2戦目にして改良版を持ち込むが2台予選落ちの屈辱を味わう
NR500にとっての2戦目は、1979年の世界グランプリ最終戦でもあったフランスGP。だが、片山もグラントも、まともにタイムアタックを行うことができずに終わってしまった。(Photo/Shigeo Kibiki)
8月12日のイギリスGPのあと、4台のNR1は日本へ送り返された。10馬力アップと10kg削減を断行し、車両をヨーロッパに戻して、8月31日から予選が始まるフランスGPに間に合わせなければならなかった。
エンジンには、バルブタイミングの変更やキャブレター口径のφ22mmからφ26mmへの拡大、ピストンを手作業で削っての軽量化といった策が講じられた。おかげで、イギリスGP出場時は95PSだった最高出力がフランスGP仕様では一気に108PSへ引き上げられた。車体の軽量化については、車両開発リーダーの福井や車体領域の監修役であった神谷 忠が自らリューターを握り、応力がかからないと判断する部位を削っていく、という荒っぽい仕事によって11kgも削ぎ落とした。
1戦目のイギリスGPでは、作業に集中するためにサービステントやピットを完全に閉ざしたホンダだったが、2戦目のフランスGPではそのなかの様子を報道関係の人間が見たり写真に撮ったりすることを容認。おかげで車体の構成部品でもあるエンジンの着脱から何からが恐ろしく大変なNR1の整備が明らかになった。(Photo/Shigeo Kibiki)
そして、4台のNR1は再びヨーロッパへ向かった。貨物便を使う余裕はなかったので、モノコックもエンジンもスーツケースなどと同じ手荷物の扱いとして押し込み、フランスGPに行くスタッフと同じ旅客便で飛んだ。イギリスGPは留守番だった福井も、今回は現場に赴いた。
カムギアトレインの耐久性が確保されていない状況に変わりはなかったことから、フランスGPでのNR1には走行セッションごとに新しいエンジンに載せ替える力技が取られた。おかげで、ル・マンのパドックに設けられたホンダのサービステントのなかでは、分離されたモノコックやエンジン、スイングアームなどがあちこちにあり、それらを扱う大勢のスタッフが黙々と作業に取り組む光景が出現することになった。
エンジンを抜いてしまうとリアアームは保持できない構造であるNR1。フランスGPでのNR1のモノコックフレームには、軽量化のために追加で開けられた穴がいくつも確認できた。(Photo/Shigeo Kibiki)
多大な努力が傾けられたフランスGPであったが、NR勢が見せた戦いの内容と結果はイギリスGP以上に惨憺たるものだった。タイムアタックを後回しにしてセッティングを決めようとするもうまく進まず、そのうちに時間がなくなって、片山とグラントはそろって予選落ちとなったのだ。
それでも、負傷などによる欠場者が出れば決勝レースを走れる可能性はあった。だが、HIRCOのチームマネージャーであったジェラルド・デビソンは「勝ち目のない状況で、そうまでしてレースに出るのは無駄だ。やめるべき」と主張。「レースを走らずデータも取らずに帰ったのでは、ここへ来た意味がない」とする福井たちと激しくぶつかった。
最終的には福井たちの意見が通され、決勝レースのスターティンググリッドの最後尾に片山とグラントは並んだ。ところが、欠場の見込みだった2名のライダーがレースを走ることになり、2台のNR1はオフィシャルによってグリッドから強制退去させられた。
それは屈辱以外の何物でもなかった。しかもフランスGPはこの年最後のグランプリレースであり、公の舞台で汚名を回復するチャンスがNR1に訪れることはもうなかった。
1979年のレース参戦終了後も、NR1の開発は続けられた。写真は、吸・排気バルブアングルを55°に狭めた0Xエンジンの実走テストの現場で撮られたもの。バルブアングルを小さくすると、それだけ燃焼室をコンパクトにでき、燃焼効率を向上させて、パワーをより引き出せる。0Xエンジンのオリジナルのバルブアングルは65°で、それを10°も狭められたのは、再生産が行われたマルエージング鋼線を使用したバルブスプリングを使い出したからであった。(Photo/Honda)
2台予選落ちという結果は、突貫作業とはいえ最高出力108PS、車重122kg、パワーウェイトレシオ1.13を実現させたNR1の能力を正しく反映したものではない──そんな不満を強く抱いた開発リーダーの福井をはじめとするNRプロジェクトの面々は、フランスGP後すぐにイギリスへ渡り、当初の予定になかったNR1のテストをドニントンパークで実施した。
ここでNR1に乗ったのはグラントとロン・ハスラムだった。特にハスラムは、NR1初ライドながら当時のドニントンにおけるGP500のコースレコードから約3秒落ちで走行。NR部隊のスタッフたちを大いに勇気づけることになった。
その後もNR1の開発は意欲的に続けられ、片山などによる実走テストも繰り返された。だが、1980年に入ってしばらく経ったところで、総大将である入交が大きな決断を下した。それは、モノコックフレームの開発を中止し、標準的な車体のNR500を新たに用意して戦う、というものであった。
入交はNRプロジェクトのスタッフたちに対して、苦しい胸の内を吐露しながら発破をかけた。「モノコックフレームには可能性があるのかもしれないが、これまでのような結果にもならない結果ではもう話にならない。やりたいことをやる時期は終わっており、いまは、やらねばならないことだけをやるときである」と。
かくして、1980年モデルのNR500(開発記号「NR2」)は、NR1とは姿形がまったく異なるマシンとなって登場することになるのである。
Vol.05に続く……