1979 NR500のレース
text=KIYOKAZU IMAI
デビュー戦を迎えたNR500と、それに跨がり集中力を高めている片山敬済(かたやま たかずみ)。1979年イギリスGPのプラクティス出走前の一枚。(Photo/Honda)
勝負する権利すらなかった1年目のNR
デビュー戦は2台リタイア、2戦目はともに予選落ち
1979年6月7日にホンダが開催した記者発表会で展示された初代NR500(NR1)。まだテストコースしか走っていなかった段階であり、8月12日のデビュー戦イギリスGPに持ち込んだ仕様とは異なる形状のカウルを装着していた。(Photo/Honda)
1977年12月の「世界グランプリ復帰宣言」で復帰の年と定めた1979年のシーズンが3月に開幕したとき、初代NR500(NR1)はこの世にまだ存在していなかった。とはいえ、NRプロジェクトの面々は困難な仕事を猛然と進めていた。搭載する4気筒エンジン「0X」が4月に形を成すと、昼夜2交替制を敷いてベンチテストを一日じゅう行うことを何週間も続けた。やがてモノコックフレームもエンジンの形状に合わせて仕上げられ、先行して開発が進められていた倒立フロントフォークやリム径16インチの新型コムスターホイールなどが組み付けられて完成車となった。
そして4月27日、NR1の1号車が日本自動車研究所のテストコースで初走行。1カ月後の5月28日には、竣工したばかりのホンダ栃木プルービンググラウンドにおいて、新たにホンダと契約した1977年世界グランプリ350ccクラス王者の片山敬済による初ライドが行われた。続いて6月7日には、当時は原宿のビルに仮住まいしていたホンダの本社で記者発表会が催された。さらにその翌週の6月13日には鈴鹿サーキットでテストを実施。ここには、レースでNR1に乗るもうひとりのライダーのミック・グラントが片山とともに参加した。
鈴鹿テストを走る NR1。そのサウンドは四輪のV型8気筒レーシングエンジンのものに近い、凄みのある音であった。写真のライダーはグラント。彼はイギリス国内のレースでの活躍が知られたライダーで、当時はホンダ・ブリテンの契約。そのレーシングチームを率いていたのは、ホンダが世界グランプリ活動の欧州拠点としてイギリスに設立したHIRCOのマネージャーでもあったジェラルド・デビソンで、彼の推挙によってグラントがNR500のデビューを担うライダーのひとりとなった。(Photo/Honda)
「自分が乗っていたTZ350(ヤマハの350ccの市販レーサー)くらいには走る」。NR1に初めて乗った5月28日に、片山はそうコメントした。それは無理もない評価だった。4気筒エンジン「0X」は、その時点では100PSをずっと下回る程度のパワーしか出せていなかったからだ。
6月13日の鈴鹿テストは、NR1にとって初のレーシングコースでの走行であった。ここでは、強力なエンジンブレーキが問題点として浮上。レース経験のない者が多かった NRプロジェクトの技術陣には、4ストロークのエンジンブレーキの強さは2ストロークに対してむしろアドバンテージになるという考えがあったが、決してそうではないことに気がついた。
「パーシャルにしてもエンジン回転が安定しない」という片山とグラントの訴えも、NRのエンジン技術者たちはすぐには理解できなかった。レーシングエンジンはとにかくレスポンスがいいほうが好ましかろうというのが当時の彼らの考えであり、NR1が搭載した0Xエンジンではフライホイールが極めて軽いものにされていた。
おかげで、出力を一定にさせたパーシャルの状態でコーナーを抜けたいとライダーが望んでも、NR1はスロットル開度の微妙な変化に敏感に反応してしまうのだった。
サイドラジエターの冷却性能不足は重大であった。また、NR1においてエンジンは車体の一部となって荷重を受ける構造体として機能しているが、そのクランクケースにクラックが入ってオイル漏れを起こすなど、機械的な不具合もいろいろ出た。ひときわ深刻であったのは、カムギアトレインが早期に破損する問題。詳しくは第2章に記しているが、0Xの設計では根本解決できないことであり、グランプリレースの距離を走り切るには不十分な耐久性しかないことは承知しつつ走らせるしかないのだった。
鈴鹿テストでのピットで、片山敬済の声に耳を傾けている一同。両手を腰に添えている写真中央の人物が入交昭一郎。NRプロジェクトの総大将であると同時に、HY戦争に向かいつつあった当時のホンダの二輪開発のトップでもあった。(Photo/Honda)
4月末にホンダは、6月23日決勝のダッチTT(オランダGP)を世界グランプリ復帰戦とする発表を行っていた。だが、到底間に合わない状況のため、オランダはキャンセルし、8月12日決勝のイギリスGPにNR500のデビュー戦を再設定した。
そうであっても十分な時間はないのが実情だったが、当時の世界グランプリロードレースのシーズンは短く、イギリスGPを見送ると9月2日決勝の最終戦フランスGPしかない。したがって、NR1が成熟不足な状態であることは明らかであろうが、もう出ていくしかなかった。