正攻法による車体設計が短期開発を可能に
4カ月後には車両を完成させねばならないと条件付けられた時点で、エンジンは新規に開発していられないのは明らかであった。というより、エンジンは前年モデルとなるNV0Aの設計を踏襲することにすれば、新規開発のような時間はかからないから、開発の本格スタートを10月まで引っ張ってもなんとかできる、という算段があったのだ。しかし、それにしても、そのエンジンを搭載する車体はどうするか?
初代NSR500であるNV0Aは、燃料タンクをエンジンの下に配置する上下逆転レイアウトを採用して大きな注目を集めた。そして、当時のホンダの絶対的なエースライダーであったフレディ・スペンサーが同車に乗った世界グランプリ5戦のうち3戦で優勝を飾った。しかし、通常レイアウトの車両であれば燃料タンクがある場所を4本のエキゾーストチャンバーが通ること、そしてエンジンの下に燃料タンクを置くことには、それぞれ大きな弊害があった。
それらは、時間をかければ潰せたかもしれないし、燃料タンクをエンジンの下に配置する車体構成ならではの良さを伸ばせたかもしれない。だが、当時のHRCにそんな余裕はなかった。NV0Bにおいては、最小限の労力で高性能なマシンを実現させ、とにかく結果を出すことが求められていた。もはや是非もなく、上下逆転レイアウトは使わず、スタンダードな車体構成で行くと決断された。
そこで思い起こされるのは、前作のNV0Aが上下逆転レイアウトを採った背景。当時のHRCにおいて車両開発や競技活動の統括責任者の立場にあった福井威夫(※のちの本田技研工業社長)から、「ただ4気筒を積む、というだけじゃダメだ。車体でも何か特別なことを考えろ」という強い指示が、NV0Aのときにはあったことだ。しかし、二輪モータースポーツ全方位展開を推進した当事者でもあった福井は、HRCの開発現場に強い負荷をかけていると当然認識していた。そして、1984年の夏〜秋頃に車体構成の検討が行われたNV0Bでは、上下逆転レイアウトを採らない判断にまったく異を唱えなかった。
NV0Bの車体設計に参画した工藤隆志(※2020年に他界)は、2012年の取材で次のように語っていた。「福井さんに(上下逆転レイアウトを採らないことを)反対された記憶はないです。実際に設計する我々としても、コンベンショナルで行くことについての葛藤のようなものはなかった。そんな余裕はなかった、というのが正直なところです」
また、やはりNV0Bの車体設計担当であった山本 馨は「1985年はチャンピオンを取り返すことが一番の命題でした」と言う。「だから、ちゃんとレースができるクルマ、勝てるクルマを作らないと、という意識が、我々開発者自身に強くありました」