チャレンジの軌跡
夢と情熱を胸に
果敢な挑戦を重ねていく
従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場からのスタートであった。
描いた夢に向かって情熱のまま駆け抜けた。
事業はカブ号F型の発売を機に構築した独自の販売網と優れた二輪製品で急成長。
ホンダはスーパーカブC100の日米ヒットやマン島TTレース出場を経て、
二輪業界で確固たる地位を手にする。
1950年代の日本
1951年、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、国際的に日本の戦争状態が終結。同時に日米安全保障条約(旧)が締結された。経済においては朝鮮特需によって各産業での生産が大幅に拡大。政府による重要産業に対する税制優遇措置と相まって、鉱工業・製造業・エネルギー各業界の設備投資が活発に進み、その後の日本経済発展への礎が築かれていった。
「良品に国境なし」を証明した独創のプロダクト
スーパーカブC100(1958年)
「手の内に入るものをつくれ」という本田宗一郎の言葉のもと、誰にでも扱いやすいサイズや機能的なデザインを追求。それまでにない新しい乗りものとして誕生した。50ccでは量産が困難とされていた4ストロークエンジン、レバー操作不要の自動遠心クラッチなど、数々の新機軸を惜しみなく投入。今なお一貫したデザインコンセプトを守り続け、世界中で愛されている。
ホンダ初となる本格オートバイを発売
ドリームD型(1949年)
より速く快適で、本格的な二輪車を目指して開発。国産二輪車は鋼管フレームが主流だった当時において、量産性が高いプレス鋼板のチャネルフレームの採用と美しいマルーン色に塗装された車体は一際目を引いた。またクラッチ操作を必要としない、チェンジペダルだけで変速ができる2速トランスミッションも開発。誰もが簡単に扱えるオートバイへの挑戦だった。
つくる人、本田宗一郎。売る人、藤澤武夫
両者の出会い(1949年)
初対面は1949年8月。互いに一目で気に入ったという。性格が全く違い仕事の得意分野もまるで違っていたが、気の合った理由を「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたからだ」と異口同音に語った。つくる人、本田宗一郎。売る人、藤澤武夫。まさに適材適所の極みであり、見果てぬ夢を本気で語り合い共有できるコンビの誕生である。
DM戦略で普及した自転車用補助エンジン
カブ号F型(1952年)
戦後復興とともに補助エンジン付自転車が重要な移動手段となり、数え切れない競合商品がひしめく中「白いタンクに赤いエンジン」の斬新なデザインで一世を風靡。また当時専務であった藤澤武夫の大胆なアイデアのもと、全国の自転車販売店にカブ号F型の魅力を紹介したDMを発送すると応募が殺到。400店余りしかなかった販売網が約1万3,000店まで拡大した。
若い力で挑んだ世界の壁
マン島TTレース出場(1959年)
1954年、ホンダは世界最高峰と言われていたマン島TTレースへの出場を宣言。社運をかけた大プロジェクトを任されたのは河島喜好を監督とする20代の若者たちであった。世界との力の差を痛感しながらも前進を繰り返し、1959年のマン島TTレース初参戦ではメーカーチーム賞を獲得。その後も勢いは止まらず、1961年にはついに悲願の優勝を果たした。
- ・ドッジライン宣言
- ・単一為替レート、
1ドル360円 - ・日本工業規格
(JIS規格)制定 - ・北大西洋条約機構
「NATO」調印
藤澤武夫が常務取締役と
して入社
C型 生産・販売
日米対抗オートレース大会で
C型クラス優勝
初の本格的オートバイ
ドリームD型生産・販売
- ・公職選挙法公布
- ・朝鮮戦争勃発
- ・国勢調査、
日本の総人口
8,319万人
東京営業所を
中央区槇町に設置
東京工場を設立
(東京都北区上十条)
製品の海外輸出を開始
(台湾向けA型300台)※1
- ・WHO(世界保健機関)
日本の加盟を承認 - ・日米安全保障条約調印
- ・自動車登録令公布
ホンダ月報に「三つの喜び」掲出
ドリームE型で箱根越えテスト
成功
ドリームE型に初の取扱説明書
初の4ストロークエンジン
ドリームE型発売
- ・日本、IMFに正式加盟
- ・道路交通取締令施行
- ・軽自動車免許制定
東京工場を閉鎖し白子工場
(埼玉工場)を設置・操業
浜松より東京(中央区槇町三丁目)
へ本社移転
4億5,000万円の輸入
工作機械購入を決定※2
名古屋・四国・大阪・九州支店設立
カブ号F型発売
カブ号F型を台湾ほかへ輸出
(ホンダの海外事業スタート)
カブ号F型発売に伴い
自転車店を核にした業販体制構築
- ・NHK東京テレビ局、本放送開始
- ・日米友好通商航海条約調印
- ・朝鮮戦争休戦協定、
板門店で調印
- ・第1回全日本自動車ショー開催
- ・二輪車のサイクル区別撤廃
合理的配列措置実施 - ・第1次道路整備5カ年計画決定
- ・神武景気始まる
- ・通産省、国民車構想を発表
- ・日本、GATTに正式加盟
- ・初のトランジスタラジオ発売
(ソニー)
二輪車1年間保証制度を開始
ホンダ初のOHCエンジンを
搭載したドリームSA型(250cc)・
ドリームSB型(350cc)発売
- ・南極地域予備観測隊、観測基地を
「昭和基地」と命名 - ・国産車愛用を閣議決定
- ・欧州経済共同市場
(EEC)条約調印
埼玉製作所 白子工場内に
技術研究所発足
浅間火山レースでジュニアクラス
1位から5位までをホンダが独占
東京証券取引所に上場
ホンダ初の2気筒エンジン搭載
ドリームC70発売
- ・東京タワー完工
- ・関門国道トンネル開通
- ・岩戸景気始まる
- ・初のインスタントラーメン発売
(日清食品)
荒川高速テストコース設置
スーパーカブC100発売
汎用エンジンVNC型・
VND型発売
- ※1 : ホンダで初めての海外輸出はA型を台湾へ輸出したことから始まった。これは、大阪の代理店からのつながりでバイヤーを経由しての輸出であった。
- ※2 : 総額4億5,000万円をかけた最新鋭の輸入工作機械の導入を決める。資本金600万円だった企業が決断した、未来への投資。導入された機械の一つハーバードシップ HYDR-6A(愛称sip)は実働から63年を経過した今も生産技術統括部で稼働を続ける。「日々のメンテナンス成果もありますが、現在も大きな役割を果たしている。むしろsipじゃないと作れないものだってあるんです」と現場の信頼度も高い。轟音を響かせ息をし続けるsipを見たら、本田宗一郎もさぞかし喜ぶことであろう。
- ※3 : 1956年1月発行のホンダ社報23号に掲載された本田宗一郎による最初の社是は「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する」。
- ※4 : 1959年に海外初の販売現地法人であるアメリカン・ホンダ・モーターを設立し、自ら販売網の構築に着手した。現在ホンダの北米事業は、販売、生産、研究開発という機能をあわせ持った自立したオペレーションを確立しており、ホンダの海外地域事業の手本ともなっている。2000年代中頃の北米事業への累計投資額は約80億ドルを超え、北米での直接雇用は30,000人以上となった。