県中越沖地震が発生。今度はピストンリングの供給危機が起こり、研究所も含め総動員で対応にあたった。マンパワーをかけ、生産影響を最小限に抑えられはしたが、「もっと影響をミニマム化できるのではないだろうか」「未然に手を打つことがあるはずだ」と考え、供給リスクへの備えについて検討を始めた。
 供給リスクに対して必死に向き合う中、東日本大震災・タイにおける洪水・新型コロナウイルス感染症のパンデミック等、部品供給に大きな影響を与える不測の事態が立て続けに発生した。
 2011年の東日本大震災の際には、大きな被害を受けた栃木から、朝霞・狭山・鈴鹿へと購買メンバーが移り、部品供給に問題がないか、いつから生産が再開できるのか、お取引先を含む社内外の関係区と検討を重ねた。一国で発生した災害により、サプライチェーンが寸断され、世界中のホンダの生産拠点が影響を受けることとなった。たとえば、震災により材料系のプラントの被害が報告された。その報告を受けて改めて確認を行うと、多くのTier1(ティアワン)*4お取引先がそのプラントの材料を使用しており、影響が甚大であることがわかった。このようなつながりはこれまで把握しておらず、より緻密にサプライチェーンを管理する必要に迫られた。当面、材料プラントの復旧は難しいため、購買と研究所がタッグを組み、対象部品1つ1つに対して、代替えの材料を用いた部品を開発することで緊急対応を行った。このときの取り組みはその後も生かされ、緊急事態が発生した際にはすぐに研究所と協力して部品開発を行える体制が整った。
 また、同じく2011年のタイにおける洪水の際には、半導体チップの供給が滞り、グローバルで供給網を点検したところ、どの国で何が生産され、どういう商流でどこの国に送られ組み立てられているかの把握が十分でないことが判明した。2011年当時は、お取引先一社一社に電話をし、部品の供給状況を確かめる状態で、大きな混乱が生じてしまった。
 そこで、大規模災害発生時のサプライチェーンにおける被災状況の把握を行うための取り組みの一つとしてSCRKeeper(サプライチェーンリスク管理)を導入した。SCRKeeperとは、お取引先に構成部品をきめ細かく登録してもらうことで、災害時に発生地域を入力すれば、どの部品がネックになりそうかすぐに把握できるシステムである。このシステムの導入により、2016年の熊本地震の際は迅速な対応で部品供給リスクに対する生産影響を最小限に抑えることができた。
 その後、2020年から新型コロナウイルスが世界的に流行し、人手不足から工場が稼働できなかったり、港の使用や船舶の航行が制限されたりするなど生産や物流が滞り、各国の要求生産台数に応えるだけのさまざまな部品や材料の供給が行えない状態となった。これまで行ってきた供給リスク対応では世界規模の災害には太刀打ちできないことは明らかであった。今後も発生しうるさまざまな供給リスクに対し、グローバルでのサプライチェーン強化を図るべく、2020年の購買コスト部門と設計部門との融合に続き、さらなる購買機能の進化について検討が重ねられた。
 これまで購買部門は、営業部門の要望をもとにした生産計画台数を前提としてお取引先と調整を重ね、部品や材料の確保を行っていた。つまり、販売計画追従型の生販システムであった。しかし、さまざまなリスク対応を経て、「部品や材料を確保する」ことにより重きを置いた資源生販プロセスへシフトする方向へ舵を切った。資源生販プロセスの実行を見据え、購買機能とサプライチェーンマネジメント(以下、SCM)機能を統合したサプライチェーン購買統括部を2022年に発足させた。購買機能とSCM機能を統合することで、四輪事業全体を捉えた事業戦略の立案とスピーディーな実行が可能となるとともに、サプライチェーン購買統括部が各部門のニーズを把握した上で、お取引先との部材確保に向けた新たな契約を結び、物流を含めフレキシブルな姿勢でサプライチェーンの混乱に立ち向かう体制を確立していった。

サプライチェーン購買統括部

サプライチェーン購買統括部

 新型コロナウイルス感染症の発生を契機に、半導体に代表されるさまざまな部材が不足した際、1日でも早くお客様に商品をお届けするために、サプライチェーン購買統括部のメンバーが、設計部隊やお取引先とともに材料や半導体の確保に向けた調整を昼夜問わず必死に行うなど、窮地を乗り切るために全力を尽くした。2004年の新潟県中越地震に始まり、多くの苦しい経験を重ねたからこそ、お客様に商品をお届けするという原点に立ち返り、供給側と調達側という対峙する関係ではなく、お取引先とホンダの各部門が計画の時点から連携し合う新体制を確立し、パンデミックといった大禍においても一体での対応が可能となった。購買・SCMの領域を跨いだ協働が危機を乗り越える原動力となった。
 こうして、「コンベアを止めてはいけない」に端を発した購買機能は、電動化・デジタル化時代に対応した四輪事業への変革に向けた運営体制の構築と、グローバルかつ環境変化への対応に取り組んでいる。パワートレインがいかに変化しても、クルマは購買部門で調達した部品でつくられる。今最も重要な課題であるカーボンニュートラルの達成に向け、原材料の調達から廃棄に至るまで、購買機能は、お取引先の皆様とともに進化し続けている。

  • :前倒し可能な工程を初期段階で行うこと。ここでは量産開始までに発生する設計の修正を先行して行うことを指す
  • :自動車メーカーに直接納入する1次サプライヤ
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